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アジア主義と置賜(1) 宮島詠士 vs 中野正剛 [アジア主義]

中島岳志著『アジア主義ーその先の近代へ』(潮出版社 2014)を毎日少しずつ読んでいる。『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書 2016.2)の最後が、中島氏の「アジア主義」再考の主張で締められていたことから手に取った。非常に興味深く読みつつ、「頭山満、動き出す」の第五章に思いがけなく旧米沢藩士曽根俊虎が登場したことから、置賜に脈打つ「アジア主義」の系譜が浮かび上がることになった。しかも、その流れこそが「アジア主義」の本来真っ当なものなのである。この地に潜む最も良質な鉱脈に行きあたっているのかもしれない、そんな興奮もおぼえつつ、自分なりに跡づけてみることにします。


   *   *   *


「第九章 孫文の登場—宮崎滔天、内田良平、南方熊楠」で、この著『アジア主義』の視点がよくわかる文にゆきあたった。


《日本のアジア主義者たちは、何故に孫文の革命を命がけで支援したのでしょうか。その認識が、当事者によって語られています。

 『東亜先覚志士記伝』では、「我が志士が如何なる覚悟を以つて斯くの如く蹶起したか」と問い、次のように述べています。

 第一は多年の積弊によって自ら腐爛せんとする大支那を覚醒せしめようとする孫逸仙等の革命主義が、東亜の大局を救ふために必要なる手段であることを認めてゐたのは勿論である。従って支那の革命に参加して兵火の巷に隣邦志士としての義侠の血を流がすことは彼等の元より甘んずる所であった。そして彼等の経綸に照して特に重きを置いてゐたのは孫逸仙等の革命思想が滅満興漢といふことを標識としてゐる点で、漢民族によりて支那の革命が遂行される場合、満州民族は劣敗者となって北方の故郷満州方面に衰残の運命を托し、自然に露西亜の南下政策に対抗し、満州、西伯利亜を席巻し、これらの地を我が勢力下に置くことゝなれば、東亜の形勢は茲に定まり、大陸の地に我が皇徳を光被せしめることか出来る,是れ東亜の危局を救ふと共に我が国勢を伸張する所以である。我が東方志士の一団は即ち斯の如き遠大の見地から支那革命に参画し初めたのであって、愛国と義侠との両精神が合致して南清の風雲に心を躍らせた次第であった[黒龍会一九六四a二八五一一六五二]。

 つまり、アジア主義者たちが「蹶起」に参加した理由は、「東亜の大局を救ふため」であったと同時に(いやそれ以上に)、革命をきっかけとして満州・シベリアの地を「我が勢力下に置く」ことで[国勢」の「伸張」を果たすことができると考えたからでした。

 これは重要なポイントなので、何度も繰り返すことになりますが、アジア主義者たちが孫文に共感したのは、孫文が「滅満興漢」という[標識」のもとに革命を進めようとしていたからでした。清朝は満族の国であり、その国を打倒しようとする革命派の運動は、漢族の興隆を期した[反満族」の運動であると捉えたのです。そのため、満州に敗退した清朝の残党を、日本が支配下に置くことによって、満州の権益を確保できるという考えが共有されることになりました。

 宮崎滔天が同様の認識を持っていたかどうか、定かではありません。おそらく彼の中では、中国革命に対する義侠心が大半を占め、将来的な日本の侵略的な大陸進出については意図していなかったと思われます。しかし、日本のアジア主義者の多くは、『東亜先覚志士記伝』が雄弁に語っているように、「我が国勢を伸張する」という「遠大の見地から支那革命に参画し初めた」ため、行動が熱を帯びれば帯びるほど、帝国主義的姿勢を加速させることになりました。そして、その「愛国と義侠との両精神が合致」した感情は、心躍るロマンとしてアジア主義者たちに共有されたのです。

 アジア主義は、ここに大きな課題を背負い込むことになりました。》


《日本のアジア主義者の多くは、『東亜先覚志士記伝』が雄弁に語っているように、「我が国勢を伸張する」という「遠大の見地から支那革命に参画し初めた」ため、行動が熱を帯びれば帯びるほど、帝国主義的姿勢を加速させることになりました。》まさに大東亜共栄圏構想に潜む帝国主義的野心の指摘である。ここを読んで、宮島詠士の中野正剛に対する怒りの様を思い起こす。日支事変(1937)から間もなくの頃のことである

《丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八(詠士)は、わたくし(木村東介)のさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。》

木村東介「宮島詠士」の文章中、最も強烈な印象の場面である。この報告を東介から受けた正剛は詠士を「気狂い親父」と言って吐き捨てたと言う。しかし日本の敗色濃厚になりはじめた昭和1810月、中野正剛は割腹自殺を遂げる。詠士が世を去って180日目のことだった。東介は「『支那の無辜の民を殺し……日本青年の骨を中国の山河に哨して』といった詠士不朽の言が敗戦を目の前にしてついに割腹を決意するに至った正剛の脳裏を去来したことは、想像に難くない。」と振り返る。


一世を風靡する中野正剛(1886-1943)に怒りを叩き付ける宮島詠士1867-1943。実は詠士こそ真っ当なアジア主義者者であったのではないか。遡れば興亜会創始曽根俊虎(1847-1910)が在り、曽根は大きく雲井龍雄1844-1871)の影響下にあった。幕末から明治の激動の時代、まさにこの置賜から発して真っ当な道を模索して止まぬその軌跡を跡づけられたらと思う。その課題はたしかに今に通ずる。(つづく)


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めい

加藤紘一元衆院議員が亡くなった。「アジア主義」の流れに位置づけられる山形県人である。
《1979年12月の大平訪中に特派員として同行、人民大会堂での日本側答礼宴で、なんと加藤が中国語であいさつしたことにびっくりした。中国語を話す日本人政治家を、それまで聞いたこともなかった。》

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靖国・国家神道復活と対決した護憲リベラル<本澤二郎の「日本の風景」(2478)野中広務・小泉純一郎に裏切られても屈しない
http://www.asyura2.com/16/senkyo212/msg/623.html
投稿者 笑坊 日時 2016 年 9 月 11 日 11:55:32: EaaOcpw/cGfrA j86WVg    

http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52149361.html
2016年09月11日 「ジャーナリスト同盟」通信

<加藤紘一の不屈の生涯>

 昨夜のネット情報で加藤紘一の死を知る。77歳という若さだった。彼を知ったのは、大平内閣の官房副長官をしていたころで、秘書の森田君と親しかった関係である。1979年12月の大平訪中に特派員として同行、人民大会堂での日本側答礼宴で、なんと加藤が中国語であいさつしたことにびっくりした。中国語を話す日本人政治家を、それまで聞いたこともなかった。加藤は宏池会・最後の自民党護憲リベラル派として森喜朗の靖国・国家神道復活派と対決した。ちなみに右翼政党に変質した現在の自民党は、小選挙区制の悪しき成果である。小選挙区制が今の日本会議の跋扈を許している。

<大平正芳の秘蔵っ子>

 官房副長官というポストは、時の首相が後継者を養成するポストで知られる。
 宏池会は日本国憲法制定時の吉田茂首相の後継者・池田勇人が創設、前尾繁三郎・大平・鈴木善幸・宮澤喜一・加藤紘一の下で継承されてきた自民党を代表する名門派閥。堅固な護憲リベラルが中国との国交正常化を実現した。大平内閣のODA実施によって、中国は経済成長の土台を構築することに成功した。

 大平の下で、加藤は政治を学んでゆく。途上国支援の基礎は、先進国によるインフラ整備にある。この大平政治によって、日本人は中国人に対して、多少の恩恵を施したことになる。日中友好が大平の大義であり、それは加藤の正義でもあった。大平は歴史の大義を貫くことで、厳しい試練を受けながら生涯を終えた。加藤もまた同様の運命を歩いて、より悲惨な運命を辿らねばならなかった。極右・靖国派との攻防戦である。

<靖国派・森喜朗内閣打倒に決起>

 戦争神社・靖国の恐怖を、国民に伝えた勇気ある政治家は加藤である。靖国神社史観が境内にあることを、彼はいち早く見つけた。「これを欧米政府が発見するとどうなるか」と一人苦悶した。陳列されている品の数々は、まさに戦前の大日本帝国・国家神道を正当化するものばかりだ。この異様な陳列物に度肝を抜かれたようだ。
 彼の指摘まで筆者は、戦争神社のことに気付かなかった。

 戦前の戦争勢力の継承者であり、過去を正当化する右翼の本体が靖国神社や伊勢神宮など一連の神社神道、これの総体こそが戦前の国家神道である。それが形を変えて復活している。その代表の森喜朗内閣ではないのか。戦前の復活は隣国どころか、世界から袋叩きに会うだろう。
 ちなみに、森は「日本は天皇中心の神の国」と発言、国民の失笑と怒りを買った。支持率は最悪である。この場面で、加藤は決起した。人は「加藤の乱」と呼んだ。天は加藤に味方するはずだった。平成12年秋の臨時国会、野党提出の森内閣不信任案に加藤・宏池会と山崎派が同調すると、そのあとは総辞職か解散になる。

 無念にも、この戦いに加藤は勝利することが出来なかった。靖国に屈しなかったが、小選挙区制に敗北した。この辺の当時の詳しい様子を知らないが、加藤の決断の背景には、いまの日本会議・靖国派・国家神道復活派の暗躍に気付いたため、と分析できる。

<野中広務・小泉純一郎に裏切られても屈しない>

 筆者は当時、次男の医療事故で精神が家庭に集中していて、永田町からそれていた。政局取材どころではなくなっていた。加藤の乱が話題になった場面では、三男のラスベガスでの結婚式に出かけていた。そのころ、アメリカでは共和党ブッシュと民主党ゴアの大統領選挙で、フロリダ票の不正開票疑惑が発覚、日本と同様にワシントンは揺れていた。

 入れ墨をした米海兵隊の若者とサウナで鉢合わせしたのも、この時である。「沖縄はすばらしい」という意味は、木更津レイプ殺人事件の取材で初めて理解できたことである。人殺しを職業とする海兵隊員の「すばらしい」とは沖縄の女性のことだった。

 遠方から眺めていた加藤の乱は、成功するかに見えた。森内閣のもとで参院選をすれば、間違いなく自民党は大敗することが分かっている。幹事長の野中も、加藤と盟友関係にあった小泉も加藤を支持するだろう、とみたのだが、実際はその反対だった。二人とも靖国派に寝返っていた。
 森内閣を継承した小泉の靖国参拝は、この時点で日本会議が主導権を握っていた何よりの証拠である。大義ある加藤派の決起も、野中らの切り崩しに四苦八苦させられる。

<小選挙区制に敗北>

 思うに、加藤の乱の失敗は、小選挙区制にあった。公認・金・ポストを全て握る執行部に盾突くことは、多くの議員にとって不可能である。執行部独裁・自民党独裁の根源は、小選挙区制にある。自由な言論を許さない独裁体制の自民党に変質していたことに対して、加藤の認識が甘すぎた。
 このことへの視点を欠いた加藤の乱だった。野中の加藤派切り崩しが成功して、加藤は屈してしまった。小選挙区制は党内民主主義を抑制する効果がありすぎる。

 拙著「小選挙区制は腐敗を生む」(エール出版)を喜んでくれた人物は、読売ナベツネの先輩政治部長だった多田実である。小選挙区制を強行した犯人は小沢一郎である。
 その後の小泉内閣も、現在の安倍内閣も、小選挙区制と自民党補完政党である公明党創価学会の支援が3分の2の原動力となっている。
 大平には参謀の鈴木善幸がいたが、加藤にはいなかった。靖国に屈服しなかった加藤だったが、小選挙区制下の野中執行部に敗北してしまった。

<派閥の分裂から個人攻撃>

 大平の遺産である宏池会を分裂させてしまった加藤である。この場面も詳しく知らない。哀れ過ぎる宏池会へ足を向ける気も起きなかった。息子の医療事故・介護に明け暮れる毎日と、宏池会衰退が不思議と重なる。

 ほどなくして加藤事務所の腐敗が暴かれていく。靖国派の攻勢であろう。山形の家も右翼に燃やされる。大平も家を消失している。これも右翼の手口なのか。
 かつての宰相候補も形無しである。しかし、加藤の精神は右翼の攻撃に屈して、靖国YESを受け入れることは断じてしなかった。議員辞職に追い込まれても、再び機会を狙って活動を止めなかった。

<ぶれない政治を貫いた加藤>

 こんなことは書きたくはないが、いま加藤は先輩の大平と再会しているころだろう。大平は加藤の決起に満足しているはずだ。大平の精神を最後まで貫いた加藤に、象のような細い目を一層小さくして喜んでいるはずだ。宏池会から新しい芽が必ず出る。必ずいい根っこが宏池会に隠れて存在している。そう信じたい。安倍の尻に引かれている岸田・宏池会でいいわけがないのだから。
 大平も加藤も、宮澤も鈴木も護憲リベラルを貫いた。日中友好を貫徹した。国民の根強い支持があるためだ。悪しき選挙制度を改良すれば、いい芽がでる。加藤の護憲リベラルが芽を出すだろう。

<宏池会復活は必ず来る!>

 大平や加藤に続くであろう宏池会が、いずれ復活する。極右が永遠に続くはずもない。日本の極右の正体を知ったとき、中国や欧米が優しく迎えてくれるだろうか。NOだ。国民が護憲リベラルの存在に気付くときも来る。
 加藤紘一の生涯を活かす日本と日本人でありたい。宏池会再興を1日も早く迎えたい。
2016年9月11日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)

by めい (2016-09-11 12:06) 

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