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宮内七夕の復興 [熊野大社]

村上家七夕 .jpg

宮内本町村上家の七夕。見えにくいが中央に村上家所蔵の獅子頭が飾られている。

昭和10年代はじめのようす

 

古来宮内において7月6日と7日に七夕祭が行われてきた。明治以降新暦に変わってからは、8月6日、7日となった。今年その宮内七夕が復興する。


宮内地区の多くの旧家に、熊野大社の御神体である御獅子を模した獅子頭が伝わる。その獅子頭を正面に安置し、その両脇に川の名前を書いた短冊を下げた青竹を飾る。その脇役にすぎない青竹飾りがいつのまにか主役になった結果が、仙台七夕に代表される今の七夕である。宮内七夕の復興は、日本の七夕にあらためて魂を吹き込むことになる。期待したい。


七夕については、折口信夫の説(「七夕祭りの話」「たなばた供養」『折口信夫全集 第15巻』)をふまえた西角井正大のまとめがわかりやすい。北野猛先々代宮司が書かれた「七夕祭」に通ずる。(北野拓先代宮司は折口信夫の弟子)

 

《日本には、一年を二期に分けて冬と夏に神祭りをする風習がある。冬には霊力新たな神をこの地にお迎えする鎮魂の祭りを執り行い、夏には半年来人間の心身に着き溜まった罪穢れを祓う儀式を行うのである。人形(ひとがた)や型代(かたしろ)などにその罪穢を撫で移し、水に流してしまうことによって所期の目的が果たせる。これには更に古代の水辺の神迎えの儀礼が色濃くその印象を残している。川辺や海辺に棚を張り出し、神の一夜妻たる巫女が、その棚の上で神に着せる衣を機織っているいるのである。その巫女こそ棚機津女(たなばたつめ)であり、この姿こそ棚機(たなばた)である。七月七日の儀式で七夕と書かれるようになったのは、中国の乞巧奠(きこうでん)と見事習合した結果である。》(「日本民俗学の視点 3」 p.188


「乞巧奠」とは《陰暦77日の行事。女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。もと中国の行事で、日本でも奈良時代、宮中の節会(せちえ)としてとり入れられ、在来の棚機女(たなばたつめ)の伝説や祓(はら)えの行事と結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。》(デジタル大辞泉)という。


この地域については、「南陽市史 民俗編」に「七月七日 なのかび」と題して次のようにある。


《前日六日の午後に、青竹をとってきて、色紙に「天の川」「最上川」などと川の名前を墨で書いて短冊にして結び、川原に近いところでは、子ども達が小屋を建てて、馬鈴薯やら塩くじら、野菜を大鍋に煮て食べ、一晩泊まる。真っ暗になってから、七夕飾りを川に流し、トランプなどをしたり、試胆会などをやることもあった。七日の朝は暗いうちに川に飛び込んで水泳ぎをしたが、七日の朝は川に薬水が流れてくるので、体を水に浸けると一年間病気をしないというので、われ先に川に飛び込んだものである。》(p.228)

 

そしてそのあと、「盆箸とり」がつづく。

 

《盆の準備も七日から始まる。七日の朝に墓場への道の草刈りをし、各家々で自分の家の墓のまわりの草を取り清掃する。その帰途に川原などを通って、盆箸にする柳の枝をとってきて、皮をむいて柱などに縛って、真直ぐなままに乾くようにしておく。・・・宮内粡町では、七月六日に家の前に棚を作り、「お獅子さま」と称して、庭で竹に短冊を飾り、棚の上段に、家々で持っている獅子頭を上げ、太鼓を持っている家では、それを叩くという行事があった。多分に熊野大社の祭礼と関係を持つ行事なのではなかったろうか。》(p.229)

 

新暦の導入によって、日本古来の行事と季節感とのつながりがごちゃごちゃになってしまった。旧暦、一月遅れ、新暦の混在だ。七夕をあらためて復興するにあたり、旧暦は考えないとして、月遅れがいいのか、新暦がいいのか。新暦で行なわれる夏越の大祓(630日)につづく行事と考えれば767日となるが、例大祭(725日)を終えた後の解放感や6日早朝の水浴び、そして盆へのつながりをを考えると月遅れの867日となる。宮内七夕の「復興」ということであれば、月遅れ(867日)が妥当と思う。

DSCF7041獅子勢揃い 獅子冠事務所.jpg

夏祭り(7月24、25日)に獅子冠事務所前に飾られた宮内地区の御獅子(平成23年撮影)


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めい

七夕について詳しく書いた記事がありました。「ナヌカビ」という題で。「なのかび」はこの地方特有の呼び名ではなかったようです。
http://blog.goo.ne.jp/sakura-sakura_1966/e/f22c4c5e482a07b93a3e3f28b607cb3a

   *   *   *   *   *

ナヌカビ~日本人の七夕信仰の素型

  七夕伝説の本家・中国では「七夕」の故事由来をすっかり忘れ去られ、特に若い方には西洋のバレンタイン・デーだと公言され、若い男女がデートしプレゼントをする日だとされています。経済成長著しい中国では故事来歴など感心が薄いのは当然でしょうけれど、 『論語 為政篇』に「温故知新」の言葉にある通り、果たして古い物事を簡単に忘れ去っていいものでしょうか。無論ひと事ではありません。本邦でもたいした差がない風潮で、仙台や平塚や茂原の七夕は知っていても、その意味することすら忘れられています。仙台の七夕は飾り物の奥に水神さまが安置されておりますから、まだましなほうでしょう。この七夕を幼稚園や小学校で遊ぶイベントになっているだけですから、仕方がないことなのでしょうか。全国の地名も市町村合併などにより、本来あるべき地名も平気で変えられています。これでは、そこにどんな歴史や文化があったのか、探り当てる糸口すら分からなくなってくるじゃありませんか。私はそうした傾向に対し深い危惧と憂慮の念を抱きます。そこで改めて、新暦の七夕(7月7日)の時期を外してここで論考することにしました。以下ご興味のある方には是非とも知って戴きたいと書くことを決意しました。
  7月7日は、元々は7月15日のお盆を中心とする行事の一環でした。盆は稲作の収穫を感謝するとともに、秋の豊作を祈願するために、ご先祖さまをお迎えし、その霊魂を祀るという大切なイベントでありました。これに先立って、人々は色々な準備をします。女の子は髪を洗い、町屋では硯をきれいにし、神にお供えする食器類を洗い、チガヤやマコモで作った「七夕馬」を作って屋根に上げ、ご先祖さまをお迎えする風習があったぐらいです。又盆とともに来臨する神々の衣づくりをするために選ばれた神女が、村から離れた川ツ淵や海辺などに作られた棚(タナ)で機織(ハタオリ)をしました。所謂棚機娘(タナバタツメ)のことで、これが棚機(タナバタ)=七夕の語源となったものです。
  ところが佛教伝来とともに、お盆の行事はいつしか佛教行事の一環として特化するようになりました。そこで七夕の行事だけがポツンと取り残されてしまったのです。平安時代の上流社会に伝播された中国の星祭りである乞巧奠(キッコウデン)や、織姫・牽牛伝説に、日本の七夕が飲み込まれていったのでした。但し律令制度時代、七夕の時期に合わせ、盛んに宮相撲の節会(せちえ)がありましたが、これは五穀豊穣を占う行事で、現在でも九州各地に執り行われています。
  七夕は元来秋の行事です。新暦ではなく、旧暦の7月7日でなくてはなりません。何故かと言えば、旧暦の7月7日に天の川をはさんで織姫と牽牛が最接近するからです。新暦の夜に天の川が見えるのはたった26%程度しかありません。論拠もなく、大変可笑しな行事となってしまっているのです。旧暦には、それでも天の川が見えるのは54%ほどと気象庁のデータがあります。ロマンティックな夢をぶち壊してしまうようで申し訳ありませんが、雨が多い日が七夕だなんて愈々味もそっけもない行事になってやしませんでしょうか。8月過ぎ、立秋前後に本来の七夕行事があります。今年は新暦で言えば8月6日に当たりますが、ちょうどこの時季には青森ネブタや弘前ネプタがあり、仙台の七夕も、秋田の竿灯もあると言った風で、「ねぶり流し」系統のお祭りが盛んに行われているのです。ですから七夕は一種の「ねぶり流し」の行事ではなかろうかと言う説があります。農家にとっては眠気は最も恐るべき悪神であり、風流(フリュウ=派手な作り物)ものに、眠気の悪神をくっつけて、五穀豊穣を祈るための一連のお祭りが「ねぶり流し」の行事なのですから。
  日本の節供は人日の1月7日、上巳の3月3日、端午の5月5日、七夕の7月7日、重陽の9月9日と五大節供でありますが、これとて中国伝来の行事でした。中国での七夕は七夕を特別な日とすることがいつから起こったか実ははっきりしておりません。でもこの日の行事について書かれた最も古い文献は後漢(25~220)時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されておりますが、七夕の風俗を記したものとしては東晋(314~420)時代に葛洪が記した『西京雑記』に、「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見とされております。織女と牽牛の伝説は『文選』の中における漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされております。でもまだ7月7日との関わりは明らかではありません。その後、南北朝(439~589)時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であるとはっきりと明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べ針仕事の上達を祈ったと書かれています。そして7月7日に行われた乞巧奠(キッコウデン)と、織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かってまいります。また六朝・梁大の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証出来る史料の一つとなっているのです。つまり織姫と牽牛は熱烈に愛し合って、天帝である父親の許しがあって結婚したのです。結婚後二人は激しく愛し合うばかりで仕事に一向に身が入らなくなったのを父親は見咎め、二人を引き離してしまうのですが、可愛そうなので、一年に一度だけ逢うことを許されたというわけです。織姫と牽牛は×一だったわけです。
 日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死に、アヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)で、又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」、更に、お盆の精霊棚とその幡(=機)から棚幡(或いは棚機)と一般的に流布され、日本では奈良時代に節気の行事として宮中で行われていたようです。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)=たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ =などと、七夕に纏わる歌が御座います。本来、宮中行事であったのですが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がったものでした。尚、日本において機織は、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではありません。
 佛教伝来の奈良時代から少々ややこしくなってきたのですが、本来の七夕行事は一般庶民の行事でした。七夕神を7月1日にお迎えをし、7日に、流し雛と同じように、短冊(=ひとがた~穢れをつける)を、神宿る神聖な笹の葉にくくりつけ、川、海などに流してしまうというものでした。これを「七夕送り」、或いは「七夕流し」と言われております。織姫と牽牛が出会えますようにと、ここから梶の葉伝説(=天の川を渡るための漕ぐ葉)などが生まれました。また短冊にはその昔は裁縫が上手になりますようにとか、(里芋の葉に貯まった水で墨をつけ、お習字の手習いが上手になるという伝説)などが生まれました。或いは流すという意味では、流しソウメンの伝承も生まれましたし、こうして穢れを祓い清めてから、愈々お盆の行事になったのです。
  一例をあげれば、伊勢湾に浮かぶ神島には依然として古色蒼然たる七夕のお祭りがあります。お盆の始まりは8月1日で、早朝4時半から南の山で、七夕の竹を三本取ってきて飾りつけします。短冊には「ぼんこいぼんこいせみがなく」と書かれます。この日から6日間、毎日夕方になりますと、笹に吊るしてある提灯に灯を入れます。昔はこの山は禁忌のお山でしたが、行けない時は墓場から取ってきたようです。娘が竹を取りに行くようになっていましたから、娘がいないお宅では近所の娘に頼んでいた模様です。そして神島の御寺である桂光院では「オニバタ」と呼ばれる幡をあげます。お盆の月に入ったよう!と言う知らせの幡です。オニバタのオニとは施餓鬼のオニのことで、供養するために立てられるものです。オニバタには「唵麼尼嚩日哩吽」の文字と、「唵麼尼駄哩吽泮呢」とが書かれた二つの白幡が立てられます。そして8月7日、午前5時頃、オショロさま迎えの笹船作りが始まります。笹船は竹の葉のついたままの葉を船に作り、ロウの葉(合歓の木)を差し込みます。竹三本とロウの葉は朝5時前に女性が山から刈り取ってきます。12杯の笹船(閏年には13杯作る)のついた竹と残りのロウの葉を藁に結びます。これと提灯をつけたままの七夕竹を一緒にし、築堤より女の人、或いは女の子が、「ご先祖さまみな仲良く乗っといで」と声を出しながら海へと流します。流れ行く七夕竹を見ながら合掌する方もおられます。ロウの葉を笹船につけるのは、櫓漕ぎ船の名残か、梶の葉伝説の一種でしょうか。
笹船流しが終わると、一斉に墓掃除が始まります。雑草や塵などは全て海へ流し、浜から新しい砂を運び、墓一面に撒くのです。そしてシキビを供え、線香を点てます。それが終わると、家々では障子を貼り替え、ガラス拭きなどして家の中の大掃除をするのです。神さま佛さまの道具を洗い清め、寝床のシーツまでも新しく替えます。7日この日はオショロサマのことをするのだから、針仕事は一切致しません。迎え火、送り火に使うジン木(松脂の多い部分で、火が点きやすい)も小さく割って用意しておきます。
  初盆の家では21日の朝まで「御先祖の腰掛」と称する高灯篭を軒に立てます。これは女の人が山から刈ってきた茅を竹竿に逆T字型に縛りつけ、そこに軒灯篭をつけたものです。毎日、灯を入れる慣習です。
  8月10日、桂光院で村全体の佛の供養として隠居衆や梅香講の人々が参集しお経をあげます。終わると、和尚より茅に二色の短冊をつけたセガキバタを戴き、各家のお佛壇に飾ります。ハタには「南無十方佛」と書かれています。8月12日、海難事故で亡くなった霊魂を呼び出し、薬師堂でお施餓鬼をします。当然隠居なり(80歳過ぎたご老人方 島では最も権威ある御仁たち)の方々が参加し、お祈りをします。8月13日、愈々お佛壇飾りをして、迎え火の準備をします。8月14日と15日はお佛壇にご馳走を運び、ご先祖の供養をします。14日は更に「ハッポウデン」と呼ばれる無縁佛を祈る行事があります。それは神佛となったご先祖を供養する演芸会(青年団主催)の途中で行われます。8月15日は大施餓鬼や精霊送りなどがあり、8月16日には、浜施餓鬼や燈篭送りや三文講などが行われます。8月16日は、「餓鬼の棚焼き」が執行され、8月18・19日は「ウラサマ(海神祭り)」が行われます。そして8月20日は「ウラ盆」と呼ばれ、「百万遍」などが続きます。こうして長い長いお盆の行事が行われるというものです。詳細に述べたいのですが、割愛し、実際現代でも行われている行事であることにご注目戴きたいものです。
  七夕は古い民間信仰でありました。お盆の行事の一環だったのです。七夕さまを恋物語などしなくて申し訳ありませんが、七夕さまは懇ろな信仰の一つだったことを申し上げておきます。神島の「ナヌカビ」こそ、七夕さまの古い信仰のカタチが伝承されてあるのではないでしょうか。浮かれるのもいいのですが、実際天空では織姫と牽牛は旧暦で最接近するのであり、それと西洋のバレンタインデーを映し返ることは難しいのではないでしょうか。ご判断は皆さま方に委ねます。今日も長々とした文章にお付き合い願い、大変恐縮です。久し振りに民俗のことを書きましたから、やや興奮を抑えられません。
by めい (2013-05-15 17:05) 

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