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アジア主義と置賜(2) 曽根俊虎ーアジア主義の嚆矢  [アジア主義]

『アジア主義』の中に曽根俊虎1847-1910は、「興亜会の設立者は海軍軍人の曽根俊虎。のちに宮崎滔天と孫文を引き合わせた人物」(102p)として登場する。


《興亜会(こうあかい)は、1880明治13年)に日本で最初に設立されたアジア主義の総合機関。日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である。》(ウィキペディア) 曽根が宮島詠士の父宮島誠一郎らとともに設立した「振亜会」がその前身として在る。


 《(興亜会の)設立目的は、アジア諸国の提携と交流の促進でした。曽根はアジアにおける欧米諸国の植民地支配拡大に脅威を抱き、アジアの連帯と振興の重要性を説きました。

 当時の日本にとっては、ロシアのアジア進出が具体的な脅威として追っていました。そんななか、日本と中国がいがみ合ったままではロシアの進出に有利に働くという懸念が広がり、日中両国の提携の重要性が一部で論じられ始めたのです。

 曽根は、官民を問わず具体的な交流を通じて日中の提携を促進する必要があると考えました。そして、中国語・朝解語を習得するための語学学校の設置や情報交換・提供のための会報の発行、海外情報通信員の中国派遣などをスタートさせました。

 しかし、興亜会設立の当初はなかなか中国側から理解を得ることが難しく、反発されることもしばしばでした。当時は、琉球処分(一八七九年)の直後で、両国関係は領土問題をめぐって緊張状態にありました。中国側では、日本人中心の興亜会の運営を懐疑的に見る人が多く、交流はなかなか進展しませんでした。しかし、日本側の会員数は徐々に増加し、十数名で発足した会は、一年後には三〇〇名を超える規模にまで発展していました。日本において一定の規模を有したアジア主義団体としては、この興亜会が最初の存在といえるでしょう。

 興亜会は、一八八三年に亜細亜協会と名称を変更しました。これは「興亜」を日本人が掲げることに対する中国側からの嫌悪感が存在したためといわれています。》(『アジア主義』103p)


狭間直樹京都大名誉教授は「初期アジア主義についての史的考察(2)第一章曽根俊虎と振亜社」の中でその真っ当さを評価する。


ひとつは「万国公法」に基づく公平性であり、その根底には、儒学的教養に忠実な「政治とは民生の安定にある」とする思想があったことである。狭間は言う。


《曽根の書物(『清国近世乱誌』1879/天皇の褒辞を受けた)が当時に抜きん出ているのは、まず「万国公法」の立場にたつことを明言していることである(それが中国の内乱利用の観点と即応するものであることは後述)。つまり、太平天国は「官」に相い対する「敵」なのであって、「賊」なのではない。ゆえに、一方で反乱の首魁洪秀全を英雄とし、かつ反乱討伐の殊勲者曽国藩の偉功を同時に顕彰することができるのである。反乱の発端が清朝の政治の腐敗にありとする視点は揺るぐことなく、しかも「敵」軍の翼王石達間の敗死の場面でとくに論賛をかかげて、その「大志」「仁義」を称揚し、「官』軍の李鴻章の勝利を描いて浸の道義的違約を責めているのを見れば、曽根の執筆意図が、太平天国の失敗を惜しむと言えば過当になるにしても、清朝政治の改革の必要を訴えることにあることは疑えないのである。

 話がすこし横道に逸れてしまったが、ここでは、一国の政治は民の安定した生活を保証することに責任を負うものでなければならないとする儒学の基本的教義に、曽根俊虎が立っていたことを.確認しておけばよい。興亜イデオロギーはそれと表裏の関係にあるものである。『清国近世乱誌』での”乱”の位置づけ、「大志」「仁義」の評価はそれを物語るし、しかもそれに加えて「万国公法」の視点でもって叙述しているのである。

 この立場から欧米の侵略に虐げられるアジアの構図を認識にのぼすとき、百尺竿頭一歩を進めて、まっとうなアジア主義、興亜のための連携のイデオロギーヘと向かうであろうことは、ごく自然に予想されてよい一つの理路であろう。ほかにそのような理路をたどったものがいくらもいたはずだが、振亜社の形をとってそれを組織化することに着手したのは、まごうかたなく、曽根俊虎の功績である。》(下線引用者)

 

もうひとつ、明治19年の伊藤博文宛の手紙に見る。「日本の国益を追求するのは当然だが、その国益は相手との対等の関係において実現されねばならない」という真っ当さを狭間は読み取る。清国海軍艦隊水兵が長崎で引き起こした暴力事件に対して曽根がどう言ったか。


《目下長崎事件の如きは素より小事なりと雖ども、亦故無くして起りし者には非ず。夫れ本邦欧米人を見るとは大いに異なりて、人の清国人を見るは之を牛豚視して軽蔑を加ふるを以て、清国人も亦本邦人を軽蔑して「假鬼子(キャグイツー/ニセヲニゴ)」と呼ぶに至りぬ。》


狭間は、日本人が欧米人にはへつらいつつ清国人を牛豚視することへの極めて真っ当な苦言と評価する。

 

もとよりそこではアジア主義は、「帝国主義的野心」とは無縁であった。宮島詠士がその流れを汲むことは明らかである。中野正剛への怒りの所以である。(つづく)


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【付記】 『遠い潮騒—米沢海軍の系譜と追憶ー』(松野良寅 米沢海軍武官会 昭和55年)より 

曽根俊虎   海軍大尉


 つとに英学に関心の深かった曽根俊虎は、慶応四年戊辰戦争の渦中から明治二年にかけ、渡辺洪基について米沢で英学を修め、次いで東京麻布の上杉邸にいた甘糟継成を頼って、吉田賢輔について英学を修める。

 曽根と共に英学を修めた内村良蔵や平田東助は大学南校に、樫村清徳は大学東校に進み、後日それぞれ名をなすが、曽根は、明治四年海軍に入った。

 「東京丸」乗組を申付けられたのが、明治四年十二月九日で、半年後の明治五年六月に海軍少尉に任官している。

 明治六年三月、外務卿副島種臣特令全権公使に随行し、龍驤艦で靖国に渡っている。同年十二月海軍中尉に進級し、海軍省勤務を経て、明治七年九月二日から八年十二月十五日まで靖国上海に派遣され、九年二月十日から十年十二月二十日まで再度靖国に滞在、中国の事情を視察して、明治十一年一月十七日帰朝し、翌日明治天皇の拝謁を仰せつかっている。

 帰国後曽根は、中国事情に深い関心を寄せていた宮島誠一郎、樫村積徳ら同郷人と協力して、興亜会(会長 長岡護美、副会長 渡辺洪基)をおこし、本邦最初の、本格的中国語教育施設である興亜学校を設立、日中連合を首唱する。

 その後、明治十二年から十九年にかけ、曽根は再三中国に渡り、中国事情に通暁する。そして、明治十九年三月二十二日、参謀本部海軍部編纂課長心得に任じられ、当日上海を去り帰朝する。が、在清中送った建白書が、時の外務大臣井上馨の逆鱗にふれ、一切の官職は剥奪され、海軍監獄に収禁の身となる。

 この辺の事情を、曽根俊虎奉職歴を基に掘り下げてみよう。


明治二十一年二月十五日

 横須賀鎮守府監獄著へ収禁サル(出版条例違反及ビ官吏侮罪)五月二十一日収禁ヲ解ク

明治二十一年十月十日

 明治二十年十月中、奈良県大和国字知郡霊安寺村平民樽井藤吉ヨリ我カ裁判権ノ条約草案ニ関スルボアソナード意見書及ビ井上馨トノ対話筆記、条約改正議事録抜書等ヲ印刷ニ付スルノ協議ヲ受ケ該原稿二評語ノ幾分ヲ記入シ同十一月中密カニ印刷ニ付シ之レヲ頒布シ及ビ廟堂官吏ノ職務ニ付シ侮辱シタリトノ被告事件審理ヲ遂クル処当法廷二於テ被告ノ供述並東京軽罪裁判所伊地知予審判事、当衛白石審問委員二於テ拾収シタル書類其ノ他ノ証拠物等二徴スルモ被告俊虎二於テハ藤吉ノ協議ヲ受ケ官吏侮辱ノ評語ヲ加へ之レヲ印刷ニ付シ頒布シタル証憑備ハザルヲ以テ無罪          

 横須賀鎮守府


 このような事情の背景には、明治二十年から二十一年にかけて、伊藤内閣が企図した不平等条約改正の内容、及び大日本帝国憲法改正案等が外部に漏れ、朝野にわたり大反対運動が展開された事実がある。

 第一次伊藤内閣は、明治二十年十二月、内相山県有朋、警視総監三島通庸の主導により、保安条例を公布してこの反対運動に弾圧を加えた。この間に、秘密出版でボアソナード、谷干城らの反対意見書が流布される。これに関連して、曽根俊虎も身柄を抱禁されたものと考えられる。

 明治二十二年、黒田内閣の大隈外相が、条約改正を強力に進めようとした結果、十月十八日、超国家主義団体玄洋社の来島恒喜に襲撃され、重傷を負う惨事が起こった。

 かくて、形勢不穏のさ中、野に下った曽根俊虎は、植民協会員となってアメリカに渡ったとも言われているが、明治二十九年四月三十日付で、台湾総督府撫墾署主事に任じられ、同年五月二十五日、台東撫墾署長に任命されている。


 明治三十一年依願免官となってからは、蘇州で梁山泊的な生活を送り、日露戦争後、農務省の補助を得て、蘇州日本人居留地に、商品陳列館を設置したりするが、明治四十二年病いに伏し帰国、翌四十三年五月三十一日病没する。

 海軍大尉曽根俊虎の志を継承したのが、善隣書院の経営を通し、日中親善友好に多大の功績を遺した、勝海舟門弟宮島大八であった。


『遠い潮騒』口絵写真.jpg『遠い潮騒』口絵写真



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めい

《保守的な国粋主義者たちの団体と評される玄洋社や黒龍会がなぜ孫文を支援したのか》

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『文殊菩薩』

孫文

今年は孫文生誕150周年ということで各地において記念行事が開催されている。孫文は中華民国を名乗る台湾でも、中華人民共和国の大陸でも国父として扱われている。そのため11月11日の記念式典で習近平が「共産党は孫文の継承者だ」と演説すると、12日には台湾の国民党が「真の継承者は国民党だ」と応じるという現象が起こっている。

これは孫文が1924年に「連ソ容共」を唱えて国民党と共産党の第一次国共合作を行ったことが理由の一つだ。同年に設立された黄埔軍官学校は国民党から蒋介石が校長に、共産党から周恩来が政治部副主任に抜擢されるなど後の両党の主要な幹部がここから多く輩出されている。

また孫文の夫人であった宋慶齢は孫文亡き後も亡夫の意志を継ぐとして共産党に協力的で、中華人民共和国の副主席として中共政権を支えた。それに対して妹の宋美齢は国民党で孫文の後継者を自任した蒋介石と結婚し、台湾国民党政権のファーストレディーとして長期にわたり影響力を行使した。長女の宋靄齢を含めて「宋家三姉妹」と孫文の関係も、両党が孫文の継承者を名乗る際の正当性の根拠とされている。

さて孫文は何度か日本に亡命しているが、その時に孫文の援助をしたのは頭山満や宮崎滔天といった玄洋社や黒龍会のメンバーであった。

保守的な国粋主義者たちの団体と評される玄洋社や黒龍会がなぜ孫文を支援したのか、私は長年にわたり不思議に感じてきた。一般に言われているような、大アジア主義への共感や革命の志士としての同情というのでは説明のつかないものを感じたからである。

ある中国の知識人にこの点を尋ねたところ、次のような答えが返ってきた。孫文は秘密結社に属していたので、中国では孫文の革命を青幇や紅幇といった秘密結社が援助をした。同様に日本の玄洋社や黒龍会も単なる国粋主義団体ではなく、青幇や紅幇と同じ秘密結社としての側面があったという。

その証拠に玄洋社の玄は玄米とか玄武と言われるように黒色を表し、黒龍会も黒という色を冠している。紅・青・黒とカラーが冠された秘密結社は革命運動を支援するため、上海・香港のユダヤ系財閥により資金援助や指令を受けていたというのだ。

私はこの答えに孫文の辛亥革命とは一体何だったのか、共産党と国民党の背後には何があったのか、日本の保守系の国粋主義者と評される玄洋社や黒龍会の本当の正体とは何だったのかを垣間見たような気がした。

野崎晃市(42)

2016-11-13(22:17)
by めい (2016-11-14 05:41) 

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