「地元で買物キャンペーン」の記憶から [置賜自給圏構想]
「置賜自給圏構想」から、昭和54年(1979)宮内商工会青年部でやった「地元で買物キャンペーン」を思い起こさせられた。各家庭の電話の前に貼ってもらうようにと全戸配布したA2判チラシにこうある。
「地元で買物を」
省エネルギーに低成長の時代、”たいへんだ!”とさわぐまえに
”それはそれでいい時代と思ってみたら?
この町でいつも出会う なにげない笑顔 さりげないことば なんでもないふれあい
そんなふとした心のかよいあいが かけがえのないうれしさ
あんまりせわしなかったこれまでの時代
こんどは気持ちをおちつけて
すぐ身のまわりにあるいいものに目を向けてみたら?
ほとんど今でも通用する。あれから35年、南陽市人口は36,951人が今は33,181人(26年4月1日)で10.2%減。宮内地区人口は9,305人だったのが7,635人(25年4月1日)で18%減。世帯数も3,815から2,653まで減っている。その差1,162、空き家が多いわけだ。地図の下には商工会青年部員とOB会員の一行広告と電話番号が記載されているが、105事業所のうち、今もなんとか続いているのが74。あと10年後いったいどうなっていることか。ほんとうに心もとない。
裏面は「第一回商工業まつり」の予告広告になっている。当時を思うと懐かしい。商工会青年部の部会報の報告記事からその頃の熱い思いに裏打ちされた勢いが伝わってくる。
・・・出店総数52店舗、双松公園一帯に一大商工業の開幕となったのである。企画から始まり、関係官庁との折衝、出店募集、PR、会場の設営装飾、イベントの企画、トテ馬車再現と、文字通り青年部会総力あげての大事業となったのである。山形県商工会連合会も大いに協賛され、YBCニュースカーの取材、また藤島町をはじめ近隣商工会関係者の視察も多く、単なるびっくり市とはちがう商工業まつりとして注目されたのである。あいにくの雨で2日目の客数は減少したものの、第一日の夜のあの賑わいは、担当者として一生忘れることのできない感激となった。企画の段階からパーフェクトを目指したものの、決して成功したとは言い切れなかったが、青年部のあの迫力ある行動力が、無から有を生んだことは素晴しいことといえる。同時に青年の目的に向かう熱い情熱、ほとばしる感情が、何か目に見えない大きな大きな物体を、わずかながら動かしたように見受けられてならない。「宮内では何してもわがんねべ」でなく、「われわれの手で何かをやるんだ」への発想の転換、これこそ第一回商工業まつりの最大の収穫に思えるのは私ひとりではあるまい。(宮内商工会青年部会報「ふれあい 第2号」昭和54年10月1日発行)
私が書いた文章ではない。当時こうした熱い思いがたしかにみんなに共有されていた。幸せな時代だった。
「置賜自給圏構想」設立総会での北川忠明先生の講演の中で、玉野井芳郎氏の名前とともに「地域主義」の言葉が出てきた。35年前も「地域主義」風靡の時代だった。「マルクス主義の衰退に合わせた地域主義の台頭」との解釈もあったように思う。その体現者が玉野井氏であったと思う。われわれは後に法政大学長になる清成忠男先生に講演をお願いしたところ、清成先生から「シンポジウムをやろう」と逆に提案され、5時間半に及ぶ「講演と討論のつどい」を開催した。100ページに及ぶ報告書は、私にとっての記念碑であり、宝物だ。そこに収録した清成先生の講演は、後にそっくり先生の著「八〇年代の地域振興―その実践的展望 」に転載された。
思い出話になってしまったが、要するにあの時々の熱く燃えた行動の積み重ねも、今はただ思い出に過ぎなくて、何も変えることはできなかった。その反省があっての私の発言だったことを理解していただけたらと思う。
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