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「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(承前) [賀川豊彦]

賀川先生の文章の中に「われ平安を汝らに残す。わが平安は世の与うるが如きにあらず」(ヨハネー四・二七)があって心に掛かった。この節は、先の賀川先生一連の文章に目を通す中で行きあたったのだが、中にこんな箇所があった。


《私は神戸の四万五千人の大労働争議の時、捕えられて刑務所の独房に入れられた時の感謝を今も忘れる事は出来ない。独房は私の最もよき訓練所であり、道場である。/『小人閑居すれば不善をなす』と孔子はいっているが、閑居して最善をなし得るものにのみ天下をまかせ得ると私は考える。独居を楽しみ得るものに全能者は顔を見せ給う。》(「独居」)


熊野先生の言葉を思い起こしていた。


《斎行の時と次第を定めて厳修する御神前でのお祭を、タテと致しますれば、世俗の事に従うとき、人知れず修するものはヨコであり、顕斎と幽斎との別ちに似たものがあります。バスを待つ間とか、読書に疲れて閉目し椅子によるひとときや、朝のめざめの直後、或は就寝の直前床上に端座閉目して行うも宜しく、神気充溢の折は、事務室で人と雑談していても尾てい骨に熱気の移動を感じる人は多いと存じます。寸暇を惜んで常住座臥到る処で「保豆祢神語(ホズネノカムコト)」や「返本魂霊唱(ヘンホンコンレイショウ)」「招運魂神語(ショウウンコンシンゴ)」等を、口中に唱え奉る喜びは何ものにも替え難い黄金の時間帯であります。この自修鎮魂の妙味を知るときは、車中、週刊誌や新聞を読むなどは泥水で手を洗う愚であります、天行居同志にとってはまさに光陰の惜むべきを知らぬ行為でありましよう。通勤の電車の中などは誰に気兼ねも無い世に得難い独りの時間であります》


そして、まだ読み切らないまま埃をかぶっていた『シュタイナー ヨハネ福音書講義』はどういう見解かと引っ張りだして驚いた。賀川豊彦、熊野秀彦、シュタイナー、この三人が私の中でリンクしたのだ。『ヨハネ福音書講義』の最終講を見る。


新約聖書のうち、ヨハネ福音書は、マタイ、マルコ、ルカの三福音書、すなわち共観福音書とは全くちがう。《ヨハネ福音書以外の作者たちは、ヨハネのような開悟の段階に達していませんでした。》ヨハネ福音書には、明確な使命がある。《ヨハネ福音書から発する強い衝動によって、次第に真の霊性を感知し、認識するようになるでしょう。イエス・キリストは、そのような使命を、ヨハネ福音書の作者に与えたのです。》《ヨハネ福音書に深く沈潜するなら、この書は、キリスト教の意味での「浄化」を促す力を持ち、「処女ソフィア」をあなたに与える力を持っている。また、地球と結びついた聖霊がキリスト教の意味での「開悟」をあなたに与えてくれるであろう。》「開悟」は「浄化」とともにある。

 

「汝自身を知れ」という言葉、シュタイナーによれば、《世間のことに気を使わずに、自分の内面に眼を向け、そこに霊性を求めるべきだ》の理解レベルではない。この場合の「認識」は《これまでに達しえた立場からこれまで達しえなかった立場への進化を意味している》。それは「受胎」に例えられる。

 

《「認識」という概念は、霊的な事象を把握していた時代には、現在よりも、もっとはるかに深い、現実的(リアル=生々しい)な意味をもっていました。「アダムは妻エバを知った」(創世紀四章一)または族長の誰かが「自分の女を知った」という聖書の言葉を読むと、それが受胎を意味しているのに気がつきます。ギリシア語の「汝自身を知れ」という格言も、汝の内面に眼を向けよ、ではなく、霊界から汝の中に流れてくるもので汝自身を受胎させよ、と言っているのです。汝自身を霊界の内容で豊かにせよ、と言っているのです。》

 

すごい例えと思う。ブルッとする。《(リアル=生々しい)》は、あえて私が加えた。《受胎》は全く新たな者の誕生だ。《汝自身を知れ》とは《汝自身を霊界の内容で豊かにせよ》ということにほかならぬ。次の文が続く。

 

《そのためには、二つのことが必要になります。第一に浄化と開悟による心の準備が、第二に自分の内面を霊界に向けて自由に開くことがです。認識との関連で言えば、人間の内面は女性と、人間の外面は男性と比較することができます。高次の自我を受容するためには、内面が開かれていなければなりません。そうすれば、人間の高次の自我が、霊界から人間の中に流れ込んできます。》

 

人間の内面と外面とが女性と男性に例えられる。「受胎」によって、人間の高次の自我が、今在るレベルの人間に霊界から流れ込む。

 

ここを読んだ時、賀川豊彦、熊野秀彦、シュタイナーが私の中で思わずリンクしあった。賀川先生が《刑務所の独房に入れられ》て得る至福の時、熊野先生が言う《何ものにも替え難い黄金の時間帯》、その時をシュタイナーは男女による「受胎」に例えた。そもそも「受胎」は英語でconception、すなわち「概念する」なのだ。

 

この書の最後にシュタイナーは言う。

 

《今回学ぶことのできた内容は、感情で受けとめなければなりません。そうすれば、ヨハネ福音書が教えの書であるだけでなく、魂に訴えかける力であることも分かるでしょう。》

 

然り、納得。「浄身鎮魂法」がぴったり重なる。

 

余談だが、一昨日のこと、牧師で園長のK先生と話して、クリスチャンの中には賀川先生に対して大きな反発をもっている方々があるという。たまたま喜田川信著『地上を歩く神ーヨハネ福音書の思想と信仰』(教文社 1999)を手に取った。その「まえがき」にこうあった。

 

《ヨハネの謎めいた言葉や表現が多くの人を魅し、また誤解させたことを忘れてはならない。近代の多くの哲学者は殊にヨハネ福音書を好んだし、またルドルフ・シュタイナーの『ヨハネ伝講義』とか生長の家の教主であった谷口雅春の『ヨハネ伝講義』などはその誤解の一例であろう。》

 

喜田川的批判はシュタイナーにはすっかり織り込み済みのことだ。講義の最後の節「神智学の世界史的意味」の中でこう言っている。

 

《未来の人ぴとは、真のキリスト教と出会うために、この霊的な教えを受け入れるようになるに違いありません。現在のところ、まだ多くの人びとが、「神智学は、真のキリスト教と相容れない」と言っているにもかかわらずです。そういう言い方をする人たちは、自分の知らないことを勝手に判断し、知らないことは存在しないことだ、というドグマを奉じる小さな教皇たちなのです。/そのような不寛容な態度は、これからもますます拡がり続けることでしょう。そしてキリスト教は、今自分たちを善きキリスト者であると思い込んでいる人びとによって、最大の危険に遭わされるでしょう。名前だけのキリスト教徒によって、神智学の中のキリスト教は、ひどい攻撃を受けるでしょう。キリスト教を霊的な観点から本当に理解しようとすれば、宗教上のすべての概念を変化させなければならないのです。特にヨハネ福音書の作者の遺産である偉大な「処女ソフィア」が、そしてヨハネ福音書そのものが、今後ますます人びとの心の中に生きるようになるでしょう。けれども、神智学だけが、ヨハネ福音書の中に本当に深く私たちを導いてくれるのです。》

 

谷口雅春『ヨハネ伝講義』は、早速注文した。「大空にそびえて見ゆる高嶺にものぼればのぼる道はありけり」(明治天皇御製)はいつも心にある。また、神道天行居信条十一「天行(カムナガラ)の道を行くものは苟くも他人の正しい信仰を妨げるような言行があつてはなりませぬ、又た世の中の有らゆる教学(をしへ)のよいところを愛(め)で摂(と)りて魂清(たまきよ)めの資(かて)と致さねばなりませぬ」


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【以下、『シュタイナー ヨハネ福音書講義』の第12講「処女ソフィアと聖霊の本質」全文】

 

12講 処女ソフィアと聖霊の本質

浄化

 昨日は瞑想と集中の修行によるアストラル体の変化についてお話しするところまできました。そのような修行は、さまざまな秘儀参入の方法として与えられてきました。昨日述べたように、この修行によって、アストラル体は、高次の諸世界を直観するのに必要な諸器官を、自分の中に育成できるようになります。修行は、それぞれの文化期に応じた在り方をしていますが、以上の点は、どこにおいても同じでした。原則的な相違が始まるのは、それを超えるところからです。アストラル体に作られた諸器官をエーテル体に組み込み、刻印づけるときからです。

 瞑想と集中によるアストラル体への働きかけを、古い表現は「浄化」(カタルシス)と呼んでいます。この浄化の目標は、調和的な在り方を妨げるものをすべて、アストラル体から取り除くことにあります。それによって、高次の器官を獲得できるようにするのです。アストラル体は、高次の諸器官を素質として持っていますから、そこにまどろんでいる諸力を目覚めさせればいいのです。

 「浄化」を生じさせるためには、実にさまざまな方法が用いられます。たとえば私の『自由の哲学」に述べられていることを、すべて内的に受けとめ、そこにある思考内容を自分で再現できるまでに深く体験したならば、浄化において非常に多くを達成したことになります。この本に対する人が——実際この本はそのように書かれているのですが——ピアノ演奏の大家が演奏する曲に対するように、つまり自分でその全体を再現できるようにするならば、この本の厳密に構築された思考関連を通して、高い程度にまで浄化を達成できるのです。この本の場合、すべての思考内容が現実の力になりうるように組み立てられています。書物の中には、或る内容をもっと前に、別の内容をもっと後にもってくることができるようなものもありますが、『自由の哲学』の場合には、そうすることはできません。一五〇頁に書かれている内容を五〇頁にもってくることはできないのです。犬の前足を後足と取りかえることができないようにです。有機的に組み立てられているこの本の思考内容を徹底して考え抜くことは、ひとつの内的な修行のような効果を持つのです。

 浄化を達成するには、このようにいろいろな方法があります。この本を徹底して読んだ人が浄化を体験しなかったとすれば、それは私の言ったことが間違っていたからというよりは、この本を徹底して読まなかったからなのです。


エーテル体への刻印

 しかしここで、別のことを取り上げなければなりません。浄化を通して、アストラル体に霊的な感覚器官が作られたとき、その器官をエーテル体に刻印づけなければならない、ということです。キリスト教以前の秘儀参入においては、しばしば数年間に及ぶ前段階の修行をすませたあとで、弟子は次のように言われました。——「アストラル体が認識器官をもつところにまで来た。今その認識器官を、エーテル体に刻印づけなければならない」。そして弟子は、或る手続きを経たのです。

 けれども、今日の文化期においては、この手続きは不必要であるだけでなく、真剣に実施すべきものとは言えません。かつては、弟子は三日半の間、無意識の状態に置かれました。この三日半の間、彼は夜、アストラル体が肉体とエーテル体から出ていく眠りを体験しただけではなく、或る程度までエーテル体も肉体から離れました。しかも肉体が無事に保たれ、当人が死なずにすむように配慮されたのです。

 そのとき、エーテル体は肉体の作用を受けず、柔軟な、可塑的な状態にありましたから、アストラル体の働きがエーテル体に向けられると、エーテル体はアストラル体の霊的感覚器官の刻印を受けたのです。そして導師が当人をふたたび通常の状態に戻し、アストラル体と自我がふたたび肉体とエーテル体と結びついたとき、浄化だけでなく、「フォティスモス」つまり「開悟」もまた生じました。周囲の世界の中に、物質的=感覚的な事象を知覚するだけでなく、霊的な知覚器官を使って、霊的な事象をも知覚するために、秘儀参入は、本質的に、浄化と開悟という二つの経過を辿ったのです。

 さて、後アトランティス期の進化全体は、エーテル体がますます肉体と固く結びつく方向に向かっていましたから、身体の機能に障害をもたらすことなく、エーテル体を肉体から引き離すことが次第に不可能になってきました。ですから、浄化の過程で、アストラル体をふさわしく発達させたあと、アストラル体は自分からふたたび肉体とエーテル体に結びつき、そして肉体の妨害をはねのけ、自分の霊的知覚器官をエーテル体に刻印づけができなければなりません。その際、肉体とエーテル体を分離させることなく、それを可能にする方法を用いることができなければなりません。ですから、肉体の抵抗を克服できるくらいに強力な衝動をアストラル体が持てるように、瞑想と集中の力を強めなければなりません。                     

 昨日、七つの段階として述べた、本来のキリスト教的な秘儀参入が、そのためにまず現れました。そこに述べられている感情を深く体験することによって、アストラル体に強く働きかけ、数年後には、——あるいはもっと早くかもっと遅くかに——霊的な知覚器官を彫塑的に形成し、そしてそれをエーテル体に刻印づけられるようにするのです。キリスト教的なこの秘儀参入の方法については、もし私が数日間だけでなく、多分二週間くらい毎日細部に亙ってお話しすることができたら、もっと十分にお伝えできたでしょう。しかし今私たちにとって大事なのは、そのことではありません。

 昨日はキリスト教的な秘儀について、その細部を具体的にお話ししましたが、今日はその原則に、眼を向けなければなりません。キリスト教の弟子は、持続的にヨハネ福音書の言葉を瞑想するとき、三日半の無意識の眠りなしに秘儀に参入することができます。ヨハネ福音書の冒頭の言葉、「初めに言葉があった」から[恵みの上に、さらに恵みを」のところまでを、毎日自分に作用させるのは、この上なくすぐれた瞑想法になるのです。これらの言葉には、そのような力があります。なぜなら、ヨハネ福音書の全体は、読まれ、知的に理解されるためだけにあるのではなく、内的な仕方で体験され、感得されるためにあるのですから。そのように体験されたときには、この福音書そのものが、秘儀を可能にする力となり、一三章以降に述べられているように、「足洗い」「鞭打ち」その他の内的な経過が、秘儀のためのアストラル・ヴィジョンとなって体験されるのです。しかし、薔薇十字会の秘儀はキリスト教の基盤の上に立っているにしても、浄化を達成するために、別の象徴像を瞑想します。人類がさらに一歩先へ進化を遂げたので、秘儀の方法もそれに対応しなければならなくなったのです。


汝自身を知れ

 さて、秘儀に参入した人は、以前とはまったく異なります。それまでは、物質界の諸事象と関わっていたのに、今や霊界の諸事象と関わることができるようになるのです。通常の抽象的で、散文的な意味での認識に較べて、はるかに生きいきとした現実認識を獲得し、そして霊的認識はまったく異なる過程を辿ります。その認識の過程は、美しい格言「汝自身を知れ」に応えるものです。しかしこの格言を誤解することは、認識の分野における、もっとも危険な落とし穴を意味します。現代人はあまりにも安易に、そこに落ち込んでしまいます。

 多くの人はこの格言を次のように解釈しています。すなわち、世間のことに気を使わずに、自分の内面に眼を向け、そこに霊性を求めるべきだ、というのですが、これはこの格言を大変に誤解しています。そういう意味ではなく、この場合の認識というのは、これまでに達しえた立場からこれまで達しえなかった立場への進化を意味しているのです。自分の中に抱え込んでいるだけの自己認識に終始していると、これまでに経験してきたことしか見えません。自分の低次の自我による認識だけしか持てません。その場合の自己認識は、認識のために必要な一部分でしかないのです。他の部分がこれに付け加わらなければなりません。二つの部分がそろわなければならないのです。

 内なるものを通しても、認識のための諸器官を発達させることはできますが、太陽を知るには、外的感覚器官としての眼が自分自身の内面を見てもだめで、外なる太陽に眼を向けなければならないように、内なる認識器官も霊的な外界へ眼を向けなければ、真の認識には至りません。「認識」という概念は、霊的な事象を把握していた時代には、現在よりも、もっとはるかに深い、現実的な意味をもっていました。「アダムは妻エバを知った」(創世紀四章一)または族長の誰かが「自分の女を知った」という聖書の言葉を読むと、それが受胎を意味しているのに気がつきます。ギリシア語の「汝自身を知れ」という格言も、汝の内面に眼を向けよ、ではなく、霊界から汝の中に流れてくるもので汝自身を受胎させよ、と言っているのです。汝自身を霊界の内容で豊かにせよ、と言っているのです。

 そのためには、二つのことが必要になります。第一に浄化と開悟による心の準備が、第二に自分の内面を霊界に向けて自由に開くことがです。認識との関連で言えば、人間の内面は女性と、人間の外面は男性と比較することができます。高次の自我を受容するためには、内面が開かれていなければなりません。そうすれば、人間の高次の自我が、霊界から人間の中に流れ込んできます。一体、人間の高次の自我は、どこに存在しているのでしょうか。人間個人の内部に存在しているのでしょうか。そんなことはありません。土星紀、太陽紀、月紀に、高次の自我が宇宙全体に注ぎ込まれました。そしてその宇宙自我が、人間に注ぎ込まれました。この自我を、人は自分に作用させなければなりません。すでに用意されていた内面に、この自我を作用させなければなりません。言い換えれば、人間の内面、つまりアストラル体は、純化され、浄化されなければなりません。そうすれば、外なる霊的な働きが人間の中に流れ込み、悟りに到ることが期待できるのです。人間が自分のアストラル体を浄化し、それによって内なる認識器官を開発するまでに到るなら、このことが生じます。


処女ソフィアと聖霊 

 こうしてアストラル体は、エーテル体と肉体の中に沈み、ついには開悟に到ります。言い換えれば、周囲に霊界を知覚するようになります。人間の内面であるアストラル体は、エーテル体の提供するものを、エーテル体によって宇宙全体から、宇宙自我から吸収したものを、受けとるのです。

 キリスト教の秘教は、この浄化され、純化されたアストラル体を、「純潔で賢明な処女ソフィア」と呼びました。アストラル体の開悟の瞬間には、物質界からの不純な印象は、何ひとつ残っておらず、霊界を認識する器官だけが働いているのです。浄化の状態で受容するすべてを通して、人間は自分のアストラル体を「処女ソフィア」にするのです。

 この「処女ソフィア」に対峙しているのが、「宇宙自我」です。宇宙自我は、開悟をもたらします。自分の周囲に、霊光を見出せるようにするのです。「処女ソフィア」と並んで存するこの「宇宙自我」は、キリスト教の秘教では、今日でも、「聖霊」と呼ばれています。

 ですから、秘教的キリスト者が、秘儀を通して、みずからのアストラル体を純化し、浄化するとき、みずからのアストラル体を「処女ソフィア」にし、その中に宇宙自我である「聖霊」の光を受けるのです。こうして開悟を得た人、キリスト数的秘教の意味で「聖霊」を自分の中に受容した人は、別の語り方をするようになります。

 そのとき、どのように語るのでしょうか。その人が土星紀、太陽紀、月紀について、人間本性の諸部分について、宇宙進化の経過について語るときには、それがその人の意見ではないように語るのです。その人自身の立場は、まったく顧慮されていません。こういう人が土星紀について語るときには、土星紀がその人を通して語るのです。太陽紀について語るときには、太陽の霊的本性がその人を通して語ります。人は、道具になるのです。その人の自我は、消滅します。非人格化するのです。そして宇宙自我がその人を道具に用い、道具として語らせるのです。

 ですから、真のキリスト教の秘教にとって、意図や意見は問題にされません。そういうものは正当な、有効なものとは見なされません。真のキリスト教の秘教を伝授された人にとっては、眼の前の二頭の馬のうちの一頭の方を気に入らない、と語ることが問題なのではありません。馬の様子を述べ、真実を再現することだけが問題なのです。一切の個人的見解を離れて、霊界について観察したことを再現することだけが大切なのです。神智学においても、事実の経過だけが記述されるのでなければなりません。それを記述する当人の意見は、まったくどうでもいいのです。

 このようにして、まず二つの概念が霊的な意味で明らかになりました。ひとつは「処女ソフィア」で、これは浄化されたアストラル体のことでした。もうひとつは「聖霊」で、これは「処女ソフィア」となったアストラル体を通して語る「宇宙自我」のことです。

 ここからさらに一段と高次の段階に達するには、それだけでは不十分です。他の人を助けて、他の人もこの二つを獲得しようとする衝動を持てるようにしなければなりません。私たちの進化期の人間は、浄化されたアストラル体である「処女ソフィア」と開悟を意味する「聖霊」とを、以上のようにして受けとることができますが、しかし、そのために必要なことを地球に提供することができるのは、イエス・キリストだけです。実際、イエス・キリストは、キリスト教の秘儀伝授を可能にする力を、地球の霊的部分に浸透させたのです。しかし、このことは、どのような意味においてなのでしょうか。


命名の秘密

 このことを理解するには、二つのことが前提になります。第一に、「名前」の意味を知らなければなりません。福音書が書かれた時代には、現代とはまったく違った仕方で、名前がつけられたのです。

 今日の福音書研究者が福音書の書かれた当時の名づけ方を理解していない限り、正しい解釈は期待できないでしょう。とはいえ、当時の名づけ方の原則を述べることは、非常に困難です。しかし大雑把な仕方であっても、それを明らかにすることができなければなりません。

 どうぞ考えてみて下さい。私たちが眼の前にいる人に向き合うとき、その人の名前を、ただそういう名前として受けとるだけではなく、その人の優れた性質をも、その名前から聴きとることができたとするのです。そうすることのできる人は、相手の深い本性が霊視できるでしょうし、その人の主要な本性にふさわしい名前を、その人のために考えることもできるでしょう。

 もしもそれが可能だったとすれば、ヨハネ福音書の作者の意味での名前のつけ方が分かったでしょう。ヨハネ福音書の作者は、イエスの実際の母の優れた性質を見て、その性質にふさわしい名前を考えました。この母は、以前の諸人生を通して、霊的な高みへ達していました。外から見ることのできる彼女の人柄は、キリスト教の秘教の言う「処女ソフィア」を明らかに示していましたから、作者はイエスの母を「処女ソフィア」と呼んだのです。

 そのように、イエスの母は、キリスト教秘教においては、常に「処女ソフィア」と呼ばれました。他の福音書作者たちが、イエスの母を「マリア」という世俗名で呼んだ一方で、ヨハネ福音書の作者は、公教的な意味での彼女の名前を、まったく呼ばずにいたのです。ヨハネは名前を通して、深い世界史的な進化の過程を表現しようとしました。ですから、イエスの母を「マリア」とは呼ぼうとせず、むしろ彼女の妹に「クレオパスの妻マリア」という名を与えたのです。そのことによって、ヨハネは、自分はイエスの母の名を呼ぼうとは思わない、そういう呼び名を広めるつもりはない、と示唆したのです。秘教的な集まりにおいては、イエスの母は常に「処女ソフィア」と呼ばれました。彼女は、歴史上「処女ソフィア」を代表する人物なのです。


「ナザレのイエス」と「イエス・キリスト」

 第二に、キリスト教とその創始者の本質に迫るために、「ナザレのイエス」と[イエス・キリスト」とを区別しなければなりません。なぜでしょうか。

 ナザレのイエスという歴史上の人物は、輪廻転生を通して、高い進化に達した人物です。そしてその結果、ヨハネが「処女ソフィア」と呼んだ、アストラル体の浄化された魂を持つ母のところに引き寄せられたのです。ナザレのイエスという偉大な人物は、すでに前世において、はるかに進化を遂げており、当時すでに高次の霊界に参入していたのです。

 ヨハネ福音書以外の作者たちは、ヨハネのような開悟の段階に達していませんでした。むしろ彼らに開示されていたのは、この地上の世界で、彼らの師であり救世主であるナザレのイエスが遍歴している姿でした。より神秘的な霊的関連は、少なくともヨハネが霊視した高みは、彼らには隠されていたのです。ですから、ナザレのイエスの中に、ユダヤ人のすべての世代を通じて働いている神、つまり父なる神が生きて働いている、ということに特別の価値を置いていました。彼らは次のように語っているのです。「ナザレのイエスの家系を遡ってたずねてみると、諸世代を通じて流れてきた血が彼の中にも流れているのを証明することができる」。

 ですから、系図を取り上げて、それぞれの人物がどのような進化段階に達しているかを述べているのです。マタイは、なかんずく、ナザレのイエスの中に、父アブラハムが生きている、と感じています。父アブラハムの血がイエスのところにまで流れているのです。ですから、マタイ福音書の第一章第一節から一七節で、アブラハムにまで至る系図を示しています。それほど物質的な立場に立っていないルカは、イエスの中に、すでにアブラハムの中にも生きていた神が生きて働いている、と述べるだけでなく、その血統をアダムにまで遡って述べるのです。アダムは神自身の子でした。言い換えれば、アダムは、人類がはじめて霊性から身体性へと移行した時代に属していたのです(ルカ三章二三−三八)。マタイとルカの場合、この歴史上のナザレのイエスが、父なる神にまで遡りうる血統の中で生きていたことを示しているのです。

 霊的事象に眼を向けるョハネにとっては、そのことが大切だったのではありません。「私と父アブラハムとはひとつだ」という言葉が大切だったのではなく、人間の中には、どんな時にも、父アブラハム以前から存在している「永遠なるもの」が存在している、と説いたのです。太初に「ロゴス」が、つまり「私である」があったのです。一切の外的事象以前に、ロゴスがあった。ロゴスは太初にあった、というのです。

 一方、ナザレのイエスに眼を向ける福音史家たちは、血が初めから世代を通じて流れてきたことを示します。ナザレのイエスの父、ヨセフの中に、世代を通じて流れてきた血が生きていたことを示すのです。

 秘教の観点から語るのであれば、ここでいわゆる「処女懐胎」にも触れなければなりませんが、それを語るのは、ごく限られた人たちの間でしか可能ではありません。それは、存在しうるもっとも深い秘儀に属する事柄でからです。この言葉に対する無理解は、そもそも処女懐胎とは何かを、まったく知らないことに由来するのです。人ぴとは、それによって、父性が存在しないことを指示している、と思っています。しかしそのことではなく、もっとはるかに深い秘密がその背後にあるのです。

 ヨハネ以外の作者たちが述べている、「ヨセフが父である」ことが、まさにその背後にある秘密と結びついています。もしもこの作者たちが、「ヨセフが父である」ことを否定するとしたら、彼らが述べようとしていることが、まったく無意味になってしまうでしょう。彼らは、古い神がナザレのイエスの中に生きていることを、教えようとしています。特にルカは、そうはっきりと述べています。ですから、家系全体をアダムにまで、そして神にまで遡らせるのです。しかし、もしもルカが、このような系譜は存在する、しかしヨセフはイエスの出生とは無関係である、と言うのでしたら、イエスとアダムを結びつける系譜にはなりません。ヨセフを重要な人物と位置づけながら、しかも彼をイエスの関連全体から切り離すのは、実に奇妙なことです。


キリストの受肉

 けれども私たちは、パレスチナのこの出来事に際して、多くの転生を重ねて、偉大な進化を遂げ、傑出した母のもとに生まれたナザレのイエスだけを取り上げるのではありません。第二の秘儀をも問題にするのです。

 ナザレのイエスが三〇歳になったとき、彼はそれまでの人生の諸体験を通して、例外的な状態で遂行される特別の経過を体験するところにまで達しました。人間という存在は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我から成り立っています。この四重の人間が私たちです。この人間が一定の進化を遂げますと、或る時点で、自我を他の三つの存在部分から切り離して、三つの存在部分を完全に健全な状態のまま、あとに残すことができるようになります。自我は霊界へ入り、他の三つの部分はあとに残されます。私たちは時折、この経過を世界史の中に見出します。

 特別に高揚した瞬間が、或る人物に訪れるのです。この瞬間は、長く持続することもあります。そのようなとき、自我がひとり離れて、霊界へ赴くのです。そして残りの三つの部分も、自我によって高次の進化を遂げているので、高次の霊たちの道具になりうるのです。

 ナザレのイエスが三〇歳になったとき、「キリスト」がこのイエスの三つの存在部分を自分の道具にしました。キリストが通常の子どもの身体に受肉することは、不可能でした。高度に進化を遂げた自我によって準備された身体の中にしか受肉できません。キリストは、これまで一度も人体に受肉したことはなかったのです。ですから、三〇歳のナザレのイエスの中にのみ、キリストが存在することができたのです。

 一体、何がそこに受肉したのでしょうか。ナザレのイエスの身体は、成熟した、完全な身体であったので、その中に太陽ロゴスが、つまり太陽の霊的本質としてすでに述べたあの六エロヒーム(太陽を居住地とする六つの霊。光の霊であり、愛の送り手)の本質が入ったのです。この本質存在は三年の間、この身体に受肉することができました。ロゴスが肉となったのです。開悟を通して人間の中に輝くことのできた太陽ロゴス、聖霊、宇宙自我が、それから三年の間、イエスの身体から語り続けたのです。このときの受肉の経過は、ヨハネ福音書や他の福音書の中で、鳩となった聖霊がナザレのイエスに降下した、と述べられています。秘教のキリスト教では、この瞬間に、ナザレのイエスの自我が、その身体から離れ、それに代わって、キリストの霊がその身体から語り、教え、導いた、と教えています。これがョハネ福音書の意味での、最初の出来事なのです。今や、キリストがイエスのアストラル体、エーテル体、肉体に働いています。キリストは、すでに述べた意味で、ゴルゴタの秘儀に到るまで働きます。ゴルゴタでは、どんなことが生じたのでしょうか。


太陽ロゴスと地球の結合

 ゴルゴタでは、次のことが生じました。十字架にかけられた人の傷から、血が流れたのです。この重要な瞬間を理解するために、別の例を挙げて、この出来事と比較しながら、考えてみようと思います。

 ここにあるグラスに水を入れ、濁らない程度に塩をそこに混ぜてみて下さい。水をあたためると、塩は完全に溶けますが、冷やすと、塩が沈殿して、底にたまります。この経過は、眼で見ることができます。けれども、霊眼で見ると、別の経過が生じているのが分かります。グラスの底の塩が固まるとき、塩の精が上に向かい、グラスの水を満たします。塩の精が塩から離れて、水の中に拡がるときにのみ、塩は固まるのです。この事情に通じている人は、濃縮化が常に霊化の過程をも伴っていることを知っています。下で濃縮するものは、同時に上に向かって霊化するのです。それとまったく同じように、血が救済者の傷口から流れ出たとき、物質的な経過が生じただけではなく、霊的な経過もそれに伴って生じました。そしてこの経過は、洗礼の際に降下した聖霊が、大地と結びつき、キリスト自身が地球存在の中に流れ込んだことを意味しています。このときから、地球は変容したのです。ですから、以前にも述べたように、もし誰かが遠い星から地球を眺めたとしたら、地球全体の姿が、ゴルゴタの出来事と共に、変化したのを見ることができたでしょう。太陽ロゴスが地球と結合し、「地球の霊」となったのです。太陽ロゴスは、まず、三〇歳のときのナザレのイエスの体に入り、三年間その中で働き、ついには地球と結びついて活動するようになったのです。

 この出来事は、前述した意味での「浄化」されたアストラル体を獲得することができるようになったことを意味します。自分のアストラル体が次第に「処女ソフィア」に近づき、「聖霊」を受容できるものとなる可能性が、キリスト者に与えられたのです。


ヨハネ福音書の使命

 「聖霊」がどれほど地球上に拡がっていたとしても、アストラル体が浄化されていなければ、それを受容することができません。アストラル体を「処女ソフィア」にする力がなければなりません。この力はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストが、ヨハネ福音書の作者である愛する弟子に委託して、弟子の開悟の力で、パレスチナの諸経過を忠実に記述させ、人びとがその諸経過の作用を受けることができるようにしたことの中にあるのです。

 ヨハネ福音書の内容を十分に自分に作用させるならば、アストラル体が「処女ソフィア」に近づき、いつか聖霊を受け入れるようになるでしょう。ヨハネ福音書から発する強い衝動によって、次第に真の霊性を感知し、認識するようになるでしょう。イエス・キリストは、そのような使命を、ヨハネ福音書の作者に与えたのです。この福音書によれば、十字架のそばにイエスの母が、つまりキリスト教秘教の意味での「処女ソフィア」が立っています。そして十字架上からキリストが愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」と語ります。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(一九章二七)のです。つまり「私のアストラル体の中にあった力を、聖霊が担えるようになる力を、私はあなたに授ける。このアストラル体の本質が何であるのか、書き記しなさい」。そう述べているのです。

 「弟子は彼女を自分の家に引き取った」というのは、彼が福音書を書いたという意味です。この福音書は「処女ソフィア」の力を秘めています。十字架のもとで、「処女ソフィア」を自分の母とし、「メシア」の真の語り部となるように、という委託を、ヨハネは受けたのです。このことは本来、次のような意味に理解されなければなりません。——ヨハネ福音書に深く沈潜するなら、この書は、キリスト教の意味での「浄化」を促す力を持ち、「処女ソフィア」をあなたに与える力を持っている。また、地球と結びついた聖霊がキリスト教の意味での「開悟」をあなたに与えてくれるであろう。


霊において見る

 もっとも身近な弟子たちは、当時のパレスチナで経験したことがあまりに強烈だったので、霊において見る力を、少なくとも可能性として、持つことができました。なぜなら、キリスト教の意味での「霊において見る」とは、パレスチナの出来事の働きによって、アストラル体がっくり変えられたので、弟子たちが見ようとするものが、もはや外的、物質的に存在する必要がなくなることを意味していたからです。

 霊的なものに眼を向けることを可能にするものが、他にもあります。ベタニアの街で、イエス・キリストに香油を塗った女は、パレスチナの事件によって、霊眼を持つようになりました。ですから彼女は、イエスの中に生きていた存在が、死後復活したことを最初に知ったひとりになりました。彼女は一体、どのようにして霊眼を持つようになったのでしょうか。内なる感覚器官が開いたことによってです。

 そう述べられているでしょうか。マグダラのマリアは、墓に導かれます。死体はすでになく、彼女は墓に二人の霊的な姿を見るのです。死体がかなりの間、一定のところに置かれているときは、常にこの二人の霊的な姿を見ることができます。一方ではアストラル体が、他方では次第に宇宙エーテルに溶け込んでゆくエーテル体がそのように見えるのです。肉体とは別に、霊界に属する二つの霊的な形姿がそこに見られるのです。

  それから、この弟子たちは家に帰っていった。マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら

  身をかがめて、墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天

  使が見えた。(二〇章一〇−一二)

 彼女は、パレスチナの出来事によって見霊的となったので、そのように見たのです。それどころか、復活した姿をも、彼女は見ました。一体、それを見るために、彼女は見霊能力を必要としたのでしょうか。私たちは或る人の姿を何日か前に見、そして何日か後にも見るとき、そこに同一人物を認める自信があるでしょうか。

  こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエス

  だとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探している

  のか」。マリアは、園丁だと思った。(二〇章一四–一五)

 このような言葉は、ただ単にそう述べられているだけなのではありません。できるだけ厳密にそれを受けとれるように、一回だけ私たちにこう語るのではなく、ティベリアス湖畔で、復活したイエスが二度目に現れたときにも、同じことが言われるのです。

  既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分

  からなかった。(二一章四)

 秘教の弟子たちは、やっとそこに彼を見出します。パレスチナの出来事の働きをすべて受けとった人びとは、それが復活したイエスであることを、霊において見ることができたのです。

 弟子たちとマグダラのマリアがその姿を見たとき、そこにいた何人かは、まだ見霊能力をあまり発達させることができずにいました。トマスもそのひとりでした。弟子たちが主を初めて見たとき、トマスはそこにいなかった、と言われています。そして彼は自分で、自分の手を主の傷口にあて、復活したものの体にさわらなければ信じられない、と言います。そこで何が起こったでしょうか。そうすることで、彼にも見霊能力を与えようとしたのです。それはどのようにして生じたのでしょうか。

  さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあっ

  たのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、

  トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を

  伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者にではなく、信じる者になりなさい」。(二〇章二六–二七)

 外の光景だけを信じるのでなく、内なる力を発揮できるようにするならば、何かを見るようになるだろうというのです。(イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」二〇章二九)

 パレスチナの出来事から発するこの内なる力を、「信仰」と呼ぶのです。それは単なる信じる力ではなく、内なる見霊的な力なのです。

 この内なる力を発揮すれば、もはや外に見えるものだけを現実だと思う必要はありません。なぜなら、外に見えないものについて知ることのできる人びとは、幸いなのですから。

 このように、ここでは復活の真実が語られています。そして霊的なものを見る内なる力をそなえたものだけが、この復活を認識できるというのです。このことは、ヨハネ福音書の最後の章の意味を理解させてくれます。この章では、イエス・キリストのもっとも親しい弟子たちの前で、この出来事が成就したことによって、この弟子たちが「処女ソフィア」に到ったということが、はっきりと示唆されています。けれども、弟子たちが初めて霊的な出来事を実際に見、それに耐えなければならなかったとき、彼らは眼がくらみ、何が何だか分からなくなりました。彼らは、それが以前一緒にいてくれた人だったとは気がつかなかったのです。

 このことを理解するには、この上なく深遠な概念を使わなければなりません。実際、粗雑な唯物的思考の持ち主は言うでしょう。—「何だ、復活があやしくなったじやないか」。復活の奇蹟は、文字通り受けとらなければなりません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ伝二八章二〇)、とイエス・キリストは語っているのです。


神智学の世界史的意味

 彼はそこにいます。そしてふたたびやってくるでしょう。肉体を持ってではありませんが、これまでヨハネ福音書の力で進化を遂げてきた人びとなら、実際に見えるような姿をとってです。霊的な力を身につければ、必ず彼を見ることができるのです。この「見えるようにする」という使命を持っているのが、神智学の運動なのです。それは、地上でのキリストの再来を準備する人たちの運動なのです。キリストが第六後アトランティス文化期にふたたび現れるとき、「カナの饗宴」との関連で、すでに示唆しておいたことを成就させるために、人類社会の大部分の人びとに見霊能力を与えること、これが神智学の世界史的な意味なのです。

 こう考えると、神智学は、キリスト教の遺言の執行者であるように思えます。未来の人ぴとは、真のキリスト教と出会うために、この霊的な教えを受け入れるようになるに違いありません。現在のところ、まだ多くの人びとが、「神智学は、真のキリスト教と相容れない」と言っているにもかかわらずです。そういう言い方をする人たちは、自分の知らないことを勝手に判断し、知らないことは存在しないことだ、というドグマを奉じる小さな教皇たちなのです。

 そのような不寛容な態度は、これからもますます拡がり続けることでしょう。そしてキリスト教は、今自分たちを善きキリスト者であると思い込んでいる人びとによって、最大の危険に遭わされるでしょう。名前だけのキリスト教徒によって、神智学の中のキリスト教は、ひどい攻撃を受けるでしょう。キリスト教を霊的な観点から本当に理解しようとすれば、宗教上のすべての概念を変化させなければならないのです。特にヨハネ福音書の作者の遺産である偉大な「処女ソフィア」が、そしてヨハネ福音書そのものが、今後ますます人びとの心の中に生きるようになるでしょう。けれども、神智学だけが、ヨハネ福音書の中に本当に深く私たちを導いてくれるのです。


                     *


 以上の連続講義の中では、神智学がヨハネ福音書の中にどのように導き入れてくれるのかについて、ひとつのサンプルを提示したにすぎません。実際、ヨハネ福音書全体を解明することなど、不可能です。そのことは、この福音書の中にも記されています。

   イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書

   くならば、世界もその書かれた書物を収めきらないであろう。(二I章二五)

 ヨハネ福音書自身が、パレスチナの出来事の細部を一つひとつ述べることができなかったように、どんな長大な連続講義も、ヨハネ福音書の霊的な全容を解明することはできません。ですから今回は、以上に述べた内容で満足しなければなりません。しかし、本当に満足できるのは、このような示唆を通して、キリスト教の真の契約が、人類の進化に役立つときだけです。他の人びとがやってきて、「君たちの概念は、複雑すぎる。そういう概念で福音書をとらえることはできない。福音書は単純な、素朴な人たちのためにあるのだ」と言うときにも、私たちは、ヨハネ福音書から学んだ内容を基礎にして、しっかりと立つことができなければなりません。他の人ぴとは、多分、次の言葉を引き合いに出すでしょう。

   心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ伝五章三)

 こういう引用ができるのは、この言葉の意味を正しく理解していないときだけです。この言葉の真の意味は、次の通りです。

   霊における物乞いは、幸いである。その人たちは、天の国を自分自身の中に見出すであろう。

 乞食のように霊を求める人ぴと、霊を求めてやまない人びとは、自分の中に天の国を見出すのです。

 すべて宗数的なものは、素朴であり、単純である、というのが、現代人の意見です。科学なら、どんなに複雑な概念を使っても、容認できる。しかし信仰と宗教は、単純、素朴でなければならない。多くの「クリスチャン」は、そう言います。だから偉大な唯物論者ヴォルテールの次のような立場は、たとえその言葉の由来を知らなくても、多くの人びとの心に巣喰っているのです。——「預言者であろうとする人は、信仰を持たねばならない。自分の語ることを自分で信じていなければならないからだ。そして単純なことを何度でも繰り返すとき、それが信仰の対象になる」。

 現在の多くの預言者に、真の預言者にも、偽の預言者にも、この言葉が当てはまります。その人たちは、何かを語り、そしてそれを何度でも繰り返します。そうすると、人びとは、それが繰り返されるので、信じ始めるのです。神智学者は、このような預言者であろうとはしていません。預言者であるつもりは、まったくないのです。人ぴとは彼に言うでしょう。——「お前だって同じことを繰り返している。いつも同じことをいろいろな側から、いろいろな仕方で語っている」。

 もし、そう言われたとしても、神智学者は、自分のその態度を間違っているとは思いません。預言者は、信じさせようとしてそうするのですが、神智学者は、信仰にではなく、認識に導こうとしてそうするのです。私たちは、ヴォルテールの言葉を別な意味で受け入れます。「単純なことは信じられる。そしてそれが預言者のやり方だ」と彼は言います。「しかし、多様なことは認識される」と神智学者は言うのです。

 神智学の内容は多様なのです。それは信仰告白なのではなく、多様性を甘んじて引き受ける認識の道なのです。このことをよく意識していなければなりません。キリスト教のもっとも重要な文献のひとつ、ヨハネ福音書を理解するために、多くの事柄を取り上げるのをためらってはなりません。ですから私たちは、ヨハネ福音書の深い真実を、もっと、もっと理解できるようにするために、できるだけ多様な問題を取り上げようとしました。イエスの身体上の母が「処女ソフィア」の外的な現れであり、模像である、ということ、イエスの愛した秘儀上の弟子ヨハネにとって、「処女ソフィア」とは、霊的に何を意味していたのかということ、身体上の系譜に注目する他の福音書作者たちにとっては、血のつながりが神の外的な現れであったので、身体上の父が大切だったということ、さらにはヨハネにとって、「聖霊」が何を意味しているのかということ、キリストは「聖霊」を通して、三年の間イエスの中に産み出されました。この聖霊は象徴的に、洗礼者ヨハネの洗礼に際して、降りてきた鳩として暗示されています。こういうことを理解するためにです。

 ですから、もしも「聖霊]がキリストの父であり、聖霊がイエスの体にキリストを生まれさせたのだ、と理解するならば、この事柄をあらゆる側面から考察するならば、それほど深く秘儀に参入していない他の弟子たちが、主の愛した弟子ほどに、パレスチナの出来事に深い理解を持てなかったことが、納得できるでしょう。今日の人が、共観福音書だけを認めようとするのは、その人がヨハネ福音書の真の姿を理解しようとしないからにすぎません。誰でも、自分の精神は、自分の理解する精神でしかないのです。

 今回学ぶことのできた内容は、感情で受けとめなければなりません。そうすれば、ヨハネ福音書が教えの書であるだけでなく、魂に訴えかける力であることも分かるでしょう。

 ヨハネ福音書の内容は、決して以上に述べたことに留まりません。ヨハネ福音書は、言葉という廻り道を通して、魂白身を前進させる力をも含んでいます。このことが、この短い連続講演を通して、皆さんの感情の中に生きることができたとき、この連続講義は意味を持ちうるのです。この講義は、知的な理解力のために行われたのではなく、知的な理解力という廻り道を通って、感情に働きかけるために行われました。そして感情は、講義で述べた個々の事柄から生み出された感情でなければなりません。このことが正しく理解されるならば、神智学がキリスト教を叡智として捉え、叡智による廻り道を通って、キリスト教の真の偉大さを理解できるものにするという使命を持っていることが分かっていただけると思います。キリスト教は、今まさに、その働きの発端にあるのです。そしてその真の働きは、それを霊的な観点から受けとめるとき、初めて成就されます。以上の講義を、どうぞこの意味で受けとり、理解して下さいますように。


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めい

「処女ソフィア」を検索して発見したサイト。
「アリストテレスったいなぁーの神秘学野郎!哲学を理解するには神話に目覚めよう! 」https://blogs.yahoo.co.jp/go5dolphin

   *   *   *   *   *

キリストの母の名前はマリアではない
2005/12/12(月) 午後 4:50
https://blogs.yahoo.co.jp/go5dolphin/19165905.html

 聖母マリアはキリストの母と通俗では思われているが、福音の真相を知ればそうではないことがわかる。では、なぜ、マリアとされたのかというと、それは宗教。ここでいうキリスト教自体が、唯物論に堕落しているからに他ならない。
 
 現代人が、感覚の拠り所とする肉体でしか物事をみていなく、近世において発達した唯物論をもとに、全てを解釈するにおいて、肉体的死は、唯物的無を意味するものとなってしまう。

 唯物論では物質的身体をもって人間だと唯物的に錯覚している。ここから、太古でいわれる、ふたり生まれしか、この世に存在しないと解釈されてしまうのである。神秘学では、人間は肉体の他に、生命体、感受体、自我を有すると何度も書いてきたし、肉体だけでは、生命あるものとはならないし、生死の意味も漠然としたものにしか定義できない。

 肉体を失っても魂はあるのだ。言葉を話す存在は魂の一形態である。言葉を通して汝を語るのは、精神の存在所以なのだ!

 キリストの出生の秘密は、キリスト教の秘教のなかにある。ヨハネの福音にあるごとく、キリストはひとり生まれと、当時、神の子として生まれたという意味において、書かれていると前に、述べた。肉体がイエスのものであったとしても、生命体、感受体、自我そのものはイエスのものではなかったのである。

 イエスが30歳のときに、ヨハネの洗礼により、イエスの自我は霊界に帰っていき。神の子キリストが、イエスの肉体に、降下したのがその真相だといわれている。

 だからして、神の子キリストの母は、マリアと呼ばれる人間ではなく、正式には処女ソフィアと呼ばれている。そして父もヨセフではなく、聖霊であるとされる。父ヨセフも母マリアも、イエスという肉体(聖杯)を生んだ存在だといえる。

 では、聖母マリアはどこからくるのだろうか?

 イエス(肉体)の父ヨセフは、アブラハムにつながるユダヤ人の正統の系統に属する。そしてアブラハムはアダムにつながりアダムは神々につながる。聖杯を生む肉体に、特別に配慮されたものだという。 父ヨセフも母マリアも、聖杯イエスを生む存在だったと解される。

 だからして、アヴェマリアと、天使が囁くとき、それは悪魔に唆され、智慧の実を食べ、霊界から物質界へ受肉した象徴の、マリアに対して、天界のエヴァに戻れという意味で、エヴァの反対のアヴェを、マリアの冠詞に使ったのだとされる。

 このようなマリアの話は、聖杯伝説として受け継がれていく。

 とどのつまり、キリストは神の子、イエスは人の子を意味するものである。人の子とは、秘儀参入者のことであり、当時は蛇で象徴されたという。

 イエスという聖杯が、秘儀参入者として30歳で、人の子として、最高度に、生命体、感受体を発展させ(それらはそれぞれ、天からの仏陀の作用と、ゾロアスターの転生の作用だとされる)、聖霊である6柱の神々の子、キリストの自我を受け入れる準備ができて、ヨハネの洗礼により、受胎したとされるのである。

 つまり、そのイエス=キリストとして合体したものの、父は聖霊(太陽霊)で、母は処女ソフィア(地球霊)ということなのである。

 そして、キリストは十字架で血を流すことにより、旧約から新約、新しい人類の自我を、太陽から地球にもたらしたのである。

 処女ソフィアとは、人類一人一人の感受体であり、父聖霊により植え付けられた種の、個人的な「わたし」の自我(子キリスト)を宿す、土を意味する。処女ソフィアに、愛をもって、自由な自我の芽を育てなさいという意味なのだ!

 聖母マリアが子キリストを抱く絵や像は、その意味なのである。

 このような神性を、芸術的に表現できたのは、ギリシャ時代の「わたし」という個人的自我に目覚めたときからであるとされる。神々と離れ、神々を外から、霊的にみれるようになって、はじめて可能だったといわれる。ギリシャ時代は、神の子と人の子が最も近くに存在した時代だからといわれる。

 ギリシャ時代の芸術家は、自らの自我のなかに、神々を感じることができた人の子(秘儀参入者)だったからであるとされる。だから有名なモナリザの絵は、ダビンチによく似ているのである。ダビンチの中の神性を取り出したものだからである。

 ギリシャ時代より前では、集合魂のなかにしか、人間は神々を認識できなかったのである。人の子ではなかった。まだ、獣の子だったのである。だから、あらゆる像や絵を書くことが禁じられた。偶像崇拝は、神でないもの、真実でないものを表現する可能性を増した。

 それは神の子キリストが下降してはじめてそれを真似ることでできる。それより以前では、モーセのような高度な秘儀参入者だけそれを表現できた。

 聖母マリアの子供を抱く像は、人間のなかにある感受体のなかの、自我を表現している。

 人類1人1人の母性(地球)である感受体を、父性(太陽)の自我(子)を基に、愛と自由に芽ばえ、育てなさいという意味なのである。

 そこに三位一体の創造の概念が隠されている。

 自我が自由と愛の名のもとにおいて、人類1人1人が、再び神々と交信できるように、マナス(霊我)を手に入れよということなのである。

 自我がエゴを捨て、感受体に愛と自由を宿せた部分を、マナスと呼び、マナスを手に入れると、人間は、感受体を、自ら光輝くものとすることができるという。そのとき、自我は感受体を無理なく制御でき、こころのなかの葛藤はなくなるという。


by めい (2018-12-27 05:25) 

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