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鷹山公精神の世界発信(「Acorn」への寄稿)(3) 米沢興譲館高校校歌 [上杉鷹山]

布川潤子先生の講話の中で、私がレジュメに書いていた《「わたしであることの執着」からはとことん自由で「器としての自己」に徹し尽くしていたのが鷹山公であった。》に触れていただき、先生が18年間在籍された米沢興譲館高校の校歌の三番に言及された。


  人みなの 命を あがめ

  わが力 わが誠

  世のために 尽くさん これぞ

  ああ 興譲 興譲の われらが心


まさに鷹山公精神の継承ではないかと。懐かしく思い起こし、またうれしかった。


その翌日、東京の従妹の息子(大学生)が春休みを利用して山形へやってきた。上杉神社、松岬神社、御廟、宮坂考古館を案内したあと、高畠の浜田広介記念館に連れて行った。「泣いた赤おに」のスライドを見せたかったのだが、もう最終上映時間が過ぎていてかなわなかった。正月に娘夫婦を連れて行ったときもだめだった。残念な思いでいたのだが、思いがけないものに出会った。これまで何回か行ったことがあったのに、この日はじめて気づいた。浜田広介さん作詞の興譲館校歌が話題になったその翌日である。これもシンクロニシティ体験に思えた。作詞の原稿と興譲館同窓会報に寄せられた浜田さんの文章が展示してあったのだ。「撮影禁止」とも書いていないようだし・・とカメラに収めてきました。

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   *   *   *   *   *

3-DSCF2706.JPG

母校の校歌を引きだして


  大巓の 吾妻を 見れば


  青空に たたなわる

  雲白く 望み ぞそそる


  ああ 興譲 興譲の われらが胸に


 小学生の私は.吾妻の山を越えていく遠い白い雲を見ながら「われもかの山越えゆかん」と自作の詩片を書いたのである。中学に入学しても、あこがれは消えることなく続いていった。少年にして、望みを早く持つほうがよく、それに向かう気持ちがしぜんに勉強をともなうのである。老年になっても望みをつないでいこう。

 こう思うこと、それが私の信条の一つといいたい。

 次に、校歌の二節目を何と書いたか。


  わが校の 歴史は ふるく

  人あまた あと継ぎて


  業に就き 努めを なせり 


  ああ 興譲 興譲の われらも励め


 米沢興譲館高等学校は、元禄十年、一六九七年、上杉藩主綱憲公が藩の学館として起こされたといういわれを持つもの、その後、治憲、鷹山公が細井平洲を米沢に招聘されて、藩学をさかんになされ、やがて、それが興譲館とよばれることになるのである。

  そのことを、私は、ただ、歴史は古くと、うたうにとどめ、卒業生のおのおのが、それぞれの仕事に就いて自分の業を勤めたこと、かれの道は、かれに任せ、われの道は、われが行くと思い決めれば、ひとをうらやむこともなく、みずから悩むこともしないで自分の仕事をたのしんで——苦労があっても乗りこえて進めるだろうと思うところを歌いたかった。それが、今も私の信条の二つといいたいところである。

 しまいに、校歌の第三節を、私は次のように書き結んだ。


  人みなの 命を あがめ

  わが力 わが誠

  世のために 尽くさん これぞ

  ああ 興譲 興譲の われらが心

 

 もう説明の要はない。人、みなの生命を尊重して、人間のまことと思えるそのことを自分に向かって行なおう。こう考えて私は、その実行に努めること、それを信条の三つの一つに置きたいと願うのである。                               

昭和四十四年興譲館同窓会報所載

 

               


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めい

今朝(29,7,22)の山形新聞「気炎」欄、天見玲さんの文章です。樋口館長は私が訪れた時の館長さんでした。お話ししたらたしか高校で私の3年後輩(25年生)とお聞きしました。そんな話をした後で、この記事の展示にめぐりあったのでした。

   *   *   *   *   *

樋口さんの広介論

 「図書」今月号はスラブ文学者の沼野充義さんと作家の小野正嗣さんとの対談を載せている。この中で沼野さんが「魅力的な作家に出会うためには、自分自身にそれに見合った魅力がなければだめなんです」と語っている。
 浜田広介記念館長を今年3月で退職した樋□隆さん(高畠町)が先月、「『ドコマデモ』考—童話『泣いた赤おに』成立論ー」を出版された。読後、沼野さんの言葉が何度も頭をよぎった。広介文学の魅力を語るには樋口さんという広介に見合う魅力をもった人物が必要だったのだと。
 樋口さんは広介と同じく屋代村(現高畠町)に生まれ、広介と同じ小・中学校、高校で学んだ。館長就任前は高校の国語教員であった。広介を論ずるには最もふさわしい人物だったが、広介と本格的に出会うのは館長に就任してからだった。しかし、その出会いは読者にとって必然であったかのように思えてくる。読書中、広介が樋口さんを待っていたかのような感
じに襲われることがあった。
 広介童話の基底に流れる「疎外され忌避されても健気に生きるものたちの孤独や哀しみ」(同書)が、10代半ばで母や弟妹との離別を余儀なくされ、父の破産により故郷までも失った広介の孤独や哀しみに根差していることを、樋口さんは丁寧に明らかにする。
 広介は「こうした寂しさや哀しみへの共感こそが子どもの感性を培う要」と説き、善意によるくありたい世界〉を希求するのが童話であると信じ、一途にその信念を貫いた。広介童話の魅力を、樋口さんは、抑制的ながら多くの読書によって鍛えられたゆたかな表現力で過不足なく紹介している。
 樋口さんの広介理解には樋口さん自身の苦学の思い出なども投影されている。広介は今になって本当の理解者を得て、天国で喜んでいることだろう。 (天見玲)

by めい (2017-07-22 08:40) 

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