宮内熊野に探る「祭り」の意味 (5) [熊野大社]
十二、七夕
《 諸々の年中行事は社頭で行なわれるが、七夕祭のみは氏子の民家で行なわれる。特に熊野の氏子すなわち宮内町で行なわれる七夕祭り、熊野の大社を御神体としてお迎えして行なわれるところに特異性があり、今でも獅子を御神体として祭壇に安置され仰信されている。》
《日本にはお盆の御霊祭りと新春の神詣りとがあって、共に最大の年中行事として国民の間に深く根をおろしている。今の一年は昔の二年であったこと、これは我々の先祖が熱帯から亜熱帯の米が二度取れる、暖国から渡来した民族であり、黒潮に乗り或は颱風によって漂着した民族が永く政治を支配してきたことに依って残されてきた貴重な民俗である。すなわち盆や新春の行事を考えると、盆は上半期の一年の越年の行事であり、この七夕には青竹を立て、この竹を流して早朝水浴する。これは明らかに身滌の行事であり年末の大祓の神事である。これに大陸文化が色づけして牽牛織女の物語を取入れて今日の七夕祭ができたものと思われる。》
《宮内の七夕祭に青竹を立て色々の川の名を書いた端尺を下げるのは、諸々の川で何遍も清い流れに身を清める大祓である。祭壇を築いて氏神熊野の大神をお祭りするのも納得出来る。昔の人はお獅子さまが熊野の神と信じていたことも事実であるし、それで熊野の神の獅子をかならず祭壇に飾ってお祭りするしきたりになってきたことも諾かれることであろう。・・・年末年始の行事は、神の常住する神社で行なわれるのに対し、お盆の年末年始の行事というべき諸々の行事は各自の家々で行なわれる民家の祭りとなった。特に宮内の七夕祭にそのおもかげを留めていることは嬉しい限りである。》
《日本のタナバタが大陸のタナバタと習合して本来の意義を忘れ、斉竹は飾り竹として用いられ涼を呼ぶ真夏のお飾り品と化し観光用にも重用されている。また祭壇も魂祭の本来の意義を失いこの祭りの中心のお飾りとして発達したものと思われる。
宮内の七夕祭も今では別に個性をもった特異な行事として発達し、祭壇の有する七夕祭として全国でも珍しい行事となった、七夕祭が本来の意義を失った今日、宮内の七夕祭がばらばらになって伝わって来たとしても、宮内の七夕祭はともかく本来の姿をのこし、熊野大社の氏子によって永く守り続けて来たことは、誠に尊い事であり、心してこれが保存の施策を講ずべきであると思う。》
この文章を熊野大社の若い人たちが読んでこれを復活できないかと思いつき、見事な七夕祭を昨年八月七日に実現しました。その経緯については『置賜民俗』第二〇号(平成二十五年)に詳しく書かせていただきました。今年も第二回目が行われました。これからもつながっていくことを願っています。
十三、お盆詣り
神道によって祖先の祭祀をしている家が、先祖霊璽が奉安される御霊殿(オミタマ)に御供料をそなえ、霊魂をお迎えして各家庭の祭壇にお祭りします。
《十五日には御霊をお送りして、社務所の御霊殿にお詣りして帰られることは仏教とあまり変りない。》
十四、四万八千日
境内末社の中で社殿がいちばん大きい幸(さいわい)神社のお祭りです。
《猿田彦鈿女の命を祀り、方角や家相の神さまである。この宮は神仏分離前は馬頭観音をお祀りしてあった。馬の守護神であり、昔は着飾った馬の参拝が行なわれたものだ。
仏説に旧七月十日に観音様にお詣りする人は四万八千日の御利益を授けられるという信仰によって行なわれたものである。ま夏の日の暑さに一日を過ごした人々は、夕の涼風を求めて集まり、境内は夏大祭をしのぐ人出で賑ったものだ。・・・このお祭りも、戦争末期に新旧暦のさだかならぬうつりかわりの時、やれ新暦だ、俺は旧暦だという雑音と、大戦のためあの行き詰まった社会情勢の中に自然とその影を失ってしまい、今では明治をなつかしむ人たちによってわずかにその命脈を保っている。》
ここに「旧暦だ新暦だという雑音」とありますが、新暦と旧暦と月遅れ、この三つがごっちゃになって、古来祭りと共にあった日本人の季節感覚が狂わされてしまった。自然に対する感性の狂いが根底において日本人の心性を歪めてしまっているのではと思ってしまうのですが・・・。
《置賜三十三カ所霊場巡りの御詠歌に、二十九番宮内馬頭観世音
幾たびかまいる心はみ熊野の熊野の山の馬頭観音
と詠われ、おゆずり姿の巡礼が無心に誦するご詠歌のこえが、鈴の音とともに老杉のなかから聞こえて来た昔は懐しい。》
「置賜三十三カ所置賜霊場巡り」での二十九番馬頭観世音とありますが、明治初年の神仏分離の流れの中で、馬頭観音は札番と共に明治九(1876)年白鷹町荒砥の岡応寺に移されて「聖観音」と称されて現在に至っています。(つづく)
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