宮内よもやま歴史絵巻「平維盛伝説」 [地元のこと]
平維盛は、平家が滅びなければ平家の頭領となるべき清盛の嫡孫でした。笛の名手であり、光源氏の再来といわれるほどの美貌で「桜梅少将」と呼ばれました。維盛について次のような伝えがあります。実は入水と偽り、熊野権現を背負ってこの宮内へと逃れ、熊野神社を建立したというのです。
(「平維盛、妻子との別れ」(平成18年菊人形))
維盛ハ平氏ガ亡ビシ時、独リ死ヲ逃レ、紀州那智浦ニ到リ、松ノ樹ヲ削リ、平維盛入水ト誌シ、遂ニ頭僧陀ト成テ、熊野ニ隠ルト云ドモ、頼朝捜シ求ムルノ急ヲ恐レ、遂ニ其熊野権現ヲ負去リ、奥州ニ来テ潜ニ堂森(米沢市万世)ニ隠棲シ居ルニ、六七年ニシテ又去テ、宮内ニ至リ、紀州ヨリ負来レル神像ヲ此地ニ安置シ、熊野ヲ建立セリ。(『鶴城地名選』小幡忠明一八〇四)
(前田慶次の供養塔でも知られる堂森善光寺)
この維盛が紀州より伴ってきた神像というのは、宮内本町の金幣山照明寺(しょうみょうじ)に伝わる秘仏ではないかと言われています。
(金幣山照明寺 神像が納まる栗の木箱)
( 恵心僧都源心(942〜1017))
昭和五十年、地元有志が中心になって厳重に封印された栗の木箱を開けたところ、漆塗りの厨子に納められた高さ七センチの木彫りの阿弥陀如来さまと五センチの金銅製の薬師如来さまがお現れになりました。その箱には、恵心僧都源心(浄土教の基礎となった「往生要集」を著した平安時代の僧侶)の御作で、「吾レ等寂光ノ妙土ヲ出テ此ノ秋津国ニ跡ヲ垂レ熊野権現トアラワレキ尚東ノ方此ノ処ノ衆生ニ縁深キユエニ再此地ニ飛ビ来タレリ紀州熊野権現ノ分身ナリト思ヒモロビトラ崇ブベシ」と記してありました。
五十年毎の御開帳と伝えられ、平成三年に御開帳法要が盛大に執り行われました。
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