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木村東介「宮島詠士」(9) 東洋の君子 [宮島詠士]

まとめの最終章となる。もう多言は要らないだろう。多くの方に読んでいただきたい。


*   *   *   *   *

宮島詠士

  —詠士書道とわが審美異説—

(九) 


東洋の君子


神武不殺.jpg

 以上、わたくしは詠士の姿を掴もうとしていろいろ述べてきた。が、まだまだわたくしの手中には収まってくれない。それは三歳の幼児が猛牛を捉えようとする格好にも似ているからである。

 そこで……すなわち、詠士を捉えるに、たぐいまれなる書道の大家として紹介すべきか、興亜、振亜のイデオロギーを門下に伝え、さらに全世界に人種の平等を叫んだ一大思想家として紹介すべきか、張廉卿の宗学、漢学を身につけ、経義辞章を学んで門下にこれを説く東洋学者として紹介すべきか、あるいはまた中国三大浪人のひとり、国士、烈士として紹介すべきか……、そのあまりにも偉大なるゆえにわたくし自身迷わざるを得ない。あるいは、それらのいっさいを包含した茫洋雄大なものという言い方がいちばんふさわしいかもしれない。

 「支那の無辜の民を殺し」云々と叱咤した言葉、興亜、振亜の思想、東洋民族に抱いたビジョンなど、詠士の数々の抱負を総合しながら徐々に肉付けしていくと、ここにまったく恐るべきマンモスとしての詠士の骨組みがおぽろげにもでき上がってくるのである。

 名利には極めて淡白であり、外部からの援助をいっさい謝絶し、ひとりでも志を継ぐものがあれば満足であるとして学燈を守って譲らぬ気概ある詠士の人生は、真に東洋の君子というにふさわしい生涯であった。父誠一郎とともに、この真実は貫かれたのである。人間の奇跡といってよい。

「君子は功名富貴を念とせず、学問精熟を旨とす」という言葉がある。ウソと偽りにみちみちた現代機構の中に、このような君子を求めることは、どだい無理なことかもしれない。戦後、日本民族にとって失われた大切なものは、人命三百万と、かつて侵略によって得た国土と、数知れない歴史的遺産ばかりではない。偉大な人格に対する畏敬の念と、その憧れもいままさに新しい世代から失われんとしている。これは人間個人だけでなく、民族的国家的見地からも、極めて不幸なことではないだろうか。

 日本における偉大な人物をまず否定し、その軽視の地点から新しい世代を出発させようとさえしている。甚だしきは、両親を軽視し、祖先を冷笑し、教師を軽侮して、これを民主主義の根幹とさえしようとする。人徳の養成とか、人格の向上などというシロモノは、およそ現代にとっては、小学校の修身以上に物笑いのタネとなってしまった。トラックやダンプカーの運転手が、謙虚で懇切ていねいな言葉遣いでは運転ができないように、混乱泥濁の世に人徳とか教養ぐらい足手まといになる目ざわりな存在はないのである。こうした世相の中に、詠士を東洋の聖人として、東海の君子としてクローズアップすることの困難さはいうまでもない。しかしあえてそれをいうのが、わたくしの使命だと思われる。

 人の真価がその光芒を現わすのは、巨人であればあるほど相当な年月を必要とする。詠士が東洋の天地に反映するまでには、なお、幾多の年月を必要とすることだろう。しかしひとたび光芒を放つや、その光は永遠に消え去りはしないだろう。そしてやがては全人類から人種平等の神として礼讃されるときがやって来る。それがいつになるかはわからぬが、来るものは必ず来る。あるいは繰り返すことになるかもしれないが、わたくしは、この国が四百年来誤り伝えてきた審美眼を逆転し、その評価のアンバランスなのを訂正するために、美の標準の根幹となるべき五大巨人を列記し、その中に詠士の書を加えたまでである。

 美に対する物指しは、作品のほかに現われた美しさではなく、その奥に内包されるもの、すなわち埋蔵されたものによって目盛りが作られるべきである。絵画の場合は作画以前のもの、書の場合も書道以前のものが重要であることを提唱したいのである。

 遠く平安朝の昔から、さらに鎌倉、足利期の禅僧の書、近くは良覚、慈雲、大雅、鉄斎、犬養、副島の書などを羅列して、「到底詠士の書には遠く及ばず」などという暴言を吐こうとは未だ思っていない。

 しかし書以前の思想、つまりエスプリの広大無辺というか、世界人類に向かっては人類の平等を叫び、東洋においては興亜、振亜を主張して美しくも君子の交わりにする一大ユートピア建設をビジョンとした雄大なスケールは、平安、鎌倉期の書とは全く異なる気がする。強烈なる芸術は修道の記録であるべきだし、苦しみながらも真実を追求する作家の魂の表現でなければならない。

 詠士の書幅に潜むエスプリは、かれの押さえ難き情熱の必然的な結果であり、例えば、「七生報国」「神武不殺」「嬌々人中之龍」

我道将為天下裂.jpg

「我道将為天下裂」「天風払顔」等々は、まさに名刀の斬れ味をさえ覚える。かれの口にした興亜、もしくは振亜の言も、その語の底に地響きというか、地熱というべきか、そういったなにか恐ろしい底力を感じさせられずにはいられない。

 ところで、「書は楽しかるべきもの」という見地から、詠士の書には遊びがなく、おもしろ味が少ないと思う人がいるかもしれない。確かに、書を楽しく、おもしろく見ようとする人にはいささか刺激が強いことだろう。

 東洋の天地をにらみつづけ、ついにビジョンの実らぬままこの世を去った詠士にとって、おもしろく過ごした日など一日だってあったはずがない。肌が黄色く、背と鼻が低く、西欧にいつもコンプレックスを感じているような弱小民族のただ中にあって、人種平等の天意を実現するために心を痛めていた生涯は、当然、世界人類の弱肉強食の習慣に対して、いつも憤りがみなぎっていたのであろう。心たのしく、またおもしろく書くことなどは、心を偽らぬ限り無理な話である。

 詠士の書は、かれの強烈な主張と思想を思い合わせながら眺め、そこから鋭く光芒を放つ神意を汲みとるべきである。表現された烈々たる一幅の書の底に、人類に向かって人種平等を叫ぶ地上最大の巨体が横だわっていることを知っていただき、改めて詠士すなわち宮島大八の書を、心眼をもって見据えていただければ、わたくしの駄文も、もっていささか瞑すべきであると思っている。しょせん低俗な書画屋の駄論ではあるが、要は一書画屋が、数ある日本美術の中から詠士の書を最高にとり扱うものの一つと判定したことに同意共感を得られれば、この文の目的が曲がりなりにも達せられると思う次第である。

                (昭和四十二年五月)


木村東介.jpg木村東介


 明治三十四年四月八日、山形県米沢市に生まれる。釈迦と同じ日。そして天皇の誕生日に先んずること二十日。格別の意味はないが、誠実に生きようという近来の日々の想いにかさなるものはある。父忠三は市議、県議を長年勤めた。一歳下の弟武雄は、今なお「元帥」の称号で親しまれ、大臣にも四度任ぜられ、代議士生活四十余年に及ぶ。郷里米沢では,藩祖謙信や中興の名君鷹山で知られる上杉藩の下級武士、質実な気風と、強烈な父の教育方針によって少年時代を過ごした。文学や美術を愛する優しさと不覊奔放な野性とが混迷する多感な時期であった。米沢商業を卒業後上京。その波瀾に富んだ青壮年期、美術界にはいって民族美術商という独自の分野を確立するまでの奮闘は、小説よりも奇にして起伏激しきものがある。(『池の端界隈』昭和57年)

 


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めい

《古人は君子を作り小人を作らないのを教育の根本方針としていたのです。》さらに《鮮やかな手際で人を切り捌くような批評の言葉に僕たちは爽快感や全能感を感じることがあり、またにもかかわらず生命力の衰えを感じることもあります。》
とすると、私が受けた「批判精神の涵養」を説く戦後教育は「生命力を殺ぐ教育」だったわけです。東介氏が名前をあげた53名に匹敵する人材は現在の日本にどれだけおられるでしょうか。もう君子は育たない日本になってしまっているのでしょうか。

   *   *   *   *   *

「『古人は君子を作り小人を作らないのを教育の根本方針としていたのです。』:内田樹氏」
http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/704.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 1 月 16 日 00:02:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU  
 
「『古人は君子を作り小人を作らないのを教育の根本方針としていたのです。』:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/19277.html
2016/1/16 晴耕雨読

https://twitter.com/levinassien

朝ご飯前に一仕事。

岡潔の『風蘭』が文庫解説。

岡のいう「修羅道」について書きました。

すこし引用しておきます。

「岡は知性の十分に発達していない段階で、他人をあれこれと『批判』させることは『修羅の行為』だと書いている。

『あれは、人の欠点を見いだして、そして全体を否定するというやり方で、これは明らかに衝動的判断です。

つまり、修羅の行為をさせているのです。

/修羅の行為のうちでも、とくに悪質なものです』

現代人は切れ味の良い批評をすぐれた知性の証だとみなし、「寸鉄人を刺す」ような言説をよろこぶ。

『そんなふうにしていると人の長所がわからなくなってしまい、また欠点に対する厭悪感が増大します。

人の長所がわからず短所に対する厭悪感の強いのを小人といい、人の長所がよくわかり短所に寛大なのを君子といいます。

そして古人は君子を作り小人を作らないのを教育の根本方針としていたのです。』

鮮やかな手際で人を切り捌くような批評の言葉に僕たちは爽快感や全能感を感じることがあり、またにもかかわらず生命力の衰えを感じることもあります。

それはそれが「修羅の行為」であり、小人のおこないだからである、と岡に指摘されて胸を衝かれました。

そういう「批評行為」はコンテンツの当否や政治的正しさのレベルではなく「小人か君子」かのレベルにおいて論じられなければならないという知見は現代に見られなくなって久しいものでした。

日大演劇科の『演劇創造』の取材だん。

お題は「戦争」でした。

「第二次世界大戦では、戦勝国も敗戦国も、戦争の総括に成功した国はない。すべての参戦国が固有の『偽りの物語』を語り、語ることのできない『穢れ』を抱え込み、それが今も症状として回帰している」というお話をしました。

京都精華大学の来年度の教員紹介文に自己紹介を書きました。

養老先生と並んで登場です。https://t.co/SpjjKABZTy 

「メンバー見るとわりと野蛮な大学」というふうにご評価頂いて、「そういうのが好き」という高校生に来て欲しいです。

今年の入試では「学者の会」に参加している教員がたくさんいる大学、SEALDsのメンバーがたくさんいる大学を「抑圧的でない、自由な校風の学校」と評価して、偏差値や就職率よりも「キャンパスの風通しのよさ、手触りの暖かさ」を基準に選んでくれる受験生がどれくらいいるか僕は注目しています。

例えば明治学院大学の倍率が有意に増加した場合、それには強権に屈せず言うべきことを言うまっとうな教員と学生を擁する大学であることを、去年さまざまな機会に証明したことが深く与っていると思います。

by めい (2016-01-16 06:36) 

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