「週刊置賜」休刊に寄せて [地元のこと]
学生の時、秋の午後だったか寮のベッドでまどろむうち、ふと浮かんだのが「はぐらめい」という言葉だった。その時の気分に合っていたのでノートにメモしておいた。「週刊置賜」創刊の年の暮れ、頼まれたのか勝手に書いたのか定かではないが、はじめて稿を寄せた時、親にこんなことしてるのを知られたくないその一心で、ペンネームにした。以来、はぐらめいは「週刊置賜」とともに生きてきた。迷ったが、最後までこれで通すことにした。もう親はいないが、やはりその方が書きやすい。
「週刊置賜」の歴史は、その前史も含めて私自身の歩みと多く重なる。
市庁舎移転や近隣への相次ぐ大型店進出という危機感の中で活性化した商工会青年部会の活動を丹念に追ってくれていたのが「置賜新聞」記者時代の加藤クンだった。だから「置賜新聞」廃刊後の「週刊置賜」創刊に際しては、当時の仲間の多くが応援団になった。
加藤クンもいい仲間を持っていた。今は亡き大和久晃をリーダーに「真実を求める青年の会(SSK)」を名乗る若い一団だ。加藤クンはその兄貴分として慕われていた。
創刊間もない昭和56年5月、南陽では初めての「徳田虎雄講演会」があった。徳田さんは全国に「獅子の会」を組織して歩いていた。「南陽獅子の会」が発足した。その会に多くが合流した。「ホンネで突き合う」会だった。お互い裸の自分を曝(さら)し合った。挙句の大喧嘩も珍しくはなかった。いま思えばその後の原点だ。
「週刊置賜」の定番となる講演録。そのトップバッターが徳田さんだった。加藤クンはその表題を「月月火水木金金」とした。そこに加藤クンの決意があった。そのまま31年間突っ走った。文句なくえらいと思う。
還暦を過ぎると、将来(さき)から今の自分を見るようになる。追い立てられている自分にブレーキがかかる。自分がほんとうにやりたいことは何だったのか。別に新しいものが必要なのではない。もうそんな時間はない。それまでの蓄積からの取捨選択が始まる。「こんなはずではない」自分はもう要らなくなる。クドキクドキやることは、やめれるものならやめたほうがいい。そうしないと、いつまでもほんとうにやりたいことが見えてこない。加藤クンがこの先何を選ぶのか、期待して見守りたい。
それにしても、と11月17日号をながめながらつくづく思う。この紙面がもうなくなることを思うと、ほんとうにさびしい。
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