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若松英輔「生きる哲学」を読む [思想]

2ヶ月ぐらい前、もったいない本舗から段ボール箱5枚が届いていた。思い切って本を整理しようと思ったのだった。いくつか詰め込んで、そのうち催促が来たのだがそのままになっていた。そうしているうちに「自称2062年の未来からやってきたという未来人2062氏(本名不明)の予言」というのに出会った。その中にこんなQ&Aがあった。

 

Q.なにか持っといた方がいいものとかあるの?


A.書籍は大事に保管だ。


もったいない本舗さんには申し訳ないが、そんなわけでずるずるになってしまっている。そうこうしているうちに「読む」ことの意味をあらためて認識させられる本に出会った。若松英輔さんの『生きる哲学』。いろいろ忙しいのに、一気に読ませられた。人は悲しみによって形而上学の世界(根源的実在の世界)に導かれる、自分にとってそんな悲しみとは何なのか。


クライマックスとも言うべき章が、「第13章 読む 皇后と愛しみが架ける橋」だった。


柳宗悦が援用される。

《悲しみは、痛みの経験であると共に、慈しみの芽生えでもある。どうして悲しみが、悲惨なだけの経験であり得よう。「美し(かなし)」と書くように「かなしみ」の底にはいつも、無上の美が流れている。そのことを忘れた近代を、柳は憂う。悲しみは、その深みにおいて、対立の関係にあるものの姿を変え得る力をもつ。宗教における超越者は、宗派の差異を超え、悲しみの衣をまとうように存在していることに注意を促す。ここで柳が言う「美」とは、美醜の対比のなかにあるものではない。美醜が分かれる前の美である。・・・柳にとって悲しみはいわば、超越へとまっすぐ続く道だった。》243-244p

そして、

《悲しみは、文化、時代を超え、未知なる他者が集うことができる叡知の緑野である》245p

 

1998年ニューデリーで開かれた国際児童図書評議会の世界大会にむけて皇后が出された『橋をかける』というメッセージが紹介される。この大会のテーマは「平和」だった。皇后は、新美南吉の『でんでん虫のかなしみ』のお話の記憶を語られる。「かなしみ」の殻を背負って生きることへの不安にかられるでんでん虫が、悲しみを持たない人は誰もいないことを知る。そして、自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。」と言って、もう嘆くのをやめるというお話。

 

皇后の言葉、

《その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。・・・この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。》『橋をかける』

 

この言葉を若松氏は自分に引きつけて言う。

《読書が、「悲しみ」との遭遇にはじまったことは決定的な出来事だった・・・ここに幼い少女における「読む」こととの出会いの萌芽がある。》246p


そして「力強い威圧ではない、涙もろい人情のみが此の世に平和を齎すのである」(『朝鮮の友に贈る書』)「悲しむとは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか」(『南無阿弥陀仏』)との柳宗悦の言葉を援用しつつ、《悲しみの実相を語る真摯な言葉に出会ったとき、私たちの心はおのずと動き始める。真に「読む」ことが実現するとき、人はそこに描かれた悲しみによって、自らの悲しみを癒すことがある。》250p

私にはそこのところを読み通すのがつらかったのだが、原爆の原民喜、水俣の石牟礼道子についても書かれたこの本『生きる哲学』は、まさにその役割を果たしているのだろう。それをして「『読む』ことの秘儀」と言う。


《「読む」ということが真に営まれるとき人は、言葉を窓に彼方の世界を生きることになる。・・・「読む」とは不可視なコトバを感じることでもある。・・・それは字義通りの意味で生きることにほかならない。幼い魂にとってはいっそう「読む」ことの意味は大きい。彼らは、そこで自分以外の生があることを身をもって知ることになる。》250-251p

 

皇后の言葉、

《読書は私に,悲しみや喜びにつき,思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には,さまざまな悲しみが描かれており,私が,自分以外の人がどれほどに深くものを感じ,どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは,本を読むことによってでした。

自分とは比較にならぬ多くの苦しみ,悲しみを経ている子供達の存在を思いますと,私は,自分の恵まれ,保護されていた子供時代に,なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり,一人一人の子供の涙には,それなりの重さがあります。私が,自分の小さな悲しみの中で,本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。》「橋をかける」

 

《悲しみは、誰かに受けとめられたとき、「愛(かな)しみ」へと姿を変える。・・・世には自分の知らないところで、あたかも自分の身代わりになって悲しみを生きている者がいることを教える。・・・悲しみの多いこの世を生きる幼子にとって、愛しみは、闇に隠れている喜びの場所を照らす光となる。愛しみには、魂を自ずと喜びへと導く働きがある。ここで皇后が語る喜びは、光と光に照らされるものが不可分であるように、けっして「愛しみ」と離れることがない。》252p)との言葉で、皇后と若松との魂の響きあいのこの章は閉じられる。「読む」ことのありがたさを余韻が語ってくれている。そういえば先日こども園忘年会で、勤めて間もない若い職員に、「本を読め」と懸命に説く酔っ払った自分がいた。この本を読みおえたばかりだったのでした。


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めい

「悲劇の共有」による共通意識。(世相を斬る あいば達也)
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/458bc9575fb358feb2b090e9181b6482

皇后と若松氏の「魂のひびきあい」は、「日本人としての共通意思は可能か」の問題につながることに気づかされました。

   *   *   *   *   *

●戦後日本には 悲劇共有のプラットフォームがあった
2015年01月02日

 日経ビジネスが、小生と意図とは異なる意味で、三人の戦後リーダーをチョイスして、「遺言」的アドバイスをインタビュー記事で掲載している。個々人には、夫々の苦しみを乗り越えた貴重な体験が数限りなくあるだろうから、話の内容を読み聞く価値は十二分にある。ただ、小生が、簡単に此処に登場する、歴史にも名を残すであろう人々の経営スパイスや、人生観のようなものには、その時代背景が大きく影響すると同時に、戦後の50年近くの間には、日本人の社会全体に「共通のプラットフォーム」があり得た時代だったという、意識の共通認識と云う援護があったことも忘れずに読んでみたいと思う。

 日本人が共通の概念でプラットフォームを形成できる時には、なぜか、そのプラットフォーム形成に、最も影響を及ぼしているのが「悲劇の共有」という悲しいような原因によって「空気」が醸成されるしかないという事実でもある。明治維新時代の共通の意識の共有は、文明社会ではなかったことを知った衝撃。第一次大戦終了後は、列強の列に入れたという高揚感と、意識の共有。そして、勝って兜の緒を絞めようという共通認識。第二次大戦終了後は「敗戦と悲劇」という意識の共有。今日紹介されている人々は、この最後の意識の共有が、社会的プラットホームを「空気」として共感的に仲間意志にの中にあった時代背景を重ね合わせて読んでおきたいとも思う「遺言」である。

 残念というか、情けないことだが、時代の流れを論理的に読み解き、将来のリスク予想で、意識の共有化が出来るのが理想だが、大きな組織や共同体を纏める場合、協力し合える場合には、多くの場合は「悲劇の共有」が社会的プラットフォームになりやすい。311程度の悲劇の共有では、社会全体の共同体形成のプラットフォームにはなり得ないということなのだ。誰だ!人間は考える葦であると言ったのは(笑)。

by めい (2015-01-03 05:36) 

めい

Q.なにか持っといた方がいいものとかあるの?
A.
書籍は大事に保管だ。

この理由の一端がわかる記事に出会いましたのでメモしておきます。昔から、主義でもなんでもなく、こんなんでいいのかなと思いながら「並列読書」になっている私には、ほんとうに納得です。

   *   *   *   *   *

「読気開眼」:この寒い冬は保江先生の本を並列読書で乗り切る!?
http://quasimoto.exblog.jp/22756936/

《ところで、こういう並列型読書ができるのは、本が物理的に紙でできているからである。もしこれが、キンドルのような電子文書でパソコンやスマホで読むと言うような場合はまず不可能なのである。同じ画面であっちこっちのスレッドを駆使してもできないことはないが、同時にたくさんのページを並べることが出来ない。しかし、書籍なら、たくさんの本をこたつの上に並べて同時にあっちこっちのページを読み比べることができる。そういう方法で、私の脳内に大きな鳥瞰図を描くことができる。これが、紙と電子の書籍の決定的違いなのである。

学者には電子書籍は似合わない。》

by めい (2015-01-27 06:58) 

めい

「愛の日記」の「人類幽霊化計画」、ちょうど今思っていること!と共感してどこかにメモしておきたくてここにしました。
ただし、「本からの知」がすべて「幽霊化計画」につながるのではありません。
《本当の知は、「あっ、、、! そうだ!! 」という体験を通してしか訪れないものなのです。》
「井筒俊彦→若松英輔」は「本当の知」の系譜です。

   *   *   *   *   *

■ 人類幽霊化計画 New! 2015年10月05日(MON)
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20151005

タイトルのような計画が本当にあるとは思えませんが、結果的に同じような事態が進行している気がします。

幽霊化とは、自分の頭で考えられない、、、自分の頭で考えてるつもりで、すべてが教えられたことの寄せ集め的現象のこと。

知識に力があると思っているので、そうした間違いが出てきます。知識はもちろん必要ですが、それは、条件付けに過ぎません。

知識自体には、何の力もない。本をいくら読んでも、それは何かを得る条件付けにはなっても、その知識自体がもたらすものは実は何もないのです。

荘子はそのことをわかっていて、本を読んでいる人に対して、それは先人のくそのようなものだ、、、といい、先人も本当に言いたかったことは、そこには表現できてないはず、、、と。

本当の知は、「あっ、、、! そうだ!! 」という体験を通してしか訪れないものなのです。

正しい知は今しか訪れない、、、物理的で再現可能な事実を知と思うからおかしなことになってしまう。

再現できる知は、極めて狭い、地上のある一定条件の中での現象に過ぎません。物理現象がすべて再現可能な中にあると思っているので、なかなか人間の科学は進みません。もっと大きなルールがあるはずです。

見えるものではなく、見えないもの、、、意識にしか力はないのです。

知という固定されたものの集積から何かを生みだそうとする姿勢自体が間違っているのです。

では、本当の知、、すなはち意識からくる発想はどうやってくるのか、、、それが「あっ、、、! そうだ!! 」という体験にあるわけです。

人類幽霊化計画とは、「あっ!  そうだ!!」という体験ができないタイプの人間を大量に生産する計画のこと。

上が言うまま、、、組織や機構が言うまま、、、権威者が言うままを、信じる知などに、本当は何の力もない。

そうしたガラクタ知の追求を学校も会社も行うため、段々まずいことになっていく。日本の大学はとくにこの傾向が強く、ついに世界の優秀な大学の番付から取り残されてしまいました。

東大の凋落はとくに大きいのですが、他も似たようなものです。ベスト10どころか、30位にも入ってないのでは。

人類幽霊化計画が日本ほどうまく言っている国はないかもしれません。

どの企業にも、実は、幽霊化とは異なる、それこそ、良い大学は出てなくても、自然な当たり前の感覚を持ち、それをベースに物事を考えつく女子社員は多いのです。

彼女らは、「あっ、、、!  そうだ!!」という体験の中から、仕事への合理性や発案を行いますが、上にいる幽霊先輩、、幽霊課長、 幽霊部長、、幽霊取締役、、同じく社長、、、場合によっては、幽霊国家機関により、顧みられることはなく没にされていきます。

こうした無駄が日本中で起こっています。下はまだ幽霊化の初段階なので、時には「あっ、、、! そうだ!!」
との体験的思いを抱けますが、幽霊化が進んでいる上にはそのことがわかりません。

こうして人類幽霊化計画は見事に進んだと思われます。

本当の知とは、体験なのです。意識なのです。感動がともわない知には、力はまったくありません。新しいものを決して作れない。

新しいものが作れなければ、組織や販売網や宣伝に頼る以外になくなる。そして、社会自体の力が段々と衰えていくのです。

社会自体の力が衰えると、人々の幽霊化は進みます。

生きるしかばねとなった無感動な人の群れは、月曜の朝などには容易に見ることができる光景、、と言っては失礼かもしれませんが、そうした雰囲気はします。

人類幽霊化が進めば、上は大衆を見事に騙すことが可能になります。そうしないと、戦争は起こせない、、、金儲けも大きくはできない、、、どうしても幽霊化が必要なのです。

癌が怖いのではなくて、癌治療が怖い、、、とよく言われますが、私はかなり事実だと思います。

しかし、有名人が癌で亡くなれば、自然療法してたから、、、ということにし、きちんと現代医学にかかった方がよい、、、という印象操作を行う。

その大衆操作は、すみやかですし、よく考えられている印象を受けます。癌治療正当化の宣伝部隊がまるでいるかのようにさえ見える素早さです。

先日も6人のゲストの人の中に、どこかに異常がないかを調べる番組があって、見たくもないが見ることになりました。

6人は色々な食生活、生活スタイルをしています、、、それを紹介している時点で、私は誰に問題があるか、、、誰には、絶対に問題がないか、、、が分かりました。

テレビを見ていた人は、週5日の朝昼晩をコンビニの食事で済ませている人が病気になっているように思ったと思います。

スタジオでもそういう意見が多かったです。しかし、私は絶対にこの人は違う、、、病気がないという結果になると確信しました。

そして答えが出ると、やはりその人には、何の問題もなかった。

嘘ややらせではないと私も思いますが、番組の構成上、、、人類幽霊化の必要上、、、毎日コンビニで過ごしている人が病気になってはまずい、、、という答えを私は確信していたので、その人は病気でない、、、と思ったわけです。

もしその人が病気だったら、コンビニでの食事、、、が悪者になってしまう。

コンビニ業界は怒るでしょうし、広告取得にも悪影響が出る。

逆にその人が健康であるとなれば、コンビニの食事を安心して食べようとする、ものすごい宣伝になるはずです。

実際にその人は病気でなかったのですから、コンビニの食事が悪いかどうかは、私にはわかりません。

番組に登場していた医療コメンテーターのM氏は、すかさず、コンビニでも色々と栄養などを考えてチョイスすればまったく問題ない、、、ということをおっしゃる。

色々とチョイスすれば、コンビニの売り上げにも良い影響が出るわけです。

M氏のお父様には、色々と私はお世話になったことがあるので、責めるようなことは言いたくありませんが、何だかなあ、、、という気持ちになりました。

私自身、コンビニの食事が良いものか悪いものか、言える立場にないので、結論じみたことはもちろん言えませんが、毎日コンビニの人が健康だった、、、という番組の設定は、大きな誤解を生みやすいことは確かです。

このような大きな宣伝行為が日々なされており、私たちは知らぬ間にある一定の方向へ、自分の考えや感じ方をもっていかされています。追われていきます。

それが人類幽霊化計画であると、私は勝手に命名しているわけです。自分の意識が作られ予定された意識に置き換われば、それは幽霊と同じになるからです。


自分らしさがないと、自分特有の意識でいないと、人は幽霊と同じなのです。

人類が幽霊化すれば、幽界からの意図に反応するゾンビ化した人間になっていきます。

そして本当のエネルギーは幽界からも現界からも訪れず、意識からしかやってきませんので、幽霊化は、同じタイプの人間製造のカギであり、人類から個々の個性を奪うことで成り立つ、この世の幽界化を意味します。

形の上では幸福と思っていても、心躍らない日々、、、自分はこんなに恵まれているのだから、幸福であると、常に確認せずにはいられない生き方、、、本当はそれを不幸というのです。

「あっ、、、そうだ!!  あっ、、!!  私、、!
本当は、、、」という流れを早く取り戻しましょう。

その意識からしか、エネルギーは訪れず、幸福も喜びも満足も、その意識からしか生じません。

不安という餌が社会に国に家庭に、学校に、会社に、、あらゆるところにまかれており、不安を怖がる心理をつかれて、人類幽霊化計画が進行中です。

不安との対峙が個々人で必要であり、人は本来は安心など求めるものではなかったのです。安心は行動と正しい意識の持ち方が結果としてもたらすものでしかありません。勝手に訪れてくれるものです。

不安を解消しようとしていろいろなことをやっても、それは形を変えてなくならないことが、その証拠なのです。

不安にだまされないこと。不安から検診に励み、早期発見に努め、ああ早くてよかったと癌治療に励み、そして苦しんで死んでいく。


いつ破産するかわからない金融制度の中で貯金を積み上げ、良い学校を目指し、一流企業に入ろうと頑張る、、、

それはそれで素晴らしい面もありますが、そうした行動の元に不安がベースにあれば、幽霊化の中に私たちは足を踏み入れることなのです。

あっ!!  そうだ!!  との自身の意識に沿っていきることが、幽霊化からの脱出のカギになります。

by めい (2015-10-06 04:37) 

めい

美智子皇后の「かなしみ」の原点を思いました。この「かなしみ」を負いつづけながらのこれまでのお務めだったわけです。ほんとうにおつかれさまでした。そしてほんとうにありがとうございました。皇后のこの「かなしみ」があればこそ、日本の国柄の尊さを国民等しく、深く理解するようになれたように思います。語られた高谷さんが内掌典であられたこと思うにつけ、神々のお計らいを思いました。

   *   *   *   *   *

美智子さまのご結婚式当日のご様子 その時何があったのか

4/23(火) 16:00配信

NEWS ポストセブン
美智子さまのご結婚式当日のご様子 その時何があったのか

結婚60年の祝賀行事を終えた天皇、皇后両陛下(時事通信フォト)

 天皇皇后はご成婚60年を迎えた。その長い年月の出発からの道程を、宮中で間近に見ていた人物がいた。昨年5月に94歳で亡くなった元内掌典(ないしょうてん)の高谷朝子氏である。高谷氏の在職は昭和18年から57年間。内掌典は、「宮中三殿」と呼ばれる賢所(かしこどころ)、皇霊殿、神殿の3つの社にお祀りしている神々に仕える女性の内廷職員だ。生前の彼女を数度にわたり取材したジャーナリスト、児玉博氏が、「美智子妃が在位の間は書かないでほしい」との約束のもとに秘めてきたエピソードを、知られざる宮中の様子とともに明かす(文中一部敬称略)。

【写真】元・内掌典の高谷朝子さん

 * * *
 昭和34年4月10日は、高谷にとっては終生忘れえぬ一日となった。日本中が沸いた皇太子と美智子妃の世紀の結婚式の当日だった。

「私が生きている間はこのことはお話しになられると困りますので……、美智子様もご在位の時は……」

 普段、快活に話していた高谷が目を伏せるようにしてこんな話をしてくれた。

 それは婚礼当日のことだった。宮中は華やいだ雰囲気に包まれていた。そんな中、高谷ら内掌典が見たのは、身に付けたことのない婚礼衣装を前に涙さえ浮かべて悄然と立ち尽くしていた美智子妃の姿だった。

 本来であれば、皇太子妃には側近くで仕える女官が身の回りの世話をする。その女官が見当たらない。どうやら、誰の指示か分からぬものの、女官らが婚礼の手伝いを放棄してしまっているようだった。

 そこで、本来であれば女官がやるべきことをすべて本来は携わることのない内掌典が行ない、美智子妃を婚礼の場に送り出したという。

「美智子様の髪の毛はほんの少しだけ癖がありましてね、それを油をつけてゆっくりと結い上げていきました」

 美智子妃は何度も何度も、「ありがとうございます」という感謝の言葉を高谷ら内掌典に残したという。

 美智子妃の存在によって、高谷ら内掌典と両陛下との距離は近いものになっていった。

「身の回りの世話をする女官ほど日常的に接する機会は少ないものの、美智子様が内掌典の部屋にいらっしゃることもありました。民間から来られて何かと苦労されていた美智子様が、傍目からも強くなられたのは浩宮殿下の母になってからのようでした」

 そう高谷は述懐していた。宮中で美智子妃、浩宮らとともに『101匹ワンちゃん』を見た時の美智子妃の母としての喜びに溢れた姿は、高谷の目に焼き付いていた。

◆児玉博(ジャーナリスト):1959年生まれ。早稲田大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動。著書に大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)の受賞作を単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』(文藝春秋刊)、『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(小学館刊)など。

※週刊ポスト2019年5月3・10日号
by めい (2019-04-24 05:26) 

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