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心霊独立  鴨居清雲 [神道天行居]

『古道』3月号に再録された鴨居先生の御文章。何度も読みたいので貼付けておきます。


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 心霊独立           

                          鴨居清雲


 この人間世界といふものは、現前の手の施しやうもない葛藤を眺めて居ると、たしかに仏教でいふところの苦海であり火宅であると、一応はうなづかざるを得ないやうでもある。

 ところが、「神道は世を楽しむもの」といふ考へ方があり、「中今」の思想に立って、永久の「神遊び」を理想とするものであるが、この現状に直面してさやう手放しで喜べるかどうか自己のたましひを見つめて、いささか不安なきを得ない。いついかなる時も磐石不動の金剛信念に立って居ると言ひ切ることができるかどうか、かへりみて恥ぢ入る思ひに堪へないものがある。

 イザナギ・イザナミの大神の国生みの御艱難、コトドを渡されてから後の御交渉や、大国主・少彦名の神の国造りの御苦労を思ふと、どうしてこの中から楽天的な宇宙観が出てくるのであらうかと深く考へさせられる。

 天照大御神の光華明彩・六合照徹の至尊至貴の御霊徳をもってして、岩戸隠れの大暗黒面のあったことに考へ及ぶときは、神道だけが陽気で明るいとばかりは言へないのである。所詮は相対の世界であるから陰陽間合の変化であり、無限に開展する過程において永劫に不可避の現象と受けとめるほかはなかりさうである。

 われわれの祖先は、この至大の苦悩に徹し切つたればこそ、「あはれ、あなおもしろ、あなたぬし、あなさやけおけ」の境地に突き抜けることができたのであらう。ここまでくるのには決して生易しい努力ではないので、一番たいせつなことは自主の精神であるといふことである。

 宇宙の王であり、神たる天照大御神にいはば見放された八百万の神たちの行動は全くの自主的な、といってもバラバラな勝手気儘のものでなく整然として統制のあるものであった。このことは終戦後の日本の国の歩みにつき、また八百万の神の子孫たるわれわれの行き方について、深き示唆を与へるものである。国際間に処するのも一身上に処するのも道理は同じことで、この自主の精神こそ、万事を成就する基盤である。

 先師は座右銘の第九において「物物而不物於物、物ノあいてニナルナ、心霊独立ダ」と喝破して居られる。「物を物して、物に物せられず」と訓むのであらうが、この「物」とはそもそも何であらう。いろいろに使はれるやうだが、ここの物は自己の心霊以外の一切であるといへよう。宇宙間に自己の心霊のみ明咬々として光り耀いて居る境地である。万象を駆使して万境に拘泥されないのである。万境万象に超然としてにらみをくれてゐることができれば、いかに愉快なことであらう。「心、物ヲ逐フヲ邪ト為シ、物、心ニ従フヲ正ト為ス」といふ法語もある。正邪の分るるところでさへある。荘子(さうじ)の外篇知北遊第二十二に「物を物とする者は、物と際(かぎり)なし」とあって、ここに至れば宇宙と一体になって自由自在だといふのである。

 それではいったい「心霊」とは何者であらう。これが大問題で、仏教では、これは求めても求めても万劫末代求めて得られないものだといふのであるから始末のつかぬものである。

 神道では端的に「かみ」の分霊とするのである。分霊といふのは本霊と同じ物であるから人は直ちに神であるといふのである。これを「知る」ことが人生の大本である。理窟ではないので、如実に「知る」と「知らぬ」とによって天地の差違となってくるのであ

る。

 先師の手抄せられたものの中に、明治六年刊行、角田忠行著「宝訓文彙」の文として

  倭姫命詔日

  神魂尊(カムムスビノミコト)ノ精霊父母ノ気ニ入テ生産ル神ヲ人神ト申ス吾党ノ

  体中ニ坐ス神ナリ

とあるのを挙げて居られるが、「直言(なほひ)」といふも、「天照霊(あまてらすたま)」といふも、この神魂尊の精霊といふも表現の相違だけで同一の神霊である。

 心霊=神霊の独立を真に知ることができれば、真の人間として許されるのである。この頃は人間形成などといふことをいふけれども、この心霊の重大問題を捨てて顧みないのは遺憾といふもおろかである。

 しかし、捨てて顧みなくても万人みなその心霊は光り耀いて居るので、それはちやうど岩戸の外は大暗黒でも、岩戸の中は明るさに充ち満ちて居たであらうと同様である。要は心霊を「知る」ことで、すなはち岩戸を開くことであり、いつかはその時が来るであらうし、万人みなその時が来れば、人間世界は大光明に眩(もとの文字は火偏)耀せらるるであらう。私共はやはり神道人として楽天的に、中今の世を楽しみながらその日の到来を待つべきである。否、われ一人方今直下に心霊独立を知れば、一波万波、三界に光被するはずである。他に求むべき筋でない。

 前篇に清の沈一貫としたのは明の誤りである。自分で書いて自分で校正も見て、さて刷上って読み直してからでないとその誤りに気がっかぬのであるから、何とも老いの到れるをしみじみと思ひ知らされたことである。著は老子通(とう)二巻。

  牛といひ馬といふとも甘なはむ明と清とにかかはりはなし

  明といひ清といふとも今はなしのこるはふみのまことなるかも


(古道昭和三十三年九月号)


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