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この師ありてこそ——田島賢亮(3) 芳武茂介 [田島賢亮]

芳武茂介 明治42年(1909)ー平成5年(1993


芳武茂介.jpg

 今でこそ「デザイン」という仕事は、ものづくりにおけるソフト分野としてそれ自体独立した地位を占めていますが、以前はそうではありませんでした。伝統的な職人的ものづくりの世界では、昔からのやり方そのままの踏襲が基本であり、そこに新たな意匠を付け加える必要はなかったのです。近代になっては外国製品そのままのコピーで事足りていたのです。東京美術学校(現東京芸大)工芸金工科卒業後、昭和10年商工省(通産省を経て現経産省)工芸指導所に入所した芳武茂介は、まだ日本人のだれもデザインというものの大切さに気づいていなかった中にあって、ものづくりにおけるデザインの重要性に着目し、商工省の役人として国家的立場から啓蒙する役割を果しました。

 日本従来の工芸的手工業から脱皮し、最新の科学と技術を取り入れて良質と量産の両立を目指すにはどういう形と機能をもつ製品を作るか、そのためにはまずデザインから始めなければなりません。茂介はそうした時代の要請にいちはやく着目し、クラフトデザイン運動の先頭に立って外国製品のモノマネ文化を脱し、日本製品が世界で評価される礎をつくったのです。

 亡くなる2ヶ月前の宮内での講演会、次の言葉を残しています。

用のかたち・用の美 .jpg

 「日本の生活文化の在り方というものを改めて考えますと、その生活美、或いは生活用具といいますか、それが非常に上手でありまして、我々の先祖から、今日の我々の気持の中に伝わっている太い線というのは、芸術も生活のためにあるんだというものが、ちっとも変わっていない。・・・日本人の生活文化というのは、実に上手だ。日本人はですね、この、生活の中に芸術を取り入れていることでは、世界一上手ではないでしょうか。・・・それを別な言葉で申しますと、『日本人は用の美に敏感である』となりますが、用から出発して出来たものに美を与えることが、日本人の特性でありまして、日本人はもっと外国に比べて威張っていい点ではないか、そしてそれを我々はもっと大切にしていかなければならないのではないでしょうか。」


74 芳武茂介展ポスターDSCF9127.jpg

 先祖から伝えられる日本の生活文化の中の美に気づき、暮らしの中に美を求め訴えつづけた生涯でした。その生涯を決めたのが田島先生との出会いでした。田島先生の図画の授業によって天賦の才能が花開きます。それまで得意がってやっていた雑誌口絵や武者絵の模写をやめて実物写生に取組むようになります。「自由に、自由に」という田島先生の薫陶を受け、いつも金紙が貼られる茂介の絵は全校生徒の憧れの的だったといいます。長井中学から東京美術学校に進んだ茂介は、本郷の田島先生の下宿押掛け常連のひとりでした。田島先生が教え子の佐々木房子と結婚してからは、二人が新婚生活を送る下宿の一室を借りて暮らしたほどです。そうした恩義のゆえか、田島先生疎開時の住まいは、茂介の妹が嫁いでいた宮内田町の高善(松田家)でした。田島先生への茂介の追悼文は「したたかな芸文の途を拓いて下さったユニークな教育者像、先生の思い出はいつまでも私には鮮明なのである。」(『追想 田島賢亮』)と締められています。(つづく)


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