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日中親善の魁け―宮島誠一郎、宮島大八親子 [宮島詠士]

明治から昭和の時代、日中親善の魁けとなった宮島誠一郎、宮島大八(詠士)という親子がある。米沢生れ。宮島誠一郎は戊辰戦争に際して戦争回避に向けて奔走し、後に「興亜会」を設立した。その次男大八は中国に渡り書法家張廉卿に師事。帰国後中国語塾善隣書院を開き、院長として日中親善のために尽くした。生家がわが家の菩提寺の隣りで、すぐそばの高校に通っていた私が3ヶ月ばかりそのお寺に下宿していたことがある。その当時江戸期以来の茅葺の家がそのまま残っていた。昨年、上杉博物館で「宮島家三代―激動の中の宮島家―」企画展が開催された。その図録から転載させていただく。

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 宮島家は米沢藩の五十騎組に属する中級武士の家柄である。詠士の祖父一郎左衛門吉利は、米沢藩の『諸士略系譜』の記述によると、文化七年(一八一〇)九月に家督を相続している。二ケ月前の父吉弥の死によるものだが、死去年から逆算して、わずか四歳である。文化七年の米沢は、藩政改革を成功に導いたことで名高い九代藩主上杉鷹山の晩年である。さまざまな改革が次第に実を挙げ、財政困難の最悪から脱した頃である。吉利が祐筆の役職についたのは天保一四年(一人四三)、三七歳ということになる。その後の役職歴と昇給からは、米沢藩の有能な役人であったことが推測される。江戸詰と国元米沢でほぼ一年ごと勤めている。文久三年(一人六三)には、一二代米沢藩主上杉斉憲が上洛するのに供奉している。江戸幕府崩壊への時の流れとともに米沢藩の舵取りの難しさ、その渦中にある息子誠一郎の活躍と新政府における栄達をどのように見守ったのであろうか。明治九年(一人七六)の詩からは、古稀を迎えた一瓢が膝にまとわりつく孫たちに目を細め、わずかな酒を楽しむ好々爺の姿を連想させる。また、七三歳の和歌からは激動の時代を生き抜いた感慨が伝わる。一瓢は明治二二年(一八八〇)一二月に死去した。誠一郎四三歳。詠士一四歳。

吉利(一瓢)の長男誠一郎は、天保九年(一人三人)七月に生まれた。四歳で唐詩を暗唱し、一四歳の時、藩主上杉斉憲の前で史記を読んだという秀才である。一〇歳の時から藩校輿譲館に入り四書五経、史記や漢書等を学んでいる。二七歳の時、興譲館寄塾生となり、慶応三年(一八六七)三〇歳で興譲館定詰勤学生となった。これは藩の俊秀二〇人で、通学生たちを指導する立場となったのでる。                    
 これに先立つ文久三年、公武合体と攘夷の立場から将軍徳川家茂が上洛を表明したのに対し、将軍家への忠誠を示すため供奉を願いでた藩主上杉斉憲の上洛に、二六歳の誠一郎も祐筆の父に同行して上洛し、約一〇ヶ月の滞在中、各藩の学者や識者と親交を結んでいる。京都での米沢藩の宿舎は、初め清水寺本坊の成就院、後に東本願寺の学寮であったが、藩士たちはそのほか周辺の寺や旅館に分宿していた。
 慶応三年一〇月一四日、徳川慶喜は大政を奉還し、十二月九日、王政復古の大号令で全国諸藩に「上洛」命令が出された。続いて幕府から「上坂」を促す徴文が届いた。非戦派の誠一郎や上司の甘槽継成は上坂には反対であり、奉行(国家老)千坂太郎左衛門も積極的ではなかったが、藩主上杉斉憲の、徳川家への信義論が優先して翌慶応四年(一八六八)元旦、米沢藩の上坂が決定したのである。慶応三年は誠一郎の私生活においても悲喜こもごもの一年だったのではないだろうか。一月に長男元次郎が亡くなり、三月には前述のごとく、自身が興譲館走詰勤学生となつた。一〇月、父吉利が隠居して誠一郎は家督を相続したのである。同月には大八(詠士)が誕生した。結局、慶応四年一月一五日、上杉斉憲は米沢藩将兵三〇〇〇余名を率いて出発したが、福島で大坂落城の報
を受け全軍引き上げとなつた。藩首脳部の優柔不断ぶりに誠一郎は「鳴呼米沢モ最早有人材ハ無之哉。御先祖様ノ御武威、鷹山公ノ御文徳モ相
尽キ侯哉。」(『戊辰日記』)と嘆くのである。一月二〇日、誠一郎は上洛する千坂太郎左衛門高雅に探索方として同行を命じられた。会津藩と薩長両藩の面目が立ち東北が収まるよう誠一郎は三条実美の家臣森寺大和守、参議広沢真臣や土佐藩士らに会い解決のために奔走した。閏四月四日、広沢から会津藩の説得を奥羽列藩に任せる旨の言を得て、四月一八日米沢に帰着した。色部長門、毛利上総、千坂太郎左衛門の三家老をはじめとする重臣たちに報告ののちただちに白石会議に参加した。
 白石には藩主上杉斉憲、首席家老竹俣美作らが出向いていた。東奔西走の日々である。しかしながら、奥羽鎮撫総督九条通孝により、会津降伏嘆願書、奥羽越列藩重臣嘆願書は却下され、長州参謀の世良修蔵が暗殺されるなど誠一郎の願う平和的な解決は遠のく事態になっていった。五月三日、奥羽列藩同盟が成立し、同盟は北越の諸藩にも参加を働きかけた。戦火は奥羽越の各地に広がっていった。同盟は建白書を京都の太政官に提出することを決定し、正使に坂英力(仙台藩)、庄田総五郎(米沢藩)、誠一郎は米沢藩の副使に選ばれた。
 塩釜から船で江戸に向かったが、品川沖には榎本武揚が率いる幕府の軍艦「開陽」や「回天」など健在であった。さらに京都まで上るのは困難であると正使二名は仙台に引きあげたが、誠一郎は仙台藩の副使とともに勝海舟を訪ね、嘆願書の不備を添削してもらい、上洛の便宜をはかってもらっている。土佐藩主山内容堂を経て建白書を朝廷に提出することができたのである。七月一日、弟猪吉(小森沢政端)が岩城で戦死した知らせを誠一郎は福島で受けている。父吉利にとっても悲痛なことであったのだろう。日記の筆もしばらく止まっている。仙台藩伊達慶邦とともに同盟の盟主でありながら、藩主夫人や上杉鷹山の生家である、浅野家、山内家、秋月家などの勧めもあっていち早く新政府軍に恭順の意を示した米沢藩に対する世情の悪評を誠一郎は十分に理解していた。
しかし、藩の首脳部には寛大な処分を願って函館五稜郭の榎本軍を攻めようとする意見もあって、再び誠一郎を嘆かせる。この安易な判断は世に通じるものではなく、結局、誠一郎の発言による米沢藩が奥羽諸藩の罪を一身に受ける「奥羽有罪在一身」の建白書が上呈されたのである。この建白書の影響は定かではないが、米沢藩は四万石削封、藩主斉憲の隠居と嫡子茂憲の家督相続が命じられるという処分で、戊辰戦争を終結した。
 誠一郎は、版籍奉還という米沢藩が消滅してしまう新政府の政策にも積極的であったし、新政府に合流し、その政策を積極的に推進した。米沢藩の名称がなくなっても、それが米沢の名誉を挽回し、明治国家の中で生き残っていく道だと考えていたからである。「奥羽有罪在一身」の建白書もその前提にあったのである。誠一郎は、米沢と旧藩主上杉家のために尽力しつつ、中央政府の中にあって国家を考える立場になる。誠一郎は、左院・修史館・参事院・宮内省に奉職、明治二九年(一八九六)に貴族院議員に勅撰された。左院少議官時代に、薩摩出身の伊地知正治の下にあって、「国憲を立つるの議」 (「立国憲議」)を提出した。憲法制定の必要を説いた、日本の民主政治の先駆をなすものである。その間、明治一二年(一八七九)、内務卿大久保利通と清国公債何如埠との発案によって、東亜振興を目的に「振亜会」(翌年「興亜会」と改称)を設立し、中心人物として運営にあたった。会の事業として、中国語教育を目的とする「興亜学校」 が設立され、息子詠士も学んでいる。興亜学校は、明治一五年(一八八二)、東京外語学校に吸収統合されたが、その精神は後に詠士が設立した「善隣書院」 に引き継がれた。
 宮島誠一郎の資料は、現在その多くを早稲田大学と国立国会図書館が所有する。それらによって、戊辰戦争について、あるいは憲政史の研究などさまざまな角度からの研究が進んでいる。このたび当館が所蔵することになった資料も今後の研究の一助になるであろう。

 誠一郎の次男、大八のちの詠士は慶応三年(一八六七)一〇月に生まれた。翌慶応四年は明治と改元される激動の時代真っ只中の生誕である。父誠一郎は三〇歳。前述のごとく混迷する米沢藩の収拾にあたっていた。明治四年(一八七一)、五歳の詠士は父母とともに上京した。父誠一郎の薫陶はもとより勝海舟や、清国公使何如嘩とともに来日した書記官貴遵憲に指導を受け、興亜学校に入学するなど、父の人脈やその世界の影響を大きく受けることとなる。興亜学校は明治一五年(一八八二)東京外語学校に合併されたので転学して一七年(一八八四)に卒業した。同級生に川島浪速がいた。清国粛由王の娘で当時男装の麗人として話題となった川島芳子の養父として知られた人物である。川島芳子は太平洋戦争において日本軍に協力したことにより終戦後処刑された。
 詠士は一七歳の時、靖国公使黎庶昌が父誠一郎に贈った曾国藩の門下張廉卿の書幅に感動し、入門の志を立てたという。張廉卿(裕しょう一八二三~一人九四、廉卿は号)は清朝末期に活躍した儒学の大学者である。詩文に優れ、書は漢魏六朝の諸碑の研究により碑学を大成し、その鋭さを紙に表現するという書風を確立した。明治二〇年(一八八七)二一歳の詠士は、清国保定の勘脚部駁の山長(学長)であった張廉卿に入門した。二度の渡清によって張廉卿の学恩をこうむったが、明治二七年(一人九四)二月に師張廉卿が死去し、同年七月に日清戦争が勃発して悲嘆のうちに帰国した。誠一郎の子供は七男七女で娘の夫のほとんどは海軍の軍人である。詠士の義兄弟は日清戦争に参戦しているという状況にあった。
 帰国後の詠士は、東京帝国大学、東京外国語学校で教鞭をとったが、四・五年にして辞任、明治二八年(一八九五)平河町の自宅に学舎を設け「詠帰舎」と命名して中国語を教えた。明治三一年(一人九人)、学舎を平河天神脇に移して「善隣書院」と改称し、さらに明治三九年(一九〇六)九月、紀尾井町に善隣書院新校舎を建設、教育者として人材の育成につとめた。詠士は昭和一人年(一九四三)、七七歳で亡くなった。宮島吉利・誠一郎・詠士の墓所は東京の青山墓地、宮島家の菩提寺は米沢市内信光寺である。

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ここで二人を紹介しようという気持ちになったのは、森田実氏の次の文を読んだことによる。

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2006.3.26
2006年森田実政治日誌[159]

二階俊博経済産業相の主張は正しい。アジアの平和を守るために二階経産相を支持しよう!
産経新聞は二階経産相に関する不公正な報道姿勢を改めよ

「春秋の筆法」(日本の諺)
[儒教の経典『春秋』における孔子の批判のように、公平で厳正な批判的態度をさす。新聞記者には「春秋の筆法」の精神を学んでほしいと思う]
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 産経新聞の政治記事は、ある種の右翼的イデオロギーに貫かれている。そのイデオロギーとは「反中国主義イデオロギー」である。産経新聞は、日本が中国と戦争することを望んでいるようである。産経新聞は少なくとも、力ずくで中国を抑えようとする姿勢をとっている。

 産経新聞についてここで論ずるのは「反中国主義イデオロギー」を批判するためではない(これは改めて行う)。私が問題にしたいのは、産経新聞記事の中にある「不公正」「卑しさ」「ケチくささ」のことである。 二階俊博経済産業相は中国との間の懸案である「ガス田」問題を、平和的交渉で解決しようとしている。これは当然のことである。これは正しい考えである。日本政府としてはこれ以外の方法はない。
 これに対して、麻生外相は、二階経産相と異なり強硬策を主張し「対抗措置」について発言している。 二階経産相は3月19日(日)のフジテレビにおいてこの麻生発言を批判した。この模様を東京新聞は3月20日朝刊で次のように報道した。
 《ガス田問題発言 「外相は慎重に」 二階経産相が批判
 二階俊博経済産業相は十九日のフジテレビの番組で、東シナ海ガス田開発の日中協議に絡み、麻生太郎外相が対抗措置の検討を表明したことについて「外相は慎重にやらないといけない。強硬にやるのが好きならば、中国に行って強硬にやればいい」と述べ、外相を改めて批判した。
 二階氏は「政治を担当している人は、(日中両国が)話し合いのテーブルに着くようにしなければならない」と強調した。》

 私はフジテレビを見ていたが、この記事は正確である。
 ところが一部の新聞は二階氏のイメージダウンを図るようなねじ曲げた記事の書き方をしている。たとえば3月20日の日本経済新聞は、記事の中で、二階経産相について、わざわざ「中国とのパイプが厚い二階氏…」という表現を付け加えている。実は、新聞記者は、特定の政治家のイメージダウンを図るため、一般の人にはわかりにくい方法で、さりげなく形容詞を加える。これを何回も何回も徹底的に繰り返すことによって、その政治家のイメージダウンを図るのである。一般の人が気づかない方法で、やるのである。
 二階経産相の「交渉による解決」との主張は、同氏の平和主義の信念にもとづくものである。ところが、日本経済新聞記者は「中国とのパイプが厚い」との余計な一言を付け加えることによって、二階経産相があたかも中国政府との相談の上で「交渉による解決」を主張しているような印象を国民に与えようとしているのである。
 新聞記者のこの種の嫌らしいやり方は、読者から繰り返し批判を受けてきたことである。記事は、公正に、誤解を受けないように書くべきである。こういう嫌らしいことはやめるべきである。

 ひどいのは産経新聞3月20日朝刊である。まず見出しが偏向している。
 〈東シナ海ガス田 波紋呼ぶ対中配慮 二階氏/強硬・麻生氏を批判〉の見出しを4段抜きで掲載した。メーンは「波紋呼ぶ対中配慮」という見出しである。繰り返すが、二階氏の発言は、二階氏の「日本は中国と対立してはならない」との信念にもとづくものであり、「対中配慮」というような次元で論ずるのは正しくない。二階経産相は日本の国益を考えて行動している。「日本の国益配慮」であっても「対中配慮」ではないのだ。産経新聞は「対中配慮」という間違った表現によって二階氏のイメージダウンを図ろうとしているとみなければならない。
 産経新聞3月21日朝刊の記事の中に、次のような表現がある。
 《(二階氏について)政府・与党内からは中国側に配慮しすぎではないかとの声が上がっている。》
 《二階氏は「指折りの親中派」(与党幹部)として知られ…」》
 《「親中派として中国に乗り込んだはずの二階氏だったが、顔に泥を塗られた」(日中関係筋)という状況だ。》
 《外務省内には「二階氏は先の訪中で、試掘はしないととられかねない言質を中国に与えてしまったのではないか」(幹部)との懸念さえ出ている。》
 これらの記事の書き方は、責任ある大新聞がしてはならないことばかりである。嫌らしい表現ばかりである。第一に「政府・与党内」とか、「与党幹部」とか「日中関係者」とか「幹部」といったような、曖昧で無責任な表現ばかりである。大新聞なら、発言の主を明らかにすべきである。
 あまりにもアンフェアな表現ばかりである。繰り返すが、このようなやり方は、嫌らしい、悪い新聞記者の最も手の込んだやり方である。二階氏があたかも中国政府の手先のように印象づけようとしているのである。 そうではない。二階氏は日本の国益のために行動しているのだ。
 日本国民は、このような産経、日経の記者のいやらしい新聞記事に乗せられてはならない。二階経産相は、アジアの平和を守るため、日本の国益のために中国政府と真剣に交渉している。これは、経済産業省を取材すればすぐわかることである。
 むしろ、こういう卑しい手段をとる新聞を見捨てるべきである。
 新聞記者よ、悪事を働くのはやめなさい。

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/




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めい

《5月下旬、自民党の親中派ボス・二階氏が日本人関係者3000人を引率して訪中した事実が再度、注目されます。・・・ちなみに、この二階氏はなかなかのクセ者のようです。》   http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34994229.html

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新ベンチャー革命2015年6月7日 No.1130

タイトル:日米安保マフィアにとって好事魔多し、安倍降ろしが密かに始まっている:黒幕は中国でぼろもうけしたい経団連か

1.いよいよ安倍降ろしの狼煙(のろし)は上がったのか

 2015年6月4日、国会で大ハプニングが起きました。自公与党が呼んだ憲法学者・長谷部早稲田法学部教授がなんと、自公が強引にかつ不自然に急いでいる集団的自衛権行使容認のための安保法制改悪を違憲だと断じたからです。安倍首相はすでにこの4月29日(昭和天皇誕生日)に神聖なる(?)米議会にて、今夏までに安保法制改悪を国会で通すと勝手に約束していますから、このハプニングは、安倍氏の対米メンツを根底からぶっ壊す快挙でした(注1)。

 今回のハプニングは自公の人選ミスではなく、何者かによる確信犯ハプニングではないかと本ブログでは観ています、なぜなら、長谷部教授は前々から、自公の強行する安保法制改悪は違憲だと表明していたからです。そこで、本ブログではいよいよ、安倍降ろしの狼煙が上がったと観ているわけです。

 次に問題となるのは、それではいったい誰が、安倍降ろし工作の黒幕なのかです。本件に限って、黒幕は、本ブログのウォッチする米国戦争屋ではないことは明白です。なぜなら、そもそも、安倍氏をそそのかして、安保法制改悪(自衛隊の米軍傭兵化)を強制している張本人こそ、米戦争屋ネオコンだからです。

なお、上記、米国戦争屋(世界的寡頭勢力の主要構成メンバー)およびそのロボット・悪徳ペンタゴンまたは悪徳ヘキサゴンを構成する日本人勢力の定義は本ブログNo.816の注記をご覧ください。

2.米国戦争屋ネオコンの奴隷・安倍氏が首相を続けて都合が悪くなってくるのは誰か

 今回の安倍降ろしの黒幕は、安倍氏が近未来に米戦争屋からやらされる何かで不利益を被る勢力である可能性があります。

 その何かとは、ズバリ、南シナ海にて、自衛隊と中国海軍の軍事衝突が起こることです。したがって、安倍降ろしの黒幕は、日中軍事衝突が起こると困る勢力でしょう。それはいうまでもなく、中国市場でもうけたい日本企業群ということになります。

 その観点に立つと、5月下旬、自民党の親中派ボス・二階氏が日本人関係者3000人を引率して訪中した事実が再度、注目されます。このとき習近平主席も日本人3000人の前であいさつしていますが、それは一種の恫喝だったようです(注2)。ちなみに、この二階氏はなかなかのクセ者のようです。

 このとき、習氏は、日本人3000人に向かって、日本企業が中国市場でもうけたいなら、安倍を辞めさせろといわんばかりの強い口調で、日本人関係者を一喝したようです。

 ところで、中国でひともうけしたい日本企業群の総元締めは、あの経団連です。

 彼らは、米戦争屋の奴隷に堕した安倍氏が米戦争屋のワナに嵌って、南シナ海にて日中軍事衝突させられたら、日本企業は中国でひともうけできなくなる上、すでに中国で営業している日本企業も追い出されるのは必至だとわかっているでしょう。

 米国市場にも中国市場にも精通している経団連ボスならば、安倍氏や日米安保マフィアの日本人官僚を手玉に取る米戦争屋の魂胆が、南シナ海で日中軍事衝突を誘発させて、そのスキに、米国企業に中国市場でぼろもうけさせようとしていることくらいはお見通しでしょう。

3.経団連ボスは、暴動が起きそうな斜陽の米国市場より、底知れぬポテンシャルをもつ巨大な中国市場に魅かれているはず

 経団連ボスは、米国のウラをお見通しであり、今後は、米国市場より、中国市場に魅力を感じているはずです。斜陽の米国市場に限界を感じている米国企業経営者もそれは同じでしょう。日本の場合、円安ですでに人民元はかつての15円から20円に上昇しており、日本企業にとって、中国とのビジネスはやりやすくなっています。さらに、今の円安で中国人消費者も断然、日本製品を買いやすくなっています。とりわけ高級品は中国で買うより日本で買う方が安くなっています。だから、中国人富裕層の日本での爆買いが起きているのです。日本製品は高い技術と高品質で中国人消費者からまだ信頼されています。だから日本企業は、もはや斜陽の日本市場や米国市場で生きていくより、巨大な潜在市場の中国でかせぐしかないのです。

 また、成長著しいインドや東南アジア諸国も、中国主導のAIIB(アジア投資銀行)に参加しているし、中国との敵対は望んでいないわけです。

 経団連企業のみならず、日本の中小企業も観光業も中国との敵対は、死活問題に直結します。

 このような切実な日本の現状は、上記のように3000人もの日本人が二階氏に同伴して訪中した事実から十分に推測できます。

 中国市場の底知れぬポテンシャルを少しでもわかっている企業人は、中国と敵対することがいかに自分たちに不利益をもたらすか、よくわかっているはずです。なにしろすべての需要が日本の10倍規模で拡大していくわけですから・・・。

 しかしながら、時代錯誤で戦前回帰主義の安倍氏も、安倍氏をサポートする日米安保マフィアの日本人官僚もビジネスセンスはゼロであり、苦境の日本企業の現状がまったく理解できないのです。

注1:本ブログNo.1128『喝采!憲法学者の早慶教授団、安倍政権の集団的自衛権行使容認暴走に待ったを掛ける:いよいよ安倍降ろしの狼煙(のろし)が上がった!』2015年6月5日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34989133.html

注2:矢来町ぐるり“3000人北京詣ででも「習近平」国家主席に顔を潰された「二階俊博」自民党総務会長”2015年6月4日、週刊新潮記事
http://www.gruri.jp/article/2015/06040830/

by めい (2015-06-08 17:54) 

めい

《二階氏は、違憲発言した長谷部・早稲田大教授を自民党の人選ミスだと吠えていました。これは、完全に三味線弾き発言(はぐらかし発言)です。要するに、二階氏といっしょに番組に同席していたジェラルド・カーチスを煙に巻くものです。》!!
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/35000506.html

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新ベンチャー革命2015年6月9日 No.1131

タイトル:元小沢派の二階・自民党総務会長の安保法制改悪阻止行動を安倍首相は故意に黙認しているのか:日中軍事衝突を画策する米国某勢力は地団太を踏むのか

1.安保法制改悪法案、会期内の衆院通過断念?

 毎日新聞は安保法制改悪法案の会期内(6月24日まで)の衆院通過を政府与党が断念したと報じています(注1)。今のところ、このビッグニュースを報じているのは毎日新聞とTBSのみのようです(注2)。他のマスコミはどうしたのでしょうか。確かに、野党推薦の憲法学者のみならず、与党推薦の憲法学者までもが違憲と明言している安保法制改悪法案(注3)を多数派の与党が強引に強行採決で通したら、子羊のようにおとなしい国民もさすがに怒るでしょう。

 2015年6月9日午前現在、この情報は毎日新聞とTBSだけしか報じていないので、今後どうなるかは依然、不透明です。

 民主主義国家における憲法は、元々、権力者の暴走に歯止めを掛けるために存在するそうですから、憲法に違反する法案を数の力で強引に、成立させることはできないわけです。

2.親中派・二階氏率いる自民党内の志帥会(しすいかい)の動きに注目

 自民党には、旧経世会の流れを汲むと思われる志帥会(注4)という組織が存在しているようです。そのリーダーは、先月、3000人の日本人関係者を引率して訪中して、習近平主席とコンタクトした二階氏です(注5)。

 この志帥会は6月5日にパーティーを開いたそうですが、なんと5000人が参加したようです(注6)。この参加者は、二階氏の訪中を応援する勢力であり、主に、中国でひともうけしたい日本企業の関係者や、中国富裕層の爆買いツアーに味を占めた観光業者や小売業者でしょう。

 このパーティーに安倍首相も参加したようです。このパーティーは、国会で違憲発言ハプニングが起こった翌日です。

 この流れから、国会での違憲発言ハプニングは、やはり、確信犯ハプニングだとみなせます(注3)。

 そして、安保法制改悪は今夏までに成立するのが見送られた(?)ということです。もしそうなら、これは、自民志帥会と経団連のシナリオ通りということになります。

3.6月7日のTBS時事放談にて、二階氏は三味線を弾いていた

 上記、二階氏は6月7日朝のTBS時事放談に出演しています。この収録は7日より前に行われています。

 この番組で、二階氏は、違憲発言した長谷部・早稲田大教授を自民党の人選ミスだと吠えていました。これは、完全に三味線弾き発言(はぐらかし発言)です。要するに、二階氏といっしょに番組に同席していたジェラルド・カーチスを煙に巻くものです。

 このジェラルド・カーチスは日本語ペラペラで日本人妻をもつCIAの対日工作員であることはネット界では常識です。要するに、米国戦争屋の対日代弁者ということです。

なお、上記、米国戦争屋(世界的寡頭勢力の主要構成メンバー)およびそのロボット・悪徳ペンタゴンまたは悪徳ヘキサゴンを構成する日本人勢力の定義は本ブログNo.816の注記をご覧ください。

 時事放談を放映しているTBSは毎日新聞系ですが、上記、毎日とTBSのスクープは、二階氏からの情報リークではないでしょうか。

 二階氏は毎日とTBSにスクープさせるのと引き換えに、ジェラルド・カーチスをTBS時事放談に出演させ、テレビの前で、カーチスに向かって、今回は自民の人選ミスで、早稲田大の教授が国会で違憲発言してしまったと釈明したのです。そして、今会期中の安保法制改悪法案が国会を通過させられなくなった理由をすべて、早稲田大教授の違憲発言のせいにしたのです。

4.二階氏は元々、小沢派だった

 上記のように三味線弾くのが得意な二階氏は元々、小沢派の議員です(注7)。だから、小沢氏が米戦争屋を裏切って米戦争屋ボス・デビッドRFを激怒させたため、その後、米戦争屋CIAのロボット・東京地検特捜部によって無力化工作が行われて、総理大臣への道を断たれた経緯に精通しているでしょう。さらに二階氏は米戦争屋ネオコンCIAのすごさも怖さもよくわかっているでしょう。だから、米戦争屋エージェント・カーチスの前では、安倍首相の応援団のように振る舞って、CIA対日謀略部隊にマークされないよう三味線を弾いたとみなせます。このようなノウハウを身に付けたのも、小沢氏の失敗を目の前で観たからではないでしょうか。

 しかしながら、米戦争屋CIAの方もしたたかで、いずれ、二階氏の正体を見破って、攻略の対象にされるかもしれません。なにしろ、米戦争屋ネオコンが安倍氏を操って、南シナ海での日中軍事衝突を誘発させようと狙っているところに、二階氏は堂々と訪中して、習主席との会見に成功しているからです。さらに二階氏は習主席に安倍氏の親書を渡すことにも成功しています。この行動は米戦争屋ネオコンCIAの神経を逆撫でします。

 今後、東京地検特捜部がCIAの命令で、二階氏の身辺を洗い、小沢氏同様に、二階氏が無力化工作のターゲットにされる危険性があります。ただ、二階氏は73歳の小沢氏より年上の76歳ですから、すべての覚悟はできていると信じたいところです。

 いずれにしても、安保法制改悪が二階氏および志帥会の暗躍によって頓挫することを心底から願います。

 最後に言えば、二階氏の5000人パーティーに顔を出した安倍氏は、二階氏の安保法制改悪阻止行動を故意に黙認しているのでしょうか、もしそうなら、安倍氏は対・米戦争屋面従腹背の政治家ということになり、その評価は大きく変わります。

注1:毎日新聞“安保法案:会期内の衆院通過断念 「違憲」指摘が影響”2015年6月9日
http://mainichi.jp/select/news/20150609k0000m010142000c.html

注2:TBS News“安保関連法案会期内の衆院採決を断念”2015年6月9日
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2513391.html

注3:本ブログNo.1128『喝采!憲法学者の早慶教授団、安倍政権の集団的自衛権行使容認暴走に待ったを掛ける:いよいよ安倍降ろしの狼煙(のろし)が上がった!』2015年6月5日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34989133.html

注4:志帥会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%A5%E4%BC%9A

注5:本ブログNo.1130『日米安保マフィアにとって好事魔多し、安倍降ろしが密かに始まっている:黒幕は中国でぼろもうけしたい経団連か』2015年6月7日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34994229.html

注6:日高新報“志師会パーティーに政財界から5000人”2015年6月7日
http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2015/06/post-3716.html

注7:二階俊博
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E4%BF%8A%E5%8D%9A

by めい (2015-06-11 06:04) 

めい

われ「媚中派」と呼ばれようとも  二階俊博
7月 29th, 2015 by 月刊日本編集部.
http://gekkan-nippon.com/?p=6940#more-6940

(前略)

たとえ「媚中派」と言われようとも
―― 二階議員は中国で習近平国家主席と会談されました。一部では事前の予想として、習主席は会談に応じないのではないかとも言われていました。
二階 私は3月に海南島で開催された、福田康夫元総理が理事長をしているボアオ・アジア・フォーラムにお招きいただき、パネラーとして医療問題や健康問題について発言しました。その時習近平国家主席もお出でになっておられたので、私は「今度、日中友好を熱心に進めている3千人の同志たちと一緒に訪中することになっている。これは人と人との交流、特に民間の人たちの交流だ。習主席にも協力してもらいたい」と言いました。習主席からは「日中間の人民の相互交流は大変大事なことなので協力します」と、明快なお答えをいただきました。
 そのため、私は5月の訪中時には必ず習主席にお会いできるだろうと確信していました。しかし、これは誰にも言いませんでした。今回3千人の方々にご一緒していただきましたが、「習近平さんがお出でになるからご一緒しませんか」という呼びかけは一切しませんでした。
 それは、あれだけの国のトップリーダーですから、国際的な問題も含めて何か起これば来られなくなることだってあるからです。また、「主席がおいでになるから来たらどうだ」というような、看板で人集めをするようなことはすべきではないと思っているからです。私は過去5回訪中しましたが、一度もそうしたことはしておりません。
 少し気の早い人は、習近平国家主席が出て来ないなら行っても仕方がないということで、訪中の参加申し入れはあったものの実際には来なかった人もいたようです。3千人もお見えになるわけですから、色んな目的や考えを持った方がいます。それについて気にする必要はないと思っていますし、我々の方から特に意見を述べることもありませんでした。
―― 最近、日本では排外主義的言説が強くなっており、二階議員を「媚中派」と揶揄する声もあります。
二階 そんなことは過去に何回か言われておりますから気にもしていませんが、「そんな偉そうなことを言うなら自分で行ってらっしゃいよ」と申し上げたい。
 我々は誰の力も頼っていません。3千人の人たちと一緒に訪中するといっても、政府に協力を求めたわけではありません。また、皆一人一人が自分の旅費をご自身で負担いただいています。なぜそうするかと言うと、誰かの力を借りてやると正しい結果は出ない、真実の味は出て来ないからです。
 ですから、媚中派と言われようが何と言われようが、そんなことはなんでもありません。「言っているあなたが恥ずかしいでしょ」と言ってあげたいくらいです。

世界平和を願い、写経を奉納した岸元総理
―― 現在、日中関係はギクシャクしていますが、長い歴史の中で日本は中国から大きな影響を受けてきました。
二階 それは紛れもない事実です。我々は皆このことを大切にし、お互いに感謝し、貴重なこととして後世に伝えていく責任があります。
 今年、高野山は弘法大師・空海が道場を建設してから1200年を迎えました。空海が仏教を学ばれたのも中国です。開創1200年の行事には外国からも多くの方が見えていますが、中国の皆さんにも空海の業績をもっとわかってもらえるようにしなければいけないなというふうに思っています。
 高野山には安倍総理にも来ていただきました。総理の祖父である岸信介元総理は政界を引退された後、写経を始められて、高野山に1150巻も奉納されています。
 その中に「願意 世界平和」という文字をしたためた写経がありました。私が「これを一枚いただけないか」と相談したところ、高野山から「岸家のご了解をとっていただければ」と言われました。すると、隣におられた総理が「どうぞ、どうぞ」と勿論ご許可をくださり、総理と私がそれぞれ一枚ずつもらうことになりました。
 私は中国でもこの「世界平和」という言葉に出会いました。私は中国の名門高校である大連第十六高校を訪問し、私の母校である日高高校と姉妹校提携を結びました。後日、第十六高校の校長先生が日高高校に立派な額装をした書を送ってくれました。その中に「世界平和」という文字があったのです。時代を越え、国を越え、皆が世界平和を願っているのです。ですから、このことに背を向けるような行動は何人と雖も許されない。我々はこの点をしっかり心に銘記して政治に携わっていかなければなりません。
by めい (2015-07-30 07:56) 

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