SSブログ

熊野霊学(2) 宗教行為の根源 [神道天行居]

熊野秀彦先生と出会って30年近くになる。その間親しく謦咳に接し、また書かれたものを拝読し、心に深く染み入らせつつ、どこか遠くからのよびかけのような感じで、受容する私自身まだまだ心もとない限りだったと思う。それが最近、熊野先生が私どもに切に訴えてやまなかったことの眼目が「真十日神身(ますかがみ)の顕現」にあることが、いはばようやくほぞ落ちするようになって、先生の文章が心の奥底までドスンドスンと納まるようになった。時代がそういう時代になったのだと思う。同じ気線同士シンクロし合っている。(「やまとをひらきていはとをひらけ」コメント欄参照)


なにより自分のためになるので、熊野先生の文章をアップさせて頂きます。


「人は自己の真十日神身の明確な自覚に基づかぬ場合、その祈願は汚濁を免れず単なる顕在意識による高次世界への、低次元の要請となり、時として魄特有の勝佐備(かちさび)の気線も含まれて、敬虔な霊的営みとしては受容されぬ宿命をもつものであります。」


「魄特有の勝佐備の気線」が世の中を覆い暗闇にしてきました。しかし、多くによってこのことが自覚されつつあります。自覚とは相対化の謂いです。光は見えています。


  *    *    *    *    *

 

◉すべての根源は自らの真十日神身の顕在化に始まる清明心の表現にあり、一切の葛藤は茲に解決す

 

新旧を問わず今の世の宗教の存在理由は、信ずる者達がそれぞれ信奉する独自の霊的指導者を通じ、神的世界への祈願により、人類の有形無形あらゆる葛藤の救済を享受することにあります。こうした祈願のための神と人とのむすびをなすウケヒの基盤は、その手法こそ異れ、各自が自らの身心の内観を深め、個人的格差はあっても、瞑想鎮魂による真我体験(自己の真十日神身の自覚)の実現に懸っているのであります。つまり三次元の我れなる意識を徹底的に否定しつつ、神の御阿礼たる真我を探求する絶ゆることの無い努力が無くては、真の意味の高次世界へのウケヒは極めて困難であります。人は自己の真十日神身の明確な自覚に基づかぬ場合、その祈願は汚濁を免れず単なる顕在意識による高次世界への、低次元の要請となり、時として魄特有の勝佐備の気線も含まれて、敬虔な霊的営みとしては受容されぬ宿命をもつものであります。悠久往古の神策により、大祓詞の修唱による地上人の身滌ぎ祓いの神秘を、上古より人間界に天降し給い、亦その根源をなす天祖と素神のウケヒの大神事(おおかむごと)が、天津神国津神の感合(いはとびらき)にはじまり、高次元に対し奉る三次元界よりの祈誓(ウケヒ やまとびらき)の開闢をなし給い、更らに錯雑混迷の現世を照す光明として、天行居信条の真髄たる「清明心(あかきこころ)の表現」となって、三次元救済が御両神のウケヒにより、成就され、亦現界のすべての根基としては、天祖の大御名奉唱に尽きて居り、更らに一点の余塵をとどめぬ大神秘が真十日神身に現前する、まことに言挙げを憚かる幽真の神恵の数々には、唯々感謝感激あるのみであります。この世の構成の一切がナギナミ二神に根源し、人類の真我たる真十日神身が、天祖(ますみ)の素神(むすび)のウケヒの合一霊象(ますかがみ)に尽きる尊容を拝するとき嗟嘆敬拝あるのみであります。この黄金に輝く赫々身(カガミ)の、この世の最勝義万古不壊の神宝につき、神界より極めて端的な人間界への具体的な御垂訓は、山上の天啓の第一項に「ひとのみちをつくしてかみにたのめ」と、御霊示になって居られるのであります。このかみにたのむ、人類の祈願行為の前段階としての、ひとのみちをつくした真我開顕の努力こそ、この現世における一切の宗教行為の根源をなすところであります。驚く可きことですが、神ながらの幽理により、小なりと雖も人が自己の本質を探究するとき、この大宇宙のすべてが次第に解明されて行き、やがてはいはとびらきに到り、大小公私に拘らず地上的顕在意識を遥かに超えた、高次元の霊啓が惜みなく齎され、有史以来未曾有の至福の時を迎えるに到るのであります。十の神訓に示されたやまとびらきとは、その第一歩が、人神の自己実現の努力であり、実にすべては真我開発による人間霊化から始まることを、現界最高の神策として霊示せられたものであります。


(このあと、友清歓真先生の「天行居夜話」「無為三年」からの引用及び熊野先生作成の図表が挿入されています。画像でアップしておきます。全部で6ページ分。左→右です。)

すべての根源は-1.jpgすべての根源は-2.jpgすべての根源は-3.jpgすべての根源は-4.jpgすべての根源は-5.jpgすべての根源は-610.jpg


古神道は現実を尊び観念の遊戯を戒めました。それは日常の想念や行為が、来世の生活を規定する産霊紋理(むすびかため)神律を深く認識していたからであります。人間の真我は光彩陸離たる真十日神身であり、この現世で魄(にくたい)の因縁性を身滌ぎ祓い因縁(ムスビ)を超出して清明(マスミ)に帰一することが有生の使命であります。産土(うぶすな)を通じて祖霊祖神の異次元に親しみ、その霊域に回帰して行く神ながらの有難き生涯であります。信条に示された現界生活の心得の実践が、そのまま言挙げなき天行(かむながら)の道であり、マスミノムスビの至極の大道であります。

 

  真十日神身(おのがみ)をさぐりまさぐりたずぬれば

                   くもにそびゆる神石城山


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 1

めい

「魄特有の勝佐備の気線」に関連して、副島重掲板より。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

   *   *   *   *   *

[1105]五欲について
投稿者:茂木
投稿日:2012-10-06 10:36:24

会員番号1149番の茂木です。
http://celadon.ivory.ne.jp

“陰謀論とは何か”副島隆彦著(幻冬舎新書)を楽しく読みました。「一般人の興味を逆手にとって、真実(本当のこと)をやさしく語りかける」という洒脱な方法で書かれた本ですが、本物の思想家・副島氏のこういった芸を理解できるのは、ここの会員といえども多くはないかもしれません。

中でも第3章と第4章は、ヨーロッパの合理思想の生い立ちを知る上で重要だと思います。初めての人も、ここまでたどり着けば、やがて真実に眼を開くチャンスがあるのではないでしょうか。ここの会員ならば既知の内容かもしれませんが、復習の意味も兼ねて、改めて読んでみてはいかがでしょうか。

第3章の中に、次の文章があります。

(引用開始)

 私はラッショナル・マインドによる思考と組み立てを、一所懸命、英語の辞書を引きながら何十年もずっと勉強してきた。それがユダヤ人的な思考にもなっていった。このラチオ、ラッショナルがどんどん極端になっていくと、greed(強欲)になってしまう。これがいけない。とにかくどんな卑劣な手段を使ってでも目的を達成するみたいになってゆく。

(引用終了)
<同書 148-149ページ>

理性的で健全なはずのratioの思想が、どうしてgreed(強欲)に至るのか。それは端的に言えば、人に備わる五欲(食・睡・排・名声・財)のうち、前の三つ(食・睡・排)が「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」による身体的欲望であるのに対して、後の二つ(名声・財)は「大脳新皮質主体の思考」によるものだからだと思われます。

このことは、会員の﨑谷博征氏のご本“グズな大脳思考 デキる内臓思考”(アスカ)にもありますから、みなさん周知のことでしょうが、復習を兼ねて書いてみます。

そもそも後者(名声・財)は、前者(食・睡・排)の身体的欲望を、人の脳が肥大化させたものです。人は、大脳新皮質を進化させて、道具を作り、計画を練り、通貨を発明し、前者(食・睡・排)の欲望をより効果的に満たす方法をいろいろと編み出してきました。その過程で生まれたのが後者(名声・財)です。

大脳新皮質主体の思考は、本来「公的(Public)」なものの筈です。そもそもこの機能は、集団の(欲望充足の)利便性を上げるために発達してきたのですから。しかし、社会の発展に連れて、これを私的(Private)な欲望充足に用いる悪賢い輩がでてきます。

脳幹・大脳旧皮質主体の思考は、身体的欲望が収まってしまえばそれで一旦終わりますが、大脳新皮質主体の思考は、身体的束縛を受けにくいところがあります。ratioという単語が「比率」をも意味するように、この思考過程は、身体を離れてどんどん飛躍・増殖します。自動操縦ロケットのように止まることを知りません。

ヒトとは本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」のはずですが、大脳新皮質主体の思考を私的(Private)な欲望充足のみに用いていると、名声欲と財欲とが果てし無く増殖し、ヒトは「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」となってしまうわけです。

by めい (2012-10-09 05:16) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。