粕川長一郎作 相生の松由来記「悲恋伝説・松竹梅」 [地元のこと]
相生の松由来記 「悲恋伝説・松竹梅」
今では覚えている人も少なくなったけど、宮内が製糸で賑わっていた頃、新町の今のきらやか銀行の所に粕川呉服店というおっきな呉服屋さんがありました。そこの最後の当主が粕川長一郎さん。お金持ち育ちらしい品のいい人で、その息子さんは特攻隊で戦死して「軍神粕川少尉」として歌にまで歌われた人、晩年は、吉野石膏創業者須藤永次翁の熱海別邸管理人として過ごされました。その粕川さんが子供の頃、じっちゃの友達に、円太じいさんという人がおりました。円太じいさんは、熊野大社の北、菖蒲沢で代々上杉の殿様に献上する瀬戸物を焼く家柄、色浅黒く頑丈そうなじいさんだったそうです。円太じいさんが語ってくれたお話は、粕川さんの記憶にしっかりと焼き付けられ、今から50年程前、粕川さんが記録に残しておいてくれていたのです。
熊野大社の大銀杏から北に向かう道に沿って開けた一帯が菖蒲沢。江戸の初め、直江、上杉と共に入った信州、越後からの武士団によって今の町の土台造りがなされるまでは、「宮内」といえばこの一帯を指していました。道路を挟んで双松公園に向かい合う高台には、中世以来宮内を守ってきた宮沢城がありました。その城のあたりから東にのぼると置賜盆地を一望する双松公園。その名の由来となったのが日本でも珍しい名木相生の松、またの名を妹背の松。そして公園の裏手、木々の間から見える沼が尻無沢です。一方、菖蒲沢の道を上にのぼると深い木立に囲まれて置賜三十三観音第三〇番札所長谷観世音が鎮まっています。その手前の沢は昔から梅ヶ沢と呼ばれていました。
これからお話するのは、長谷観音、梅ヶ沢、尻無沢、そして相生の松にまつわるたいへん悲しいお話です。
長谷観音には、今から一一四〇年ほど前の貞観九年、慈覚大師が熊野権現参詣の折、荒廃していた権現の中興を願って自作の観音像を安置したと言う伝えが残っている由緒ある観音堂です。幾たびか火災に遭い、今祀られている観音さまは、慶長五年、東の関が原と言われた上杉景勝と最上義光の長谷堂の戦いの折、直江兼続を大将とする上杉軍が、最上本沢長谷堂にあった行基菩薩御作の観音さまを移したものと伝えられています。身の丈六尺180cmの木像で一年に一度地元の人のみにご開帳される秘仏です。
さて、今から四百二十年ほど前の天正十七年のこと、時の領主大津土佐守本次が飛騨の国から宮造りの匠を長谷観音の再興を図ったときのことでした。その時彫刻を受け持ったのが上方からきた大宮工左衛門。妻を亡くしていた工左衛門は、年のころ十八、九の可憐な娘お梅を伴い、弟子五、六人とともに宮内にやってきました。その弟子の中ですぐれて腕のよかったのが竹蔵と松蔵のふたり。いちばん大事な御堂の正面の彫り物をどちらにするか、迷った末、竹蔵にやらせることにしました。さらに工左衛門は、この秋工事完成の暁には竹蔵を婿にして盛大な結婚披露をと独り決めしてしまっていたのでした。竹蔵にいちばんの仕事を奪われた松蔵の落胆はいかばかりだったことでしょう。
双松公園から吾妻連峰を望む
今日はお盆の十六日、里人は盆踊りに夢中で工事もこの日はお休み。弟子たちも思い思いに遊びに行き、工左衛門とお梅の親子も暑さを逃れて裏山に涼みにでかけました。月は晧々とさえわたり、吾妻、栂峰、飯豊の山々の稜線がくっきりと浮かび上がっています。遠く米沢の城下町の明かりも見えます。置賜の平野が一望の下に見下ろされるその高台にまで、里からの笛や太鼓の音が歌声とともに聞こえてきます。二人は腰をおろしてしばし涼をとっていたのでしたが、父親が娘に語り掛けました。
「かねてのとおりこの秋に工事がすんだらおまえも年頃、自分も年老いたことゆえ、竹蔵を婿にしてわが家名を継いでくれ。」
突然の父の申し出に、お梅は驚いてしまいました。
「お父さんの仰せにそむきわがまま勝手を申し上げてすみません。親不孝者とお叱りでしょうが、実はほかにお互い想いあっている人がいるのです。このことだけはどうかお許しください。」
思いのほかの娘のことば、父は何とか説き伏せようとしますが、いかに親思いの娘とてこればかりは変えようがありません。かたや頑固一徹の親も親、
「さては親の許さぬ不義いたずらをしおったのか。いかに可愛い娘とて、かくてはわれと竹蔵、師弟の道が立たぬ。不敏なれども生かして置けぬ。」
工左衛門、「お梅覚悟」と、腰の刀を引き抜くや、逃れんとするお梅を肩先からけさがけに切り倒して、屍を谷間に落としてやったのでした。親子の情にまさる師弟の義理、今のわたしたちにどこまで理解できるやいなや。しかし当時はそういう時代だったのです。かなしやお梅がうち棄てられたその谷は昔から大蛇が住むと言われた谷で、以来だれ言うともなくお梅が沢と呼ばれるようになるのです。
その夜、竹蔵はひとり仕事場に居残って自分に与えられた仕事にあれこれ苦心凝らすがいまだに構想まとまらない。困りぬいてついついうとうとと横になった。
とその時、髪振り乱し顔青ざめたお梅の姿、「竹蔵、竹蔵」と呼ぶ声に、「お梅どの、今時分に何の御用か」と問いただす。目いっぱい涙のお梅、
「お父上の仰せにそむき永の勘当、遠い国へと旅立ちます。もはや逢うことも出来ませぬ。さぞや憎い女とおうらみでしょうが、これも前世の因縁、どうか諦めてくださいませ。どうぞこれからは、私に代わって父上のご面倒をばお願い申し上げます。そしてもう一つお願いございます。私の面影をどうぞ御堂にお残しください。
「お願いします」と手を合わせるお梅の姿、見る間にその姿が蛇の姿となり、竹蔵、不思議やと思い見つめるそのうちに、何と龍が雲を得て昇天する実にすさまじい様子へと変わってゆく。それをじっと見つめる竹蔵「得たり」と手をうち、お梅に向かい「このたびの工事のいちばん大事な仕事を与えられて煩悶の日々、今見るこの姿こそ誠に立派な龍の様、お梅殿、お望みどおり私の精魂打ち込んで立派な彫り物をつくり上げ御堂を飾って後世にお姿をとどめましょう。また親方を誠の父親と思い孝養を尽くします。必ずご案じあそばすな。ありがとうございます、お梅殿。」といいつつも竹蔵は、さらに眼光するどく龍を見つめて、しかと心に刻みつけるのでした。「竹蔵どのさらば、くれぐれも後のことをたのみます」龍に変じたお梅は嬉しげに姿を消していったのです。
さて、ちょうどその頃、一方の松蔵は・・・。盆踊りも終わって他の弟子達といっしょに小屋に帰ってみると、いつもそばにいるお梅の姿はみえず、親方ひとりいつになく憂いの様子。親子の間に何か大事が起こったことを察した松蔵は、深く胸に思い当たることとて修行の旅に出る決心、ひそかに小屋を脱け出した。月は西に傾いてすっかり暗くなった夜道を急いで山道を下ると、かすかに聞こえてくる「松蔵、松蔵」と呼ぶ声。後ろを振り返りすかしてみると、何とお梅が追ってくる様子。
飛ぶが如くに松蔵のそばにすがりつくや、「松蔵どの、私を残して一人行くとはなんと胴欲な。どうでも私を連れて立ち退いてくれ」と必死でしがみつく。松蔵「いやいやそれはなりませぬ。永の年月親方に世話になり、ようやく成人した私の業つたなく、今たびの仕事も竹蔵どのに言いつけられ、家を継がせる御心底はもっとも至極、私のことはあきらめなされて竹蔵どのと夫婦になられ、どうか親方に孝養をお尽くしあれ.。私はお前さまのことはきっぱり思い切って修行の旅に出る所存、人目につくと口がうるさい、早くお帰りくださいませ。」「なんと言われる松蔵どの。たとえ祝言はいたさねど、末は夫婦とあれほどかたく言い交わしたのも去年の夏。女の道はたてまする。清姫さまが安珍さまを、蛇になって追った伝えの日高川。想いこんだる女の一念、今さら何といわれてもお前一人はやりませぬ。」
必死のお梅に松蔵今はせんかたなく、「それほど想うそなたの心、というてお前を連れて駆け落ちしては、大恩受けた親方になんとも申し訳が立ちません。もはやなんともあの世で暮らすしか、添い遂げられる道がありませぬ。」と言えばお梅は「喜んで三途の川は私が手引き、夜の明けぬうちにさあ早く早く」とせきたてるや、程遠からぬあの池を死に場所にとたどりついた池のほとり。
二人は観音堂の方へと手を合わせ、南無阿弥陀仏の声もろともざんぶとばかりに入水した。池の岸辺に松蔵の菅笠とお梅のかんざしが残ってあったが死骸はとうとうあがらなかった。お梅の亡霊とともに松蔵は心中したのでした。その池は、幽霊には尻が無いということから尻無池と言われるようになりました。今は尻無沢と言われているのがその池です。
南陽市宮内 尻無沢
なんとも哀れなこの二人、深く思いを寄せた村人達は、形見の笠とかんざしを埋めて二本の松を植え、側には地蔵様を置いて厚く供養したのでした。すると不思議や育った松は、ちょうど夫婦がつながるように、世にもまれなる連理の姿、相生、妹背の松として近郷近在に名をとどろかし、縁の結びを願う若い男女が多く訪れるようになったのでした。今は地蔵様のかわりに名木相生の松に寄せた歌を刻んだ歌碑があって、いにしえからの思いが伝えられています。
結ばんと思ふえにしはわが里の妹背の松にいのれもろ人
さて戻って、龍に変じたお梅の姿を目に焼き付けた竹蔵は、精魂傾け御堂の正面に彫刻、果たせるかな天晴れな名作としてお殿様のお褒めに預かり恩賞をいただき、これが非常な評判となって近郷近在から見物人がおしかけ御堂は大賑わい。この彫り物はだれが言い出したか「お梅の龍」。しかし惜しいかな、長く名声を誇った観音堂も、いまからおよそ二百年前、文政年間に火災で焼失、今ある長谷観音は、上杉家米沢藩の鬼門をお守りする祈願のお宮として文政10年(1827)に再建されたものでした。とはいえ、いま正面をかざる龍のお姿に、きっと「お梅の龍」の記憶が宿されているに違いありません。
長谷観音堂(平成18年9月撮影 その後杉の木は伐採された)
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