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伊東光晴「アベノミクス批判―四本の矢を折る」を読む [政治]

マキアヴェリはフィレンツェ政府の職にあって「すべて力のある者は勝ち、力のない者は敗れる」「政治は目的と手段の問題であり、手段は力である」として『君主論』を書いた。1498年、マキアヴェリがその職に就く直前のこと、”人間は自らの生れ持った理性に導かれる”と説いた修道士サヴォナローラが処刑された。伊東氏は「おわりに」でこのことに言及する。病に倒れ執筆もままならぬ87歳伊東光晴氏の覚悟のほどが読みとれる。最終章「安倍政権が狙うもの」では、憲法発布の15年後に南原繁元東大総長が語ったという「憲法に盛り込まれた平和主義は高い理想に裏づけられている。日本の国民はこの崇高な理想主義の重さを担うことができるのか。必ず裏切る。その時、初心忘れずだ」との言葉を忘れることができないとして次の文が続く。


《高い理想主義は座して得られるものではない。武力を放棄した日本は、絶えず外交努力によってそれをつくり出していかなければならない。領土問題が存在した時、互いに話し合い、大きな目的のためにこれを棚上げし、解決を時に委ねる田中角栄首相と周恩来総理がとった策が、その良き例である。》(142p

 

北方領土はともかく、尖閣やら竹島やらが云々されるたびに何か「腑に落ちかねる」思いがあった。


《国境というものが大きな意味を持ったのは国民国家が形成されて以後である。ヨーロッパを見れば、このことは明らかである。ドイツ国家が形成され、フランスもまた統一国家になり、それらが接して国境が大きな意味を持ったのである。中世ヨーロッパにもアジアにも、近代のような意味の国家はなかった。》(117-118p

 

このことはかつて西尾幹二先生が語られて納得したものだった。日本という「国(くに)」に比すべきは、ドイツとかフランスとかではなくてヨーロッパ全体だ、と。

 

中国や韓国は、第二次大戦後国民国家が形成された国だ。

 

《それがその国で持っている意味は、はるか以前に国民国家が形成され、いまその意味が薄れている西欧や、日本の市民レベルでは考えられない重さなのである。》(118p

 

国境に関しての日本と中韓の国民意識のギャップ、本来日本は大人の対応ができる国なのだ。田中総理と中国の大人周恩来は「棚上げ」という大人同士の解決を選択した。無用な争いを避ける道だった。それを「戦争したい派」が無惨にも踏みにじって今がある。日本人は無理に中韓の国民意識レベルに合わせる必要はない。たしか白井聡氏が言ったように「共有」という道だってある。くれぐれも「戦争したい派」の煽動に乗ってはならない。腑に落ちる自ずからなる日本人の道というものがある。

 

人間は自らの生れ持った理性に導かれる”、その時の「理性」とは、「腑に落ちる」という理解感覚のことだろう。この本が苦もなく、あるいはむしろ心おどらせつつ読み通せたのは、読者のその感覚に応えるように語られているからだ。たとえば第一章、岩田規久男日銀副総裁が説く「通貨供給量の増加→予想インフレ率上昇→予想実質金利の低下→設備投資増加」というトランスミッション・メカニズム(波及経路)を俎上に上げる。そもそも供給過剰社会で物価上昇はないし、インフレ予想と言っても人によってちがうわけで土台あやふやな理屈にすぎないことを指摘しつつ、「予想金利の低下が投資を増加させる」のかどうかについて問う。イギリスに於ける調査、経済企画庁調査局の調査結果を紹介、結論は、投資をするかどうかを決めるのはまずもって「予想以上の需要増加」が69.5%、ついで「他企業との動向から競争力を維持するため」が58.8%。そもそも「これくらい(12%)の実質金利の低下で、不確実姓を伴う投資を企業が増やすわけがない。」という結論。なんとなくそういうものかなと思わされていた岩田説的なこれまでの理解はたちまち消し飛んで、伊東氏の説に納得、腑に落ちた。このことに関連し第2章では「金融政策はインフレ対策には有効であるが不況対策には無効である。」(31p)とし、ガルブレイスの「紐のたとえ」が語られる。「紐を引っ張ると同様に中央銀行の緊縮政策によって銀行貸出量を減らし、それによって貨幣供給量の増加を押しとどめ、減らすことはできる。しかし、紐を押しても効果がないと同様に、銀行貸出及び貨幣供給量を増やすことはできない。安倍・黒田氏は紐を押しているにすぎない。戯画以外の何ものでもない。」(32p)と一刀両断。腑に落ちる。

 

腑に落ちたこととしてもうひとつあげておきたい。「本来のケインズ政策」が腑に落ちた。第5章「予算から考える」の中「3.日本の財政の現実」。

 

《租税政策上問題にしなければならないのは、わが国の税体系と税の水準は完全雇用余剰を実現していないことである。完全雇用余剰とは、景気が上昇し、完全雇用が実現した景気の頂点で、財政収入が支出を上回り、財政が黒字になることを意味している。その黒字を蓄え、不況期にそれを使って景気を引き上げるというのが、反循環政策といわれ、本来のケインズ政策なのである。もしこうした完全雇用余剰がなく、不況期に財政赤字で景気政策をうったならば、財政赤字による国際の累積が起ってしまう。日本の現状はどうか。》(83p

 

聞かれるまでもない。腑に落ちた。

 

「おわりに」で『甦れ独立宣言—アメリカ理想主義の検証』(ハワード・ジン著 人文書院 1993)が紹介される(この本は現在どこでも手に入らない。山形県内どこの図書館にもない)。その第2章が「マキャベリ的現実主義とアメリカ外交政策—手段と目的」。アメリカの外交政策は、軍隊とCIAの主導の下、マキャベリズムに拠ってきた。ケネディ大統領もリベラル派のアドバイザー達も抗することはできなかった。岸信介に始まり安倍晋三に至る政治もその流れにある。しかし西欧の学問には別の流れがあると言う。アリストテレスは、人間にとって「善とは何か」を問い、それを実現する手段として政治学を考えた。ケインズもその流れの中にあって経済学を位置づけた。アメリカの独立宣言にはアリストテレスからケインズの流れに通底する理想主義の精神が込められている。日本においてそれに比すべきが第九条なのだ。次の文章で締めくくられる。

 

《歴史の流れは、やがて国家間の紛争解決の手段としての武力が無力であることを知らしめるに違いない。その時、日本国憲法の先見性は明らかになる。それは普遍の価値を持っているのである。・・・ハワード・ジンは『甦れ独立宣言』を書いた。私は「甦れ、21世紀の理想—憲法9条」である。》(156p

 

いちいち腑に落としつつ読んではきたのだが、なんとしても腑に落ちかねることもある。takahatoさんという方のAmazonレビュー、「ケインズの正統的解釈によるモラルサイエンスとしての経済学理論に立脚するとともに鋭い時事評論を可能にする教養が批判の論調のなかに横溢しているのが単なるアベノミクス批判の書とちがい後味がよい。」と☆☆☆☆☆をつけつつ、「ただ、批判される側がほとんどこの議論を無視するであろう。」とある。そのことに関わる。そしてここから「日本の不幸」の有り様(よう)が見えてきそうな気がする。あらためて書くことにする。

(つづく)

 

 


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めい

《このような日本の悲惨な現実を日本の識者もマスコミもまったく、国民に知らせません。国民はネットにアクセスして自分で知るように努力すべきです。》

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新ベンチャー革命2015年1月15日 No.1043
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34556463.html

タイトル:パリ・テロ事件の後、安倍首相が唐突に中東訪問:米国某勢力の企むシリア侵攻に安倍首相・日本政府はわれらの血税と自衛隊員を湯水のように提供する気か

1.パリ・テロ事件直後、安倍首相は急に中東訪問とはいったいどうなっているのか

 パリ・テロ事件やマレーシア機墜落事件が続く中、安倍首相は唐突に中東訪問を決めています(注1)。このニュースに関して、日本のマスコミは淡々と事実を報じるだけで、国民の疑問にはまったく応えません。

 国民はみんな、安倍首相がなぜ、この時期に中東訪問するのか疑問に持たないのでしょうか。この話は急に出てきて、急に決まっているという印象を受けます、発表されたのが昨年12月22日であり、訪問日程は1月16日から21日とのこと。こんなことは過去、あまり聞いたことがありません。

 普通の人でも、12月22日の段階では、1月16日から21日の予定が入っているでしょう、ましてや、日本一多忙な首相であれば、今週どころか、数ヶ月先くらいまで、びっしり予定が入っているはずです。そう考えると、この中東訪問は安倍首相がすべての予定をキャンセルして、最優先の事項であることが明らかです。穿った見方をすれば、今回のパリ・テロ事件と安倍氏の中東訪問はリンクしているような気がします。

 さて、本ブログでは、現在の日本は米国戦争屋にステルス支配される、事実上の米戦争屋の属国とみなしています。そう考えると、今回の急な中東訪問は、安倍氏の都合ではまったくなく、誰かの強い圧力による強制的な中東訪問と疑われます。本ブログでは、安倍氏に強制する勢力こそ、米戦争屋CIAネオコンではないかと疑っています。

なお、上記、米国戦争屋(世界的寡頭勢力の主要構成メンバー)およびそのロボット・悪徳ペンタゴンまたは悪徳ヘキサゴンを構成する日本人勢力のは本ブログNo.816の注記をご覧ください。

2.なぜ、安倍氏は急に中東に行かされるのか

 現在、世界中でイスラム過激派の犯行とされるテロ事件が頻発しており、中東情勢は決して安定してはいません、それどころか、アルカイダやイスラム国が活発に動いています。

 そのような物騒な中東情勢を鑑みると、安倍氏ならずとも、今、中東訪問するのは気が引けます。だから、今回の安倍氏の中東訪問は、何者かによる強制に近いでしょう、安倍氏は、その要求を断れないのです。安倍氏が断れない相手、それこそ、米戦争屋CIAネオコン以外にはありません、アメリカ様命の安倍氏はアンチ米戦争屋の米オバマ政権のいうことは聞きません、それは、2013年暮れ、オバマ政権の要求を蹴って、強引に靖国参拝した事実が雄弁に物語っています(注2)。安倍氏は米戦争屋の傀儡に過ぎません、われら国民はこのことに気付くべきです。

3.シリア侵攻を企む米国某勢力は属国・日本からカネのみならずヒトも出させようとしているのではないか

 本ブログでは、今回のパリ・テロ事件は、米戦争屋CIAネオコンおよびイスラエル・ネオコンによるシリア侵攻を正当化するための下準備のひとつと位置づけています。

 パリ・テロ事件をそう分析すると、今年3月頃、米戦争屋はオバマを脅して、米地上軍の中東派遣を再開させると読めます。2003年、ブッシュ米戦争屋政権が強引にイラク侵攻したのも3月でしたから・・・。

 このイラク戦争のとき、日本政府は、米国債の買い増しにて実質的に3070億ドル(30~40兆円規模)をイラク戦争の戦費として拠出させられていますが、これは、ノーベル賞受賞のスティグリッツ・コロンビア大学教授が本に書いていますから間違いありません(注3)。

 米戦争屋は今回のシリア侵攻でも日本から数十兆円規模もしくは100兆円規模の米国債購入を強制して、戦費拠出を要求してくるはずです。もし、拒否したら、安倍氏はすぐに首相の座を降ろされます。

 ちなみに、2007年の第一次安倍政権の後任・福田首相は米戦争屋より100兆円規模の米国債購入を強制されたため、唐突に辞任しています(注4)、拒否し続けたら、故・中川昭一氏のように悲惨な目に遭わされていたでしょう。

 さて、2003年のイラク戦争開始時、隷米首相の小泉氏は、カネは出したのですが、当時は野中、古賀、亀井氏など戦中派の反戦議員が大勢、自民党に居て、自衛隊のイラク戦争参戦だけは断固拒否しました。当時の日本サイドは、自衛隊員の犠牲を回避するため、われらの血税から30~40兆円もブッシュ米戦争屋政権の仕切る米政府に差し出したのです。

4.安倍氏は国民に内緒で、シリア侵攻を企む米国某勢力にカネもヒトも湯水のように差し出すつもりか

 イラク戦争時、日本を属国支配する米戦争屋は日本からカネを出させることには成功したものの、自衛隊員の提供は拒否されたのでまったく満足しませんでした。そこで、彼らは小泉氏に命じて自民党内の反戦議員を徹底的に排除させて今日に至っています。当時、米戦争屋ジャパンハンドラーのアーミテージが「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(派兵しろ)とわめいていました。

 米戦争屋は日本人の想像以上に執念深く、今回はカネのみならずヒトも差し出すよう、安倍政権と日本政府に要求してくるのは目に見えています。

 そして、米戦争屋の言いなりの安倍氏は、米戦争屋のシリア侵攻を助けるため、カネのみならず、自衛隊も提供するつもりでしょう。もし拒否したら、彼らは日本でも偽旗テロを仕掛けてくるはずです。

ここで穿った見方をすれば、安倍氏と日本政府は米国のシリア侵攻のための戦費の原資・米国債購入の他、米軍のシリア侵攻の際、米戦争屋に協力させられる国々・エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナへも別途、経済支援させられるのではないでしょうか。もしそうなら、情けなくてもう涙もでません。ちなみに、これらの国の首脳はパリのデモ行進に参加していましたが、偶然でしょうか。

 このような日本の悲惨な現実を日本の識者もマスコミもまったく、国民に知らせません。国民はネットにアクセスして自分で知るように努力すべきです。

注1:毎日新聞“安倍首相:中東訪問の日程公表 16日から”2015年1月15日
http://mainichi.jp/select/news/20150115k0000m010103000c.html

注2:本ブログNo.835『安倍総理の靖国参拝:沖縄米軍海兵隊のグアム移転を断固阻止したい日米安保マフィア日本人官僚の姑息なシナリオか』 2013年12月27日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/33056440.html

注3:スティグリッツ[2008]『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』徳間書店、201頁

注4:本ブログNo.475『TPP厄病神に取り憑かれた野田総理よ、APEC出発前に浜田政務官に福田総理辞任の真相を聞いて下さい』 2011年10月31日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/27191288.html

by めい (2015-01-16 05:49) 

めい

《自分の弱さを否定するために、戦争への道をひた走る首相。──『宰相A』で描かれた恐怖は、いま、まさに日本で進行している現実である。》

   *   *   *   *   *

安倍首相のモデル小説を出版! あの芥川賞作家が本人に会った時に感じた弱さと危うさ
http://lite-ra.com/2015/03/post-965.html
2015.03.22. リテラ


「(賞を)もらっといてやる」──『共喰い』(集英社)で第146回芥川賞を受賞した際にこんな発言をして注目された作家の田中慎弥。そんな田中の新作が、いま、話題を呼んでいる。

 というのも、話題の小説の題名は『宰相A』(新潮社)。タイトルから想像がつくかと思うが、このなかで描かれる“宰相A”のモデルが安倍首相ではないか、と見られているからだ。

『宰相A』は、ジョージ・オーウェルの『1984年』のような全体主義国家を描いた、いわゆるディストピア小説。物語は、小説が書けないでいる主人公の作家が電車に乗り、母の墓参りに向かうところから始まるのだが、作家が辿り着いたのはアングロサクソン系の人間たちが「日本人」だと主張する世界。──第二次世界大戦後、敗戦国となった日本をアメリカが占領・統治を行い、アメリカ人たちが入植し、日本人は「旧日本人」と呼ばれ、監視された居住区で押さえ込まれるように生活をしている……そんなパラレルワールドのような“もうひとつの”日本を描いている。

 その世界で、旧日本人の反発を封じるために選ばれた首相こそが、旧日本人の「A」である。

〈緑の服を着た六十くらいの男が現れる。いわゆる旧日本人、つまり日本人だ。中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象がある〉

 顔立ちといい、態度といい、どう考えても安倍首相を描写したとしか思えないAという人物。しかし、げに恐ろしいのは、Aが口にする演説内容だ。

「我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。」
「我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。(中略)平和を搔き乱そうとする諸要素を戦争によって殲滅する、これしかないのです。(中略)最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります。」

 現実の安倍首相は、ことあるごとに「積極的平和主義」という言葉を持ち出しては日本を交戦国にしようと働きかけるが、宰相Aはその未来の姿にも見えてくる。本来、平和学では、戦争がなく、差別や貧困による暴力のない状態を指し示す「積極的平和主義」という言葉を、いま、安倍首相はアメリカと協調し、軍事的に他国に介入する意味として使用している。現実の安倍首相が言う「積極的平和主義」とは、小説内のAが口にする「戦争主義的世界的平和主義」そのものではないか。

 このように、決して笑えない世界の姿を叩きつける『宰相A』。作品は文芸評論家からも高い評価を受けているが、一方で読者からは「話題づくりで安倍首相をモデルにしたのでは」という声も上がっている。

 だが、田中が安倍首相を小説のモデルにした理由は、話題づくりではないはずだ。それは、田中は以前より安倍首相に対して関心を寄せ、その強気の姿勢に危惧を表明しているからだ。

 田中が「週刊新潮」(13年1月17日号/新潮社)に寄稿した、『再起した同郷の宰相へ 弱き者 汝の名は「安倍晋三」』という原稿がある。題名にある通り、田中は安倍首相の選挙区である山口県下関市に生まれ育ち、現在も在住している。この寄稿文によれば、田中は地元のイベントで、一度、安倍と顔を合わせたことがあるらしく、そのとき安倍は田中に向かって本の感想を述べたのだという。

〈(安倍は)田中さんの本は読んだんですが、難しくてよく分かりませんでした、と言う。私は思わず、読みづらい本ですので、とかなんとか適当に返したように記憶している。(中略)面と向かって、よく分かりませんでした、と言うとは、ずいぶん正直な人だなと思った。怒ったのではない。(中略)作家としてはむしろありがたいくらいだった〉

 だが、田中が気になったのは、安倍の〈うつろ〉さだった。

〈私が顔を見ても安倍氏の方は視線を落として、目を合わせようとしなかった〉〈政治家っぽくない人、向いてない仕事を背負わされている人という印象だった〉

 このときの印象が『宰相A』での描写に通じていることを思わせるが、田中はさらにテレビ越しに見えてくる安倍の性質について洞察。〈いいですか、いま私が喋ってるんですから、などとどうしようもなく子どもっぽい反応を示す〉ことや、〈自分と意見が違うその人物をせせら笑うという不用意な顔〉を見せてしまうことを挙げて、〈これは、ルーツである山口県の政治風土の表れではないかと私は思う〉と述べている。

 しかし、こうした県民性以上に田中が強く指摘するのは、安倍の〈弱さ〉である。

〈相手をせせら笑う不遜と、私と会って目も合わせなかったうつろでオーラのない表情の落差。つまり安倍氏は明らかに、政治家としての自分を強く見せようとしている。強くあろうとしている。なぜか。安倍氏は弱い人間だからだ。強くあろうとするのは弱い証拠だ。だったら、あるがまま生きればいい。弱いことは、人間として決して悪いことではない。だがここで、血筋の問題が出てくる。(中略)祖父と大叔父と実父が偉大な政治家であり、自分自身も同じ道に入った以上、自分は弱い人間なので先祖ほどの大きいことは出来ません、とは口が裂けても言えない。誰に対して言えないのか。先祖に対してか。国民に対して、あるいは中国や韓国に対してか。違う。自分自身に対してだ〉

「戦後レジームからの脱却」と称し、安倍首相が憲法改正や自衛隊の国防軍への移行を主張するのは、自民党の意志でもある。だが、ここまで強気に進める理由を田中は〈そういう党の中にいる安倍氏が、偉大で強い家系に生まれた弱い人間だからだ〉と見る。そして、タカ派に分類される安倍を〈弱いのに強くなる必要に迫られているタカ、ひなどりの姿のまま大きくなったタカ〉と表現するのだ。

〈安倍氏が舵取りの果てに姿を現すだろうタカが、私は怖い〉──ここまで田中が憂虞するのは、政治的・軍事的な理由からではない。幼くして父を亡くしたことのせいか、田中は〈男性的でマッチョなものが、根本的に怖い〉のだという。男であることが不潔に感じ、〈何度も死のうとした〉ことさえある。そのときのことを〈死んでみせることで、周囲に強い人間だったと思わせることが出来るのだと、勘違いしたからだろう〉と田中は振り返るが、だからこそ、弱い自分でいることを許されない安倍は危険な状態なのではないか、と田中は案じるのである。

 この田中による指摘は極めて重要だ。安倍首相の強硬姿勢が彼の政治的信条に基づいた行動なのであれば、まだ議論の余地もある。だがそうではなく、安倍自身の血筋というプレッシャーや、本来のパーソナリティである弱さを隠すために過剰に強くあろうとして偉大な祖父が成し得なかった偉業に挑んでいるのであれば、それは暴走だ。しかも、こうした暴走への危惧は、きっと安倍首相には通じないだろう。なぜならそれを受け止めることは、自分の弱さを認めることになるからだ。

 自分の弱さを否定するために、戦争への道をひた走る首相。──『宰相A』で描かれた恐怖は、いま、まさに日本で進行している現実である。

(水井多賀子)

by めい (2015-03-23 06:50) 

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