宮内よもやま歴史絵巻「小田仁二郎と寂聴さん」 [小田仁二郎]
敗戦直後、戦後文学の旗手としてその鬼才ぶりが注目された小田仁二郎は、ここから近い宮沢川沿いにあった小田医院の二男として生まれました。
世界中の言語に精通したイスラム学者井筒俊彦は、小田の代表作『触手』について、「この文章は誰にも書けないほど言語学的に素晴らしい。」と評しました。
瀬戸内寂聴さんの文学の師としても知られ、寂聴さんの出世作『夏の終り』は仁二郎との深い関わりが題材となっています。
慎吾の留守に一人でした経験のすべてを、慎吾の顔を見るなり息
せききって告げ、一つのこらず話してしまうと、はじめてそれらの
経験がじぶんの中に定着するのを感じた。無口で非社交的で、経済
力のない、世間の目から見れば頼りない男の典型のような慎吾に、
知子は全身の鍵をあずけたようなもたれかただった。
(瀬戸内晴美 『夏の終り』)
生家近くに建つ仁二郎の文学碑の文字は、仁二郎の書いた文字を寂聴さんが丹念に拾い集めて刻まれました。
一字一字原稿用紙の桝目に行儀よくいれた清潔な文字を
見つめながら、私の目には、原稿用紙が波のように遠ざか
り、白い一本の道が見えてきた。道の涯に天を突く銀杏の
大木がゆっくり顕ち上り、四方に葉の落ちつくした裸の樹
をひろげている。
それは、小田仁二郎の書く子供の世界によく出てくる故
郷宮内の、熊野神社の境内の大銀杏にちがいなかった。九
百年に近い生命を保っている老木だという。大樹はそこに
のび育ったまま一歩も動かない。ひろげたその枝に来て、
たわむれたり憩ったりして、また去っていくのは、鳥や雲
や風たちなのだ。訪れるのは気まぐれで、易々と裏切る。
来るものは拒まず、去るものは追わず、大樹はいつでも孤
独にひっそりと立ちつづけている。
現実の大銀杏を見たのは、昨年の秋の終りであった。
(瀬戸内晴美 『手紙―小田仁二郎の世界』昭和五十七年)
寂聴さんは、密かに宮内をおとずれたときの、喜多屋のばあちゃんとの劇的な出会いをふりかえり、「小田さんがふるさとのシンボルとしてもっとも愛していた銀杏の木の下であったということは、もうこれがほんとうに仏の引き合わせとしか考えられません。」と語っています。
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http://revorida.sblo.jp/article/40124495.html
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八月、夏のど真ん中に「夏の終り」を買った
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小杉信吾の現実の人物を追跡したら、小田仁二郎という人であった。「夏の終り」だけ読んでいると単にうだつのあがらない遊び人ぐらいの印象であるが、事実はまったく違った。
小田仁二郎 触手
小田仁二郎作品集「触手」
文学にはとことん暗い自分であるが、この書物が書かれたのは、絵画で言えば、鶴岡政男の「重い手」などが描かれ得た(それが可能であった)戦後直後ほんの僅かの特別な期間である。この[断層]の存在を日本美術は無視し、始末をつけられないまま、ずるずると世界に繋がってしまった。繋がったことになっている。小田の作品もおそらく日本の芸術領域全体にての同じ問題に関わりを持つだろう。「触手」、ぜひとも読んでみたいところだが、現在古書以外では入手不可能だそうだ。小田に関して瀬戸内視線から完全に脱した観点での追跡がいる。小田仁二郎はその最期に自己の仕事の形跡を全て処分したともあった。
これも当初の予測どおりなのだが、瀬戸内世界においても、またまたやはり互いになんら理解が及ばないままに男女間の事は迷妄の内にどこまでも動いていたのである。不可思議とはこのことだ。かつて坂口安吾にはまって全集のかなりの量を読破したのだが、「クラクラ日記」を読んでその欲求はしぼんでしまった。最終的に坂口は敗北したという気にすらなったのである(笑 そこに横たわるとんでもないシステムの存在にその時気づいたのだが(笑 参考→坂口三千代『クラクラ日記』http://1000ya.isis.ne.jp/0602.html(今はじめて読んだがこの書評は全てを言い尽くしていた・・;)
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ここから坂口安吾「夜長姫と耳男」にたどりついた。青空文庫で一気に読んだ。http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42614_21838.html
by めい (2013-07-29 06:42)