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吉本隆明による「宮沢賢治論」 [吉本隆明]

毎年辞令交付式の後、1時間ぐらい時間を与えられて話すことになっています。先ごろ卒園文集に寄せた「モモ」について語ろうと思っていたのですが、このところ吉本にはまってしまっているので、この題になりました。そのレジュメです。今日の午前に語ってきたところです。

≪≫内は「賢治文学におけるユートピア」(『国文学』昭和53年2月号)と『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)からの引用です。

   *   *   *   *   *

 吉本隆明による「宮沢賢治論」

ほんとうの<善意>とは

「よだかの星」

(一たい僕ぼくは、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)



 軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
 ・・・
 事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはゐましたが、眼などは中に銅線が幾重も張つてあるかのやうに、じつに立派にできてゐました。
 さてその部下の一番書記は白猫でした、二番書記は虎猫でした、三番書記は三毛猫でした、四番書記はかま猫でした。
 かま猫といふのは、これは生れ付きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはひつてねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、殊に鼻と耳にはまつくろにすみがついて、何だか狸のやうな猫のことを云ふのです。ですからかま猫はほかの猫には嫌はれます。 

四番書記のかま猫は、上の方の三人の書記からひどく憎まれてゐましたし、ことに三番書記の三毛猫は、このかま猫の仕事をじぶんがやつて見たくてたまらなくなつたのです。かま猫は、何とかみんなによく思はれようといろいろ工夫をしましたが、どうもかへつていけませんでした。

 かま猫はあたりまへの猫にならうと何べん竈の外にねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしやみが出てたまらないので、やつぱり仕方なく竈のなかに入るのでした。
 なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかといふに、それは土用に生れたからです。やつぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かま猫は考へて、なみだをまん円な眼一杯にためました。
 けれども事務長さんがあんなに親切にして下さる、それにかま猫仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこぶのだ、どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞと、かま猫は泣きながら、にぎりこぶしを握りました。

 ところがその事務長も、あてにならなくなりました。それは猫なんていふものは、賢いやうでばかなものです。ある時、かま猫は運わるく風邪を引いて、足のつけねを椀のやうに腫らし、どうしても歩けませんでしたから、たうとう一日やすんでしまひました。かま猫のもがきやうといつたらありません。泣いて泣いて泣きました。

 さて次の日です。
 かま猫は、やつと足のはれが、ひいたので、よろこんで朝早く、ごうごう風の吹くなかを事務所へ来ました。するといつも来るとすぐ表紙を撫でて見るほど大切な自分の原簿が、自分の机の上からなくなつて、向ふ隣り三つの机に分けてあります。
「ああ、昨日は忙がしかつたんだな、」かま猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独りごとしました。

 事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になつて、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらつとこつちを見るだけで、たゞ一ことも云ひません。

 そしておひるになりました。かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。

 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。

 獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩きはひつて来ました。猫どもの愕ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。

 獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」

 かうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。
 
 「イジメラレテイルモノ、ナイガシロニサレテイルモノガ示ス歯牙ニモカケラレナイヨウナ善意デナケレバ善意トシテノ意味ガナイ」

≪あくまでも弱小なもの、さげすまれているものの<善意>や<無償>でなければ意味がないということだ。あるいは<善意>や<無償>の行為は、行為するものが弱小であり、ないがしろにされているときにだけ均整がとれるものだという思想だといいかえてもよい。≫
≪宮沢賢治が関心をよせ救いを願い、じぶんもまたその場所にゆき、それらとおなじでありたいとおもったのも、そういう存在だった。≫
 
 ほんとうの<善意>にであったとき
 

「はっはっは、山男が薪をお前に持って来てくれたのだ。俺はまたさっきの団子屋にやるということだろうと思っていた。山男もずいぶん賢いもんだな」
 亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進みましたが、忽ち何かに滑ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗の実でした。亮二は起きあがって叫びました。
「おじいさん、山男は栗も持って来たよ」
 お爺さんもびっくりして言いました。
「栗まで持って来たのか。こんなに貰うわけにはいかない。今度何か山へ持って行って置いて来よう。一番着物がよかろうな」
 亮二はなんだか、山男がかあいそうで泣きたいようなへんな気もちになりました。
「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな」
「うん、今度夜具を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」
 亮二は叫びました。
「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ」
 おじいさんは消えたランプを取りあげて、
「うん、そういういいものあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから」と言いながら、家の中にはいりました。
 亮二はだまって青い斜めなお月さまをながめました。
 風が山の方で、ごうっと鳴っております。
 
≪この山男にある善意は、(「なめとこ山の熊」のような)「死」に媒介されているある「ほんたう」の絶対的な善意なのとおなじように「存在」あるいは「生」に直接的根源的につながった善意だ。これだけの量こうされたから、こうこれだけの量むくいようという互酬ではない。≫
≪山男の存在(生)のおくそこから、おろおろしたとまどいといっしょにでてくる善意に、亮二のほうも、たんに村のしきたりや、人間関係になれないから山男が、見当つかずに、よけいなほどの善意を贈与してしまったと解釈せずに、やはりある絶対的な善意をかえさなければとかんがえる。そしてそれをあらわす方法がなくておろおろしてしまう。ここで山男と亮二のあいだで交換されている感受性の世界は、宮沢賢治の作品をつらぬいている本質的な特異さで、かれが「ほんたう」の善意だとかんがえていたものに触れている。≫
 

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。
 
 ≪鳥を捕る人のようにふつうの平凡な善い人にたいして、それを照りかえしたような軽いあなどりが無意識にこころのなかに生じるのは、ごくありふれたことのはずだ。だが作者のなかにある「ほんたう」の感受性では、この無意識の軽いあなどりは、ただのこころの反映で、いちばんあってはならない感受性なのだ。この敏感な極微のこころの揺れを言葉のピンにとめていることは、宮沢作品の芸術的な本質である。≫
≪宮沢賢治じしんの思いこみでは、むしろ作品の本質の本質つまり作品の理念は、ここで片鱗をあらわしている「この人のほんたうの幸になるなら」というばあいの「ほんたう」の構造にあった。「ほんたうの幸」、「ほんたうのひかり」、「ほんたうの力」というような言葉で繰りかえし作品にあらわれる作者じしんの情熱、熱弁、懐疑と追及とに、じしんの生涯をつぶす思想があると、かれはみなしていた。≫
 

次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし、一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいいと思いました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしている娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。

≪これらはどれも「祭の晩」の山男や「銀河鉄道の夜」の鳥捕りのような何でもない人への無限のへりくだりや、敬愛や、献身の気持とおなじ構造をもっている。何でもない人とはなにか。宮沢賢治によれば無意識のうちに無欲の人であり、善をなしている人であり、献身している人であり、慈悲を施している人である。逆ないい方をしてもいい。善をしても、献身していても、慈悲を施していても、無欲であっても、そのことに気づいていない無意識の行為の人である。宮沢賢治には、こういう何でもない人には、そのためにどんな利益を施し、善をあたえ、慈悲をもって接し、献身したりしても、しすぎたりつりあったりすることはないとみられた。≫
 
ミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ 

≪生涯のうちに、じぶんと職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。ここに「自立」主義の基盤がある。≫(「日本のナショナリズム」昭和39年)
 
知識があるとか、ものが書けるとかでえらいと思うのは大間違い、日常当面する問題についてしか考えないふつうの人(<大衆>)にはとうていかなわない、というのです。
 
吉本にとっての<大衆>は、決してその時その時の欲求に流されて漂うような存在ではありません。『初期ノート』にこんな言葉があります。
 
≪倫理とは言はば存在することのなかにある核の如きものである。・・・それは言ひかへれば人間の存在が喚起する核である。≫(『初期ノート』形而上学についてのノート)
(吉本は存在理由を外部にもつ<道徳>と、存在そのものの核たるべき<倫理>を峻別します。たいせつなのは<倫理>です。この文章の後、「道徳的なものを倫理的と呼ぶのは悪しき俗化と言ふことが出来る」といっています。) 
 
人間は互いに関わりあって生きている以上、根底には「お互いよかれ」の気持がごくあたりまえのこととして存在します。吉本にとっての理念としての大衆、すなわち<大衆の原像>とは、そうしたあたりまえをあたりまえのこととして生きている、そのことでホメラレることを求めもしなければクニモサレることもない、あたりまえの人たちです。吉本はそうした境涯を目指しました。吉本は宮沢賢治によってその導きを得たのではないでしょうか。
 
 
 

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めい

吉本のほんとうの読者の追悼の言葉です。
依田圭一郎さんという方のブログ『初期ノート』解説からです。
http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20120324

   *   *   *   *   *

2012-03-24
≪言い慣らされてゐる言葉のやうに僕もやはり有りふれた言葉をつげよう。再び出遇はない星に対しては〈アデユ〉を、また遇ふべき星に対しては〈ルヴアル〉を用ひて。≫(エリアンの感想の断片)

吉本隆明が亡くなった。3月16日の金曜日だそうだ。私が働いているデイサービスの近所の日本医科大学病院に入院していてそこで亡くなったらしい。なにも知らなかった。
吉本さんが亡くなったと知ったのは18日の日曜で副島隆彦の学問道場というホームページの副島隆彦の追悼の文章で知った。一瞬動揺した。吉本さんの思想が生み出されない世界が始まるということに動揺したのだと思う。しかしどうなるものでもない。
わたくし事だが昨日高校時代の友人が昨年末に亡くなっていたということを知った。私は彼をちゃん付けで呼んでいたが、成人になってもちゃん付けで呼んでいたのは彼ともう一人の小学校時代からの友人だけだった。そして二人とも亡くなってしまった。
吉本さんの死とその友人の死で自分のなかの何かが落っこちてしまったような気がする。しかしどうなるものでもない。
吉本隆明の死に対して一読者としての私が言う言葉を探してみたが、心から言えるのはやはり「ありがとうございました」という感謝だと思った。吉本の表現や思想に出会えなかったら、どんなにか生きづらかっただろうとほんとに思う。いや生きづらいのは同じかもしれないが、現実に対して考えるという構えを持つことができるということが、心の苦しみとしては半分解決したようなものだ。その考える構えをもつことを吉本隆明に教わった。吉本が考えたことを追うときに、考えるということが自分を取り巻く社会に対しても、もっと大きく歴史や文化に対しても、また自分の処世の卑小なさまざまな悩みや疑問に対しても、家族や男女の苦しみや喜びに対しても、そしてもっと自分の内奥の心や身体につきまとう不可解さに対しても浸透していくことが分かった。これは吉本さん自身の根本的な感覚なんじゃないかと思うが、自分という存在が赤ん坊のように不可思議な環界にぽつんといて、環界のすべてが異和であるという感覚である。その不可思議な環界はすべて等価に考える対象とならざるをえない。ひとりでゼロから考えるように考えることをせざるをえない。学問の対象だから考えるとか、仕事の対象だから考えるとか、時代の思潮だから考えるということではない。生きていること自体が異和を感じさせてしょうがないからいつのまにか考えているというような感じだ。吉本の本を読むときにだけそういう赤ん坊のようなぽつんとしたあてどのなさに触れることがある。きっとそれが私という一読者の心を癒した。そして自分の根底にある感覚を基にして考えることをすることをするようになったと思う。それがたぶん「自立」ということだ。私は凡庸なにんげんに過ぎないし、吉本の思想にも誤りはあるであろう。しかしそのことはさほど問題ではない。自分を基にして考えることができるという構えを身につけることの重要さに比べればだ。
副島隆彦の追悼文は優れたもので、学問道場というホームページの「重たい掲示板」というところに述べられているから興味のある方は読んでみてください。これが政治的知識人であり、一文筆家、一大衆という立場を守っていくたびも社会現実に立ち向かい敗北を繰返した吉本隆明の姿を描いた一級の文章だと思う。ただ私には政治的知識人であった吉本を描く資格はない。それができるのは政治的支配層から忌避されいじめられ冷飯を喰わされ続けるほど影響力のある政治的な主張を貫いた人物だけだと思う。この世にはそんなにんげんもいる。
昨年の福島の原発事故についての吉本の主張が最後の吉本の社会的主張になったのではないかと思う。それについては前に書いたので触れないが、さすがに吉本の主張の正しさと一貫性は各種の原発論議のなかで群を抜いていた。吉本隆明は思想的に衰えることなく、にじるように這うように進み続けてその人生を終えた。そのことがとても大きい。こういう人生があるのだということを同時代に体験できたことが一読者としての私にとっての宝ものだと思う。その原発問題の主張が載っていた週刊誌で吉本はたしか「原個人」という概念を使っていたと思う。「個」という言葉は吉本がよく使ってきた用語だが、原個人というのは新たに用いた造語だと思う。原個人というのは、その人の育ちや生き様や個人的な感覚のすべてがこもったような個人の概念だと思う。そこに立ちかえって考えることの重要さを語っていた。それがつまり自立という概念なんだと思う。私はなんとなく吉本がいいたかったことがわかる。私の仕事であるデイサービスのなかで下町のおじいさんやおばあさんがやってくる。しわのなかにシミのなかに長い人生がしみこんだような人たちだ。こうした人たちは原個人というような気風をもっている。しかしそんなおじいさんたちおばあさんたちが語ることがすべて原個人的であるわけではない。(それはテレビや新聞で支配層が植えつけた考えにすぎないよ)と思うような考えを述べたりもする。もしもいつかこの世界がましになるとすれば、こうしたおじいさんおばあさんが語るこの世界のすべてに原個人というものが生き生きと投影される世界になることだと思う。吉本はそうした世界を生み出すながいながいたたかいの中で前を向いたまま倒れたのだ。それはかって吉本が賞賛した夏目漱石の生き様と同じものだった。
あ、そうか初期ノートの解説だったんだよね。しまった。アデユというのはフランス語で「さよなら」でしょう。それは知ってるけどルヴァルというのは知らない。たぶん「またね」みたいなことじゃなでしょうか。まあこれはロックの歌手が「イェー」とか「ベイベー」とかいうのと同じで外国語がカッコイイと思ってるんだよな。若いんだからしょうがない。
「母型論」を書く余裕がなくなってしまった。まあでもまた書いてみたいと思います。吉本の思想の展開をもう読めなくなったというのはとても悲しいことだけど、吉本が残してくれた存在の感覚が自分にあるうちは考えることができるはずだから。吉本隆明さん、ありがとうございました。安らかに。
by めい (2012-04-04 15:58) 

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