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平 貞蔵 「詠士 宮島大八先生」 [宮島詠士]

先の「宮島詠士(八) 今こそ詠士の心に思いを致すべきときではないか」の中で、木村東介は、浅薄な考えかも知れないが、遺憾でたまらないのは、門下三千と称せられた君子の群れの中に、だれか詠士の志を受け継いで、「目隠しをされた狂人が、刃物をかざして地獄の穴へかけ込む」がごとき当時の日本の姿を、身を挺してさえぎる勇者がいなかったものだろうかと思うことである。いずれも心ひそかに危惧の念を抱きながら、この日本の狂態をただお見送り申し上げていただけなのだろうか。/善隣書院で詠士に養成された精鋭も詠士と同じく埋葬者の行列のごとく静かに暗闇の街を歩いていたに過ぎない。ここにはひとりのはったり屋もいない。人徳ある君子の集まりは、不発の爆弾の集積である。人畜無害の花火でもよいから、たまには一発打ち上げたほうが世間の耳目を揺り動かすのである。わたくしは馬鹿か狂人にはなり得ない仁徳ある君子の弱さを歯がゆく思わずにはいられない。》と言いつつ53名の名前を挙げてといった門下たちはいずれも日本の容易ならざる人材なのに、その力量に至っては到底東条の独断に抗し得なかったということに、救い難き日本の悲割がはらんでいたと思わずにはいられない。》と嘆じている。ほとんど初見のその一人一人について調べるのは昔だったら図書館に出かけて一日がかりでも果せるか、しかしネット社会ではあっという間の作業である。53名中39名がウィキペディア等へのリンクが可能だった。たしかに名のある「人徳ある君子の集まり」と言っていいのだろう。これら人名の出典もやはり先に記した平貞蔵(1894-1978)の「詠士 宮島大八先生」だった。この論考は、詠士に身近に接した門弟による評伝で『宮島詠士先生遺墨選』(昭和32年)にある。おそらく目に付きにくいものと思われるので写しておくことにします。(懐かしい近奈美子女史からお借りしてコピーしていた)

 

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詠士 宮島大八先生

平 貞蔵

おことわり

 

 人の評伝を書くことは容易でない。詠士先生の場合には特にその面目、人となりを伝えるのがむずかしいと感じられる。先生の亡くなった翌日、門弟等が集まって、協力して立派な伝記を残さうと申し合せた。私も資料蒐集に努めたが、戦災でその全部を焼いてしまった。昭和三十年七月九日、先生の十三回忌の法要の席で、緒方竹虎、河相達夫、寺岡謹平、ハ角三郎、工藤忠、笠木良明、高森強太郎等と先生の詩文集をまず出版し、法帖をその次に作らうと約束したが、中心となる人が世を去り、或は病み、未だに実現することが出来ない。大久保伝蔵さんの御尽力で同年十一月に先生の誕生地に記念碑を建てたのみである。

 私は詠士先生の門弟と称しうるかどうか自ら危ぶむ。大正三年二月入門を許されはしたが、先生が心魂か打ち込まれた書道と中国語の勉強をしなくとも差支えないか、と言う非札なお尋ねをし、先生が笑ってそのまま入門を許されたものだからである。その後、進んで破門を願い出たが許されず、先生が亡くなるまで師事し、今はその門弟に列したことを生涯の幸福と感じ感謝しているが、書道と中国語に関しては依然として無縁である。この度、また大久保さんの御尽力によって先生の遺墨展覧会が催うされることになったので極めて平面的に終始する他ないが先生の略歴と事業について記すこととした。失礼になるが先生以外の人々については記述の都合上敬称を省略することを許されたい。

 

父 宮島誠一郎の人物

 

 詠士先生について語らうとすれば、まず父誠一郎とその周囲に触れなければならない。誠一郎は上杉藩の祐筆一郎左衛門吉利の長子として天保九年に生れた。吉利は瓢大人と称した人で誠一郎を伴い江戸、京阪を遊歴したことがある。誠一郎は若くして藩校興譲舘の教授となり、窪田梨渓に詩を学び、書をも良くした。栗香又は養浩堂と号した。戊辰の役には東北諸藩の真意を朝廷に奏上しようとして唖者を装って阪神に赴いた。維新後、待詔院出仕となり次で左院に転じ、修史舘、宮内省の御用係となった。左院時代に伊地知正治の下にあって、憲法制定の急を要することを論じた意見書は、この種のもののうち最も早いものの一つとして明治文化全集にも収録されている。

 誠一郎の甥にあたる保科孝一博士の「一国語学者の想出」や、宮島家に蔵されている書翰を見ると、その交遊の範囲の広さと、演じた役割の大きさがうかがえる。勝海舟と親しく、木戸孝允、伊藤博文、榎本武揚、伊達宗城、細川護美、花房義質、竹添進一郎、中上川彦次郎、小幡篤次郎、福地源一郎、小松原英太郎等と或は政治外交上の問題で往復協力し、或は詩文で交っている。伊地知正治、吉井友実、西郷隆盛、大久保利通、松方正義、黒田清隆、大山巌等の薩摩出身者との交遊が特に深かったようである。清国公使何如璋、黎庶昌、公使舘員楊守敬、黄違憲、黄違楷とも深く交際し、東亜の情勢に通暁していた。東亜問題に関する知識と識見のほどは、重要な問題の発生した折、「そのことに就て宮島の意見を聞いたか」と、度々明治天皇から係りの者に御下問あったことによって知られよう。政治的意見の対立がある時、有力な政治家の間に立ってしばしば調停役をはたしたことも文書や書翰が伝えている。

 大久保利通と何如璋の発案によって東亜振興のための会を両国関係者が作ることとなり、大久保の死後、明治十二年に振亜会が設けられた。長岡護美を会長として実際にまとめ上げたのは誠一郎であった。振亜会は翌十三年興亜会と改称され、伊達宗城が会長となり、会は興亜学校を経営することとなった。誠一郎は同郷人曽根俊虎、丸山孝一郎、山下(この人の名を私は記憶していない)等と推進力となり、曽根は張滋□(日偏に方)とともに教師の任を引受けた。誠一郎は明治二十九年貴族院議員に勅選され、四十四年に亡くなった。妻は岩井屋代子で子女十二人ある。誠一郎の弟の長政は小森沢家を嗣ぎ海軍主計大監となった。米沢人が多く海軍を志す動機を作ったのはこの人である。

 米沢藩は隣藩の会津とは保科正之以来深い関係を持っていたので、情誼上それを救はんとして幕府側に立ち、誠一郎の土佐藩主山内容堂を通じての運動も実を結ばなかったのであるが、事態が変転していたとすれば誠一郎の活躍する舞台ははるかに大きくなったであらう。

 

詠士先生の生立と留学時代

 

 誠一郎には六男六女のうち、長子は夭折したので先生が長男となっている。米沢市猪苗代片町に慶応三年十月二十日に生れた。明治四年十二月、父母に伴はれて上京、日本橋蛎殼町に住み、七年麹町平河町五丁目に移った。

 明治十年、十一歳で勝海舟の門に入り、十三年、清国公使随員の黄遵楷について早くも清音を学んだ。翌年、父もその設立に参画した芝愛宕山下の興亜学校に入学し、清国人張袖海につき清語を研究、千字文孝経、論語、語言自邇集、紅楼夢等の音を学んだ。同窓には徳丸作蔵、田辺熊三郎、七里熊三郎、米沢の人で後に正金銀行副頭取となった小田切万寿之助かある。十五年、興亜学校は外国語学校に合併されたので移り、旗人関桂林について詩韻、孟子、詩経、書経、紅楼夢を学び、尺臍、翻訳の教へを受け、十七年に卒業した。十六年、清国公使黎庶昌について書を学ばうとしたが、いずれ渡支して同門の張廉卿に入門することを勧められた。外国語学校の同級生には川島浪速、長瀬鳳輔、重野紹一郎、瀬川浅之進等がある。

 十九年、清国公使舘にて江蘇の儒者陳積全にっいて経、音を学び、四書を諳誦し、左伝、戦国策の講義を聴くこと一年。翌二十年、二十一歳の時ようやく父の許しを得て四月に渡清した。横浜まで見送った人の中に副島種臣、榎本式揚等がある。芝□(「全」​?が三つ)、天津、北京を経て保定府の蓮池書院の門を叩いた。湖北の鴻儒で稀世の書家たる廉卿又は濂亭と号した張裕□(金偏にリ)が蓮池書院の山長(学長にあたる)をしていたのである。張廉抑に入門する決心をしたのは黎公使の勧めにもよるが、公使から父に贈られた張廉卿文集とその書蘇東坡の詩幅を見、ついて学ぶべきだと感じたのによる。廉卿は、黎庶昌とは同門で、李鴻章と並び曽国藩の二大高弟と称されていた。数多く各方面に亙る曽国藩の門弟の中で、学問、書、文章においては第一として人々から推服されていた人である。

 はるばる海を渡って入門を請うたがの長子張院が会ったのみで廉卿は容易に許さず家人にも警戒の色があった。次子の張□(サンズイに會)が父を説得して面会することとなり、詩の話に及んだ。先生が菊を詠じた五言古詩を示したところ、その中に、自有殿芳志、何惜春風為の句があるのを見、廉卿はようやく入門を許すに至った。二十年の四月である。保定における先生の努力と人となりに感嘆し、あとでその子を日本に留学させ先生に入門させた人がある。西山派の領袖で民国の参議院議長となった張継がその入門者で、最後まで子弟の礼を執っていた。蓮池書院では経義、辞章及び書法を学んだが、九月病に罹り一時北京にかえって保養した。病癒えて再び保定に赴き、二十二年師に従って上海の梅渓書院、武昌の両湖書院(江漠書院と称したか両湖書院と称したかの記憶がはっきりしない)に学び、次で二十四年五月商襄陽の鹿門書院に移った。

 十一月に帰国し、夕年四月、二十六歳で保科忠二郎の長女よし子(孝一の妹)と結婚した。十月再び単身渡清して襄陽に赴いたが、廉卿はすでに山長の職を辞して西安に隠棲したあとだったので、その後を追い、二十七年一月西安に到着し、重ねて入門し、家族的待遇を受け全く内弟子となった。止まること一年余、二十七年二月十九日に廉卿、張裕□は卒去した。喪に服しているうちに七月日清戦争が勃発した。家人は途中の危険を案じてひそかに滞留せんことを勧めたが、師の国であるとは言え敵国となったのだから止まるべきでないとして、眉県の師の墓に詣で、八月卅一日西安を出発した。身命の危険はあり、八ケ年師について学び未だ奥伝に達しない悩みはあり、悶々として雨季に秦嶺を越え黒竜峪口に達し、雨に閉じこめられて旅舎に滞在していた時、一夜雨の滴る音を聴いて心中閃きを感じ、直ちに庭に躍り出て沙上に書き、中鋒の極意を会得したと伝えられゐ。喜び極まって手の舞い足の踏むところを知らぬ有様を見、張家からついて来た男は先生が発狂したのかと思い茫然とした

と言う。九月下旬上海に達し、侠客高橋藤兵衛、侠婦石渡まさの好意で無事乗船することが出来、十月十三日に横浜に着いた。当時、東帰十首の作かある。杜甫を範とした詩には盛唐のおもかげがある。

 

詠帰舎 善隣書院の経営

 

 先生の清国に在る時、同門の人々は先生の学問が進み書道に上達するのを見、中国の書道は東に渡る、と羨んだということである。帰国してまもなく、岸田吟香等当時の文人が集まり「栗香の長男が八ケ年も張廉卿について学んで来たそうだが、どれほどのものか一つ書かせて見よう」と席を設けた。そして揮毫を見て一同驚嘆した。その時、人々の感嘆の声の中にあって先生は師廉卿の最期の言葉を思い出した。「君はまだ中鋒の極意に達したとは言えない。続いて撓まず努力すればやがてそこに達するだらう。しかし、自分でそう思った時から真の修業がはじまるものであることを忘れるな」という遺言である。この時、先生は一生名利の外にあって修業しようと決意されたと聞いている。

 先生は勝海舟を訪ね、中国語の教授を通じて日華親善に尽したいと志を述べたところ、直ちに賛成された。そこで平河町の自宅の一隅を学舎として二十八年五月十一日から中国語を少数の人々に教へた。海舟が詠面帰と題する扁額を書いてくれたのでそれを掲げ学舎を詠帰舎と名付けた。先生の諱名は吉美、通称大八、勗斎(きょくさい)と号するが、その後、詠士或は詠面帰盧主人と号するようになった。三十一年六月学舎を平河町四丁目の宇佐美宅に移し、やや規模を大きくし善隣書院と改称した。これよりさき、二十八年二月、請はれて東京大学文科大学の講師となり、三十一年七月に辞した。当時、鈴木虎雄、藤田豊八、小柳司気太、狩野直結等か教へを受けた。三十二年九月から三十八年まで母校外国語学校の講師となった。しかし常に講師に止まり任官を肯んじなかった。

 日露戦争がはじまると、先生の門に学んだもので通訳官、宣撫官として出征したものが多かった。それらの人々は凱旋後、いただいた下賜金を集めて、先生に差し上げ、善隣書院の舎屋を新たに設けられんことを請うた。そして三十九年九月麹町の紀尾井町(今の麹町五丁目)に建設された。現在も存する建物がそれである。この時、先生の起草した善隣書院設立趣意書は素晴しい名文であると人々から推称されている。書院の初代院長には先輩の松平康国を押し、谷口藍田、根木通明、田辺安之助、張廷彦、全国撲、長瀬鳳輔を教師として迎え協力を受けた。善隣書院の授業は夜間に行はれ、有志のために土曜、日曜の昼にも講義の行はれたことがあっだ。私が大正三年書院附設の清渓塾に入ってから後の書院の講師には、浅井新太郎、池田良栄、宇佐美右之、遠藤文夫、神谷衡平、何盛三、関菊鹿、武田寧信、高森強太郎、湯原桃雄、亘理三郎の諸氏と、狽雨田、李長春、包象寅があった。有名な満洲研究家の玉□(王偏に辰)、中島竦、現在中国文学の第一人者と称され中国にも並ぶもののない松浦珪三、及びに日本晋も近年授業を担当した。これらの人々の多くは詠士先生の門弟であり、昼は陸海軍の学校、他の大学の教授として働き、夜は書院に来て先生の手伝いをしているのであった。書院の学生は数十名に達する時もあるが、僅か五、六人に過ぎないこともあった。殆んど信じられたいことであらうが、先生を援けるこれらの諸先生は無報酬だった。先生の著書「急就篇」と「北京官話」が版を重ねると文求堂が印税を届ける。それを全部車代としてわかつのみだった。先生は勿論書院から何の報酬も受けず、年々注ぎこんでいた。政府の援助は辞退し続けたが、同志で時折資金を提供するものがあるのは受けた。先生は昭和十八年七月九日に亡くなるまで院長として門弟等と書院の経営に当られた。詠帰舎時代からかぞえると五十年の長い間、倦むところなく子弟の養成に努めたのである。先生が一生を修業と考え、名利を求めずに努力されたことがすでに稀に見るところであるが、先生を中心とする人々が終始同じ志をもって結びあい、世に知られることを望みもせず協力した歴史は後世に伝えるに値いするだらう。書院はいま、慶応大学文学部教授の地位を捨てて詠士先生の志を継いだ長男貞亮によって経営されておる。時勢のしからしめるところ、何の特権もないかような学校に学ぶ人は遺憾ながら甚だ少い。

 

詠士先生の交遊と子弟

 

 先生の門に学んだものは三千を越える。大作理三郎、松本菊熊、工藤忠の如く大陸に活躍して先生の志を生かさうとした人々、最初に入門し、早稲田の教授となった米沢の人青柳篤恒の如き学者もある。先生の名は国内よりも大陸に広く知られ尊敬されていたと言って良い。先生は政治に関係しようとされなかったが、徳川慶久公爵を通じてアジア問題に発言しようと考えておられたと私は推測していた。その人が急逝された時の落胆ぶりとその後の態度からそう判断したに過ぎないが、ただ、大正三年日独戦争がはじまった直後、先生が中心となって一水会を作り、中国の安定のために強力に発言しようとしたことが恐らく一つの例外であらう。集まるもの、会長細川護立、会員は堀口九万一、本多熊太郎、小幡酉吉、柳田国男、江口定條、山成喬六、水野袈裟六、上泉徳弥の諸氏であった。

 山本五十六、柳川平助、鈴木美通、緒方竹虎、寺岡謹平、ハ角三郎、河相達夫氏等も門弟の中にかぞえられる。山形県人で私の記憶するのは、庄内の鈴木、寺岡の二中将の他、荒賀直順、相蘇清五郎、村山の細梅三郎、米沢の滝沢淳等である。その他にもあらうが知らない。先生が最も愛されたのは蒙古で戦死した佐賀の人、浩々散士本告辰二である。蒲原有明の甥で詩文に天才的なものを示した。晩年は笠木良明が最も相許し相親しむ間柄であったように思う。先生の子弟のうち特筆すべき人々少くないが省略したい。重大な問題に当面すると先生を訪ねて意見を求め、教へを仰ぐ人が数多くあった。中国の政治家の中にも先生に師事するものがあった。数回訪問しても面会を拒絶される人もあった。

 

詠士先生の事蹟(再掲)

 

師の張廉卿を凌ぐと称される先生の書と五十年に及ぶ善隣書院の経営を離れて先生を語ることは出来ない。しかし、その他にもたたえなければならぬ功績がある。その一つは、終始善意と誠意をもって日華親善に尽したことである。中国語の教授、中国語教科書の発行によってのみでなく、常に両国の相互理解による友好関係を深めることに意を用いた。中国の亡命政治家を助けたこともしばしばだった。満洲の傅儀皇帝は先生の徳を慕って師伝たらんことを請い四度先生に使を派した。先生は、その任でないと言って辞退されたが、それほどまでにお考え下さるならば、と宇佐美勝夫を推薦し、宇佐美が満洲国の最高顧問となった。

 その二は、阿片の害を除かうとして努力したことであらう。医学の大家に研究を依頼して新薬を作り、或は阿片の害を論じて警める等、目立たぬ努力を長年重ねた。その三は、黄河治水の問題である。中国における治水の重要なことを先生は絶えず説いたが、友人小越平陸、門弟小越十平、工藤忠、斎藤源内等は先生の志を受けて黄河を上下し対策樹立に力を注いだ。昭和十年後にも渡辺金三は黄河問題に取組んだ。小越と渡辺は信濃川の氾濫に悩んだ経験を持つ越後の人である。

 その他に先生の功積で殆んど世に知られないことがある。これは何かの折、先生が書院の老小使に話したことを伝え聞き、不審に思ってあとで先生に確かめたことである。第一次大戦後、ヴェルサイユ会議が開かれると、わが国から西園寺公望と牧野伸顕が全権大使になった。先生は、父誠一郎と牧野の父大久保利通とが友人だったので牧野とは早くから交り親しかった。牧野は出発に先立って「出発準備に忙殺され自分でお訪ねする時間がない。失礼だが小村欣一をお伺いさせるから、会議でどういう提案主張をしたら宜しいものか、お考えをきかせてほしい」と電話を先生にかけてよこした。先生は大事なことと思って色々思案したが良い考えが浮ばない。そこで、「師の勝海舟先生なら、こういう場合にどういうことを主張されただらうか」と考え、頭をしぼった。そして人種平等ということに思いついた。小村を通じて牧野にそれを述べたのである。今でこそ当然のこととされるが、当時このことに思い至ったのは偉とせねばならない。人種平等案はヴェルサイユ会議では採択されなかっ

たが、黒人は牧野を神のように尊敬し、大きな希望を与えられるに至った。日露戦争における日本の勝利がトルコ以東の諸民族の覚醒を促したのに類する事件だったわけである。師海舟の識見を思い浮べこの点に着想した詠士先生の功は大きい。しかもそれを秘して功を牧野に帰していたのである。

 

詠士先生の学問と思想

 

 さきにことわつたように、先生の名を不朽ならしめる—何等の誇張なく先生の書道史における名声は不朽であると思うのであるが—書について語るべき資格を私は全く持だない。私は書を書いて下さい、と先生に申し上げたこともない。中国問題に関して古くから深く尊敬し、その識見に服している故内藤湖南博士の著書の中に張廉卿の書に簡単に触れた箇所がある。湖南博士は中鋒の書法を知悉されて批評されたものかどうか私は疑ひを覚える。遺憾ながら博士の廉卿論には服しかねる。

 詠士先生の学問と思想に言い及ぼうとすれば先生の多くの師、とりわけ、張廉卿、更にその師の曽国藩の地位を明らかにしなければならない。ところが曽国藩の活動は多方面に亙り、どの面でも清朝随一の力を発揮したと言って過言でない人である。その文章は私には難解を極める。曽文正公文集のほんの一部を詠士先生からおそはつただけの力では如何とも消化しがたい。せいぜい雄勁で華麗だと感ずるだけである。廉卿の文章もまたそれに劣らずむずかしい。

 曽国藩は、方苞、劉大櫆、姚鼐等のいわゆる桐城派に属し、それを超える人で、宋学、漢学、文学に加うるに経国済民の学と実際を身につけ、軍事に秀で、新しい科学技術の進歩にも貢献した。桐城派をもって単なる文章の一流派とするのは誤りであると思う。国家の危機に際して、顧炎武等の実証的客観主義に対し曽国藩の人生論的な学問が重んぜられ偉大な働きをし、その一族子弟も功績をあげた。毛沢東主席は曽国藩に甚だしい酷評を加えたことがある。その批評にはそのまま承服することは到底出来ない。次に廉卿は学者として終始したが気魄に富む硬直の士であった。廉卿について語り伝えられる逸話を思い浮べ、私はそれは詠士先生のことではなかったかと錯覚する位である。

 詠士先生の門につらなる一人として、いつかは曽・張二大人物の思想、事績を明らかにせねばなるまいと思っているが甚だおぽつかないのを自ら感じている。中国の特殊な政治史、思想史をきわめ、桐城派或は曽国藩の学問の最近まで及ぼした影響をも無視せずにこれを論ずるには、真の専門家による長年月の研究をまたねばならぬであらう。先生の詩文集を刊行するまでには私も多少研究を積み度いと念願しているが、いかにも力の足らないのを嘆くのみである。日頃先生は王道を説き、観音を崇敬し、明治天皇を最も尊敬しておられた。

 私はいつも先生の前にあると春風に包まれる思いをした。秋霜烈日とはこのことかと思う場合にもあった。痩身白皙の先生が何の飾るところなく座っていると、一座は粛とすることあり、時に気力に圧倒される時もあった。先生が声を励まして軍部の責任を追求した時、当時権勢を振っていた将星等が答える力なく頭をたれて黙していたことかあった。寛厚、謙虚な先生のどこにこの気魄が秘められているかと驚かされた。一度もお叱りを受けなかったのは何の期待も持たれなかったからだらう。かそろしくもあり、なつかしくもある先生だった。

 今日(十一月十日)は、東亜問題にかかわりあった人々の霊を慰め、かつ観音の慈悲によって東亜諸国が結ばれるようにと四十年前に先生が発案して創められた鎮海観音会の法要の豪徳寺で行はれる日である。夜大阪に出発する前にこの粗稿をまとめなければならないため、不本意ながらその方に列席しなかつた。しかし、秋晴の一日、先生の前にある思いをしつつこれをまとめあげたので心の落ちつくのをおぼえる。

                  (筆者は山形県出身・評論家。前山形県総合開発審議会々長)


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【追記 28.8.6 山形新聞 土曜コラム マルチアングル 論説委員 鈴木雅史】


長井出身の評論家●平貞蔵 

日中戦争収拾図った秘話


 平貞蔵という人物をご存じだろうか。
 「山形県大百科事典」は、その生涯を大略こう紹介している。
 「1894(明治27)〜1978(昭和53)。評論家。長井市伊佐沢生まれ。米沢興譲館中学、旧制第三高等学校(現京都大)、東京帝大(現恵京大)政治学科を卒業。法政人教授を経て満鉄調査部などに勤め、1938(昭和13)年、昭和塾をつくって多くの指導者を養成した。戦後は県総合開発審議会長を74(同49)年まで務め、本県の開発に大きな功績を残した」
 体制を内から支えた冷徹なエリーート。記事からは、そんな印象を受ける。ところが、自伝「平貞蔵の生涯」をたまたま手にして驚いた。学生時代から戦時中にかけて、体制の枠組みだけにとどまることなく、時に権力と対決する波瀾万丈の人生を送っている。日中戦争の拡大を防ぐため、昭和天皇に行動を促そうとした思い切った構想も記され、実に興味深い。
     ◇      ◇
 東大入学後の大正時代半ば、平は左派学生が集まる新入会に入り、労働運動に関わる。浅沼稲次郎、野坂参三ら後の社会党、共産党の指導者と知り合った。恩師吉野作造の勧めで中国を旅し、清朝を打倒した辛亥革命の指導者孫文とも会う。
 知己は左派系に限らず、人脈は多彩だった。法政大教授を辞めた翌年の34(昭和9)年、中国・天津の日本駐屯軍司令部の調査班に入る。これは、書家で中国通の宮島大八(詠士)の助言。米沢市出身の宮島に、平は学生時代から世話になっていた。
 天津では、日本軍が中国の北部5省を独立させた後の政治・経済体系をつくるよう密命を受ける。しかし、内心反対する平は一切関与せず「君は軍に向かない」と言われた。さらに、駐留軍が資金調達のためアヘンに手を出していたのを知ると、参謀本部や陸軍省に報告してぶちこわしたこともあったという。命を狙われる危険がある秘密裏の工作だった。
 軍から大連の満鉄調査部に移ると、37年に日中戦争が勃発。政府方針とは逆に戦線は拡大していく。何とかしたいが外地にいては何もできない。ちょうどそのころ、天津時代に親しくなった陸軍軍人で、当時軍務課長の柴山兼四郎から招かれ、内閣直属の新機関・企画院の専門委員に転じることになった。柴山の親友で近衛文麿内閣の書記官長に就いた風見章の知遇も得た。そこで平は戦争収拾のため、風見に「天皇陛下のお力をお借りしよう」と提案する。内容は次の通りだ。
 陛下にはI週間か10日、おこもリ願う。その間じっくり考え、さらに祖霊にお諮リになるという形を取る。続いて陛下自ら、ラジオで「今の世界情勢から考えても、日本と中国の関係を考えても、両国がいつまでも争っていてはいけない。仲良くしなさい」といった意味のことを国民におっしやる。兵士にも「ご苦労であった」とねぎらいの言葉を掛ける。
 風見は「臣子の分を十分尽くさんのに、陛下のお力をお借りするなんてできない」。平には、時の内閣を動かすまでの力はなかった。その後は人材育成を通して軍に歯止めをかける新体制運動に方向転換する。
       ◇      ◇
 41年、日本は米国とも戦端を開く。破滅的な状況に陥った中で45年8月15日に終戦をもたらしたのは、結局ラジオの玉音放送だった。平の着眼点の卓抜さを、皮肉にも歴史が裏打ちしたことになる。

 


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