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追悼・吉本隆明さん(5) 「ほんたうのほんたう」の到達点 [吉本隆明]

1回目を読んだ友人が「何を書いているのかわからない」と言っていると、別の友人を通して聞こえてきた。私が40年近く前この地に戻ってから行動を共にすることの多かったごく親しい友人の言葉だ。考えてみて、吉本のことなどこの地で話題にしたことは一度もなかったことに気づいた。そもそも、学生時代吉本を知ってからだれかと吉本について語り合ったことなどあったろうか。

25年前東京品川のウォーター・フロントにある倉庫で行われた「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」と題するイベントに、もう吉本とのつきあいも卒業、その前に一度生の話を聞いておきたい、そんな気持ちで参加した。そこで何が話されたかはあまり記憶にない。当時引退中の都はるみさんが中上健次さんと一緒に出てきて、アカペラでアンコ椿を熱唱してくれたのを聴いて、来てよかった、得したと思った。終わって帰途、みんなひとりづつで、誰も何の会話もなくただ黙々と駅に向かう様子がなにか異様だった。私もその中のひとりだった。吉本という人はこういう人たちに支持されているんだなあとあらためて思ったことだった。
 
本来吉本思想は<秩序>に立ち向かう思想だった。というよりむしろ、世の<秩序>に服(まつろ)えない自己にこだわり続ける思想だった、と言った方がいい。『転位のための十篇』の「廃人の歌」の中に「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせる」という言葉がある。私は吉本思想の第一原理は「個人幻想は共同幻想と逆立する」だと思う。吉本体験はこの個人幻想のレベル(自分で自分にどう折り合いをつけるか)での問題である。あえて表に出して波風立てることもない。吉本体験なんぞはしまっておいてそのまま墓場までもってゆけばそれはそれでちょんのはずだった。吉本の思想と本気で関わった人の多くはそうして心のうちに閉じ込めておいたのではなかったか。「世の中に受け入れられない」、そのはみ出し部分で吉本に共感していたのだから。

ところが、吉本の生が完結したとたんに、<秩序>そのもののような大マスコミが大きく取り上げだした。ネットでは好悪とりまぜた吉本評価が行き交う。いったい自分にとって吉本とは何だったのか。なぜかいたたまれない気持になって置賜タイムスに電話した。「おとしまえをつけたい、書かせてくれ」と頼んだ。「おとしまえ」とは、ネットでの評価に対してでもあったが、もう遠くなっていたはずの吉本に対するものでもあった。ほんとに決着のつもりだった。

数十年ぶりに吉本にのめりこんでみると決着どころか、吉本とのつきあいはまだまだこれからであることに気づかされた。だいいち、まだ読んでない吉本本の山を見よ。何本も線を引いて読んだ本にしてもいったいどれだけわかっているのか。

たまたま宮沢賢治から入ってみた。その豊饒さにいまさらながら驚いた。必要あってレジュメをつくってみたのだが、吉本が掴んでいるもののうちどれだけ掴みきっているか心もとない。目の前には気に満ちた鬱勃たる森がある。

だれとも話したことがなかった吉本について、他人に読んでもらう目的で書くことを通して、私の中で圧し込められていた吉本的なものが解放されたようだ。これはおそらく私だけに起こっていることではない。吉本はその思想のうちに、起爆の装置を仕込んで置いたのかもしれない。吉本の死とともに、日本中のあちこちでそれらが次々に作動し火が噴きだしつつあるのではないだろうか。そんな気がする。その向かう先は<精神の自由>である。ただし、<精神の自由>とは何でもありの闇雲なものではない。宮沢賢治が言う「ほんたうのほんたう」を求める心だ。吉本が最も忌避する<党派性>、すなわち「自分たちだけにとってのほんとう」を超えた「ほんとうのほんとう」。

≪「ほんたうの幸」、「ほんたうのひかり」、「ほんたうの力」というような言葉で繰りかえし作品にあらわれる作者じしんの情熱、熱弁、懐疑と追及とに、じしんの生涯をつぶす思想があると、かれはみなしていた。≫

賢治はそのために生涯を懸けていたと吉本は見た。その吉本も、そのために一生をささげた先達者だった。
(糸井重里的感覚では吉本をとらえきれないとする世川行介さんの論を支持する) 

・・・・・・・・・・・・・・

と、賢治と吉本の威に圧されつつ、いささか肩肘張って書いてみたが、最後に、娘のばななさんとの対談での発言を紹介して、追悼に名を借りた、私の心の整理のための文章を閉じさせていただきます。「ほんたうのほんたう」のとどのつまりです。

≪・・・残念なことに、どうも俺は鷗外・漱石に比べたら平凡な物書きに終わりそうだな・・・傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。・・・それ以上のことはないんです。・・・それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わかりますよ。・・・一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだけは間違いないことだから。(2010.6.4)≫(「書くことと生きることは同じじゃないか」『新潮』平成22年10月号)    <完>
 
   *   *   *   *   *
 
というわけで、「週刊置賜」に掲載させていただいている文章です。 

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めい

ばななさんが、全集発刊に寄せて、とっておきの吉本さんをご披露されています。ほんとうに「いい人」だったんだなあということがわかります。
http://www.yoshimototakaaki.com/yoshimoto_banana.html

   *   *   *   *   *

父と全集
よしもとばなな
 父にとって考えることと仕事をすることは呼吸のようなものであり、日々の挑戦であり、唯一の憩いであった。
 父は玄関先に急に読者さんがいらしても決して断ることなくお茶を出し、いつまでも話を聞いた。晩年足が痛くても、糖尿病で親指が氷みたいに冷えていても、寒い玄関で立ってずっと話していた。
 精神的に病んだ人がいれば「もし本気でずっとその人だけにかかりっきりになれたら、治るかもしれないんだけどねえ」と言った。幼い私が「どうしてそうしてあげられないの?」と聞いたら「なかなかそこまではできないもんだねえ」と答えた。
 「お前とか娘とかの成功が憎い、末代までたたってやる」という人がいれば、「こんなことまで言う人がこの世にいるなんていやあ、驚いた」と本気でびっくりしていた。
 散歩と買い物と夏に海に一週間行くことと二時間ドラマを観る以外には特に娯楽もなく、ほとんど旅行もせず、女遊びもしないし教授にもならないし、酒にもグルメにも興味がなかった父。
 家からお金がなくなったときに出入りの人の名を出したら「人を疑うくらいならお金なんてなくなったほうがいい」ときっぱり言った父。
 病院で高熱を出し死の床にいても「支払いのことで心配があったら俺に言ってくれよ」と何回も言っていた父。自分の容態については一度も泣き言を言わず「お母ちゃんはどうした、お姉ちゃんは大丈夫か」と家族の心配ばかりしていた。
 これほど人を救った人の望みが叶わないはずがないと心から信じていたが、この不況の時代に全集を出そうという出版社はなかった。
 晩年、ぼけて仕事が思うようにできなくなった父が、弱々しい笑顔で「間宮さん(この全集の目次を編んだ編集者さん)の目次はほんとうに考え抜かれていて感心したよ。出せたらほんとうに嬉しいけれど、今の時代はそんなに甘くないからねえ」と言った。
 そんなことはない、必ず出る、今じゃないかもしれないけれど、必ず残るよ、と姉と私と間宮さんはくり返し父に言い続けた。父は淋しそうに「むつかしいと思うねえ」と言い続けるばかりだった。
 お父さん、社長の太田さんや晶文社のみなさんや間宮さんが、死にものぐるいで作ってくれているよ、やっぱり出るよ。いつか私が死んだら、真っ先にそれを父に言いに行こう。いや、必ずもう届いているはずだ。 


by めい (2014-06-05 04:29) 

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