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宮内よもやま歴史絵巻「佐佐木信綱と須藤るい」 [地元のこと]

佐佐木信綱と須藤るい [更新済み] [更新済み].jpg

        (佐佐木信綱 明治5年(1872)〜昭和38年(1963))


佐佐木信綱(明治5年〜昭和38年)は、多くのすぐれた弟子を育てた歌人であり、著名な国文学者でした。昭和12年に創設された文化勲章の記念すべき第一回受章者です。また「夏は来ぬ」の作詞者としても知られます。宮内出身須藤るいが深く師事したことから、宮内には信綱の歌碑が4基あります。


     (若き日の須藤るい)     (須藤商店のあったつきぬき通(芳武茂介 画))


須藤るいは、この粡町の染物屋山崎與左衛門の次女として明治23年に生まれ、突貫(仲の丁)の須藤永次と結婚、すぐれた才覚で永次を陰で支えつつ粒々辛苦の末、吉野石膏株式会社の今日あらしめる礎をつくりました。昭和24年に信綱が主宰する短歌結社竹柏会に入会、72歳で亡くなるまで、熱海の住まいが近かったこともあり親しく信綱の薫陶を受けたのです。 

      ( 須藤家別邸「水園」)

 

はやくも入会の年の11月には腰廻(菖蒲沢)の須藤家別邸「水園」内に信綱歌碑がつくられています。

 

   とこしへに国のあるじのこころうけてゆたけし清し山は樹々は

 

      (長谷観音の歌碑除幕式の須藤夫妻(昭和2611月))

 

長谷観音にある宮内町戦没者慰霊碑の側の碑は、昭和26年に建てられています。この時に合わせて献詠された50首の額が今も飾られています。

 

   国のため玉とくだけしますらおをとはに守りませ長谷の御仏  

 

      (朝の双松公園。手洗場脇と山頂に信綱歌碑がある。)

 

盆地を一望する双松公園、ここに来ると心が和みいやされます。朝日に輝く朝の公園はまた格別です。

  

   山の上に朝の光の照りみちて金色の水かがよいにほふ

 

 昭和36年にるいは亡くなりますが、信綱は数首の歌をつくってるいを偲びました。その中の3首です。

 

   古里の水園をとはにまもるらむみ堂がもとの歌の石ぶみ

   春秋はふるさとを訪ひ古里人熱海にとふを喜びし君

   月ごとに欠詠あらぬいそしみは道の進みを早からしめし

 

昭和 34、36 年に、永次が信仰した魚籃観音を合祀する琴平神社に夫妻の胸像が建てられ、その傍らにるいへ捧げる信綱の歌が刻まれています。

   

   ありし世にわが背守りましきみずから乃よになき今も吾せまもる刀自

 

     (琴平神社にある須藤夫妻の胸像と信綱歌碑)


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