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摺上原合戦戦死者慰霊祭 [神道天行居]

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昨日、伊達政宗の父輝宗の重臣遠藤基信の子孫遠藤富博氏が主宰された福島会津の摺上原(すりあげはら/猪苗代町磐根磨上原)での摺上原合戦戦死者慰霊祭に行ってきました。伊達政宗が蘆名義広に勝利し、南奥羽の覇権を確立した摺上原の合戦は426年前、天正17(1589)年6月5日のことです。昨日(717日)は、旧暦62日、ほぼその日に合わせての斎行です。


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摺上原は磐梯山の裾野、猪苗代湖を眼下に望む広々とした一帯です。伊達側21,000人、蘆名側16,000人が朝早くからこの日夕刻まで撃った斬ったの烈しい殺し合い、伊達軍500人 蘆名軍1,800人の戦死者を出す壮絶な戦いだったといいます。一次資料ともいうべき「伊達天正日記」が手元にありました。この日の項。


ミ(巳)五日

天気吉。   

四時分御一家・御一族衆よせ御中御侠之時分、あいつはん中はち(鉢)衛門御出キ、いなハ代へまち二千五百人うつと(討取)らせられ侯。御前へ首さいけん(際限)なく参侯。いなハ(猪苗)代ふもと(麓)より黒河近辺迄三ちう(十)里、お(追)いかけことごとくうち被申侯。

 

これには2,500人討ち取ったとあります。政宗の前にそれら討ち取られた武将の首が次々運ばれた様がわかります。

 

平成23311日の震災後間もない613日のこと、青葉神社の片倉重信宮司(片倉小十郎の直系子孫)がこう語られました


3.11の地震で不思議なことがあった。本殿の扉は全部で3つある。正面の扉は外に錠がついているが、両脇の扉は内側から錠前を下ろすようになっている。外から両脇の扉を開けることはできない。その扉が、3.11の地震で錠前が下りたまま内側から開いてしまったのだ。この日はさらに、境内の灯篭一対が倒れ、8メートルの大鳥居が倒れた。灯篭が南側に倒れたのに、鳥居はどういうわけか北に、つまり神社の内側に倒れた。これらのことをどう解するか。実は政宗公から『結界を外したよ』との御神示があった。結界が解かれたことで、神様が本殿の外に出てこられたようだ。天照大神が岩戸からお出ましになられた時も、まず内側から開かれた。つまり「岩戸開き」が行われたのだ。一方、鳥居の倒壊は人間の側の結界が解かれたことを意味する。民の力が鳥居を倒すほどの勢いで神社へとなだれ込んだのかもしれない。神は人に近づき、人は神に近づいた。そして、神と人とが胸襟を開き合う。いよいよ岩戸が開かれたのです。」  

「政宗公はこの世に在ってどれだけの人命を損ねたか知れない。そのことによって、あの世に在って久しく謹慎に服さねばならなかった。しかし400年を経てようやくその禊ぎを終え活動が赦されるようになった。これからはいろんな形で政宗公の御意志の発動があるはずです。」

このたびの慰霊祭はこのこととの関連を思わされていました。

 

両勢合わせて二千を超える戦死者があったとして、その弔いはどうなされたか。等しく屍(かばね)となって風雨にさらされたまま今に至るのも多いと思う。このたびの慰霊祭の祝詞は、敵味方に関わりなく戦死者の全御霊に対して捧げられたものでした。台風11号の影響下、心配した雨はほとんどなかったものの、高原を吹き渡る風は相当なもので、その中で斎主遠藤氏の石笛(いわぶえ)は風の音と相俟っていかにも神妙に大地に染み渡っていったように聞こえました。そのとき遠藤夫人の耳にはたしかに亡き霊たちのざわめきが聞こえたとか。私の家内もそんな気がしたとうなづいていました。

 

参加者、遠藤夫妻のほか、私と家内と竹さんこと鹿又氏の5名。福島県田村市船引に鹿又の地名があり、そこが鹿又家本貫の地。今も鹿股神社があります。我が先祖高岡大隅が討死した直江軍と最上軍が戦った長谷堂合戦の際、伊達政宗軍は山形盆地を見晴るかす笹谷峠近辺から、関ケ原の情報をも気にしつつ、眼下の戦いの帰趨をうかがっていたのだが、その中の武将のひとりとして名が残る鹿又大膳がおり、竹さんはおそらくその末裔です。

 

さらに、そもそも片倉小十郎を見出し政宗に仕える様段取ったのは遠藤氏の先祖基信であったのだが、私の家内は旧姓片倉です。伊達家岩出山移封に際して重臣片倉小十郎は政宗に従ったが、その弟は置賜の地に残ったと伝わります。蒲生、上杉の支配を経た今も、置賜南部を中心に片倉の家が多く残ります。青葉神社片倉宮司に初めてお会いしたとき、顔の建てあいが家内とも似ているように思え、共通のDNAを感じたことでした。

 

上杉配下の末裔に連なる私はといえば、このたびの慰霊祭に関して、私が幼児期大きな教育的影響を受けた宮越能子(よしこ/旧姓芦名)先生を思います。能子先生の父はまぎれもなく蘆名氏の子孫であり、母方の曾祖父は政宗公を祀る青葉神社の初代宮司でした。私の中では、上杉氏、伊達氏、片倉氏、蘆名氏がごった煮状態なわけで、それもこのたび慰霊祭参列の縁かと思わされます。語れば400年の昔も指呼の間、直会の席で一同あらためて思ったことでした。


で、ここまで書いて「能子先生」のリンク先「神道への回帰?」を読み返してまた驚いた。能子先生の曾祖父一条十郎について、青葉神社初代神主で、仙台藩侍講一条坦の長男。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通らとの交流があり、とりわけ藤田東湖の精神の感化を受け、伊達藩中では数少ない開国尊王論者であったと言う。戊辰の役では仙台軍の参謀長格を担ったが、敗戦後仙台近郊で開墾事業に従事した後、青葉神社の神主になった。」とあり、幕末仙台では稀な勤皇派であったと書いてあったのです。実は昨日遠藤氏からいただいた『古神道』(松尾忠編集発行 昭和51年3月号 新潟・随神会)に、昭和49年のこと遠藤氏の弟武行氏を神主に松尾氏が呼び出した祖霊遠藤文七郎允信(さねのぶ)について記してあり、その人もまた仙台藩にあって稀な勤皇家であったとあったのをを先ほど読んだばかりだったのです。伊達氏世臣家譜に曰く「天正4年遠藤基信奉行となり、此より宿老に列す。その裔世々宿老として栗原郡に二千石を領す。幕末允信あり。勤皇の大義を称へ大いに成すあらんとせしに、反対派に阻まれて幽居を命ぜられ終に一藩汚名を受くるに至る。明治四十一年従四位を贈らる。」という。そして驚くべきことは、遠藤允信と一条十郎は共に天保7年(1936)、なんと同年の生れだったのだ。お互い連絡がなかったはずがない。共に藩では稀な勤皇派であってみれば、むしろ若い頃よりお互い影響を与えあったごく親しい同志であったのではないか。允信は塩竃神社の宮司を務めていることを知れば、二人の親密さはもはや疑いようもない。


たいした考えもなく「移ろうままに」と名付けたこのブログそのまま、まったく行き当たりばったりの自分であるが、その背後にこうした事実があったとは。そしてそのことが、ブログを書きつつ明らかになるとは。恐懼しつつアップさせていただく次第です。



                        



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めい

慰霊祭の帰途、喜多方ラーメンを食べようということで、喜多方ラーメンの元祖と言われる店に入った。入ってからお精進中であることに気づいてたが、せっかくなのでつけ麺を注文してネギとチャーシューは取り除けて食べた。家内の普通のラーメンスープも味わってみたが、明らかにわれわれが普段食べている山形のラーメンの方が数段上と感じた。喜多方の街全体、ブームが去った後の「荒み(すさみ)」を感じたのは気のせいか。会津とはいえフクイチお膝元の福島県。その影響も無縁ではないはずだ。

実は阿修羅板に以下の記事が出て、喜多方でのラーメン体験を思い出したところでした。山形県人には貴重な記事なのでメモしておきます。

   *   *   *   *   *

ラーメン消費量日本一を誇る山形県 なぜ、これほどまでにラーメンが愛されるのか?
http://www.asyura2.com/15/hasan99/msg/213.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 7 月 26 日 16:39:00: igsppGRN/E9PQ
     
ラーメン消費量日本一を誇る山形県 なぜ、これほどまでにラーメンが愛されるのか?
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150726-00000006-sasahi-life
7月26日(日)11時41分配信

南陽市内有名店の人気メニューとして知名度の高い「赤湯からみそラーメン」。赤湯特産の唐辛子みそがのったみそ汁風のラーメンで、「クセになる辛さ」だと称賛された《龍上海ラーメン写真コメント》

 もともと山形県はそばどころでもある。山形県にあるそば屋ではラーメンを出しているお店が多く、しかもそのレベルが高いと評判だ。しょうゆベースのスープに中華麺が入った、いわゆる“懐かしい”ラーメンは、ラーメンではなく「中華そば」と呼ばれ親しまれており、これぞ山形ラーメンという意見も多くある。なかにはそば屋にもかかわらず、ラーメンの方が人気となり「うちはそば屋だ!」と頭を抱える店主もいるとか。

 さらに、昭和27年に山形市の栄屋本店が編み出した「冷しラーメン」の存在も大きいとの指摘もある。スープも麺も冷たいこの一品のおかげで、盆地のために夏はかなり暑くなる山形県でも消費量が落ちないというのだ。

 ご当地ラーメンの多さも随一で、しょうゆベースの中華そば「山形ラーメン」に始まり、「酒田ラーメン」「新庄市のとりもつラーメン」「赤湯ラーメン」「米沢ラーメン」といった個性的な麺々ならぬ、面々がそろっている。

 山形県のラーメンの歴史は古く、1923年の関東大震災で被災した、横浜中華街の華僑の人たちが県内各地に移り住むようになり、屋台でラーメンを提供するようになったのが始まりだという。

 そんな山形県を実際に訪れた旅行客を対象に楽天トラベルが行った「山形県を旅した人が選ぶ!山形県・旅めしランキング」調査では、ご当地ラーメン3つが堂々のランクイン。麺どころだけあって、トップ10に5つの麺類が選ばれるという快挙だ。気になるランキングは以下のとおり。

■山形県・旅めしランキング

1位 芋煮 242票
2位 だだちゃ豆 147票
3位 米沢牛ステーキ丼 131票
4位 板そば 112票
5位 冷たい肉そば 110票
6位 玉こん 72票
7位 赤湯からみそラーメン 45票
8位 米沢牛丼 38票
9位 米沢ラーメン 31票
10位 酒田ラーメン 30票

 4位の「板そば」は、長方形の木箱に盛り付けられた山形独特のそばで、香りや味だけでなく、木箱にたっぷり入ったボリューム感も人気の理由のようだ。

 5位の「冷たい肉そば」は、10回以上山形県を旅しているリピーターだけに限定すると、2位に選ばれるほどの人気。しょうゆベースの濃厚な鶏ダシに、具には肉の硬い親鶏と刻みネギのみを使った、シンプルな汁そばだ。山形県河北町の名物で、B級グルメとしても全国に知れ渡っている。
 
by めい (2015-07-27 05:56) 

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