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原理的思考と関係的思考 [新しい歴史教科書をつくる会]

西尾先生が日録に書かれた「つくる会顛末記」http://nishiokanji.com/blog/2006/03/post_298.html#c2780にコメントを書いたのがきっかけで、はからずも自分と教科書問題とのかかわりについてあらためて考えるさせられることになった。

   *   *   *   *   *

1.
山形のめいです。
西尾先生おつかれさまでした。

いつ閉じようかと思っていた正気煥発板、数日前からつながらなくなってしまいました。原因不明です。私なりに言うべきことを言っておくべきと思い、最近また書き始めていた矢先でした。折り良く知足さんがご自分の掲示板とブログに転載して置いてくださいましたので埋もれてしまうのを免れることができました。
http://bbs1.parks.jp/29/hirokuri/bbs.cgi?Action=kiji&Base=321&Fx=0
http://blogs.dion.ne.jp/hirokuri/

ブログの方に転載しておきましたが、3年前南東北ブロック会議のために次のような文章を書いていました。
≪教科書運動を選挙に例えれば、(教育委員会に焦点をあてた)教科書運動は市町村議レベルのドブ板選挙では、かろうじて組織維持、運動としてはしないよりまし、結果としては徒労。教科書運動の選挙区はまずもって全国区であることを主眼とし、大量の浮動票を取り込む戦略をもたなければ運動の未来はない。
 たとえば、現在に至る分水嶺に、平成10年1月第三回シンポジウム「古代史最前線からの眺望」(『正論』平10・5月号所収)の岡田英弘先生を軸にした激しい議論があった。岡田氏の議論に左翼史観との仲介的役割の可能性をみる。あの議論の延長上にこそ教科書問題解決の展望が開けてくるはずなのではなかったか。すなわち、良識ある(唯物史観から自由な)学者層、知識人を総動員した戦後歴史学、戦後歴史教育見直し大論争へと発展させ、結果として左翼史観を吹き飛ばしうる可能性があったのではなかったか。
「地方支部の結成→教育委員に焦点を絞った運動の展開」が結果的には全くと言っていいほど実を挙げることができなかったわけで、それ以前に歯車を戻さない限り、「会員倍増」は絵に描いた餅に過ぎない。地方支部にドブ板選挙的活動を期待する前に、本部レベルでの根本的な戦略見直しが必要と考える。≫ 

つくる会の運動は本来社会運動であって政治運動ではない、そういう思いで参加し、山形の運動もその方向で組み立てていたはずなのに、教育委員会に焦点を絞った本部方針によってどんどん政治の渦中に引きずり込まれてしまいました。このことをめぐっての本部での議論はなかったように思えます。山形では最初の採択戦のあと、このことについての反省をいろんな場で申し上げたつもりでしたが、その反応といえば、トイレで隣り合わせた藤岡先生に「おもしろいことを言われますね」と言われたことぐらいでした。(それがどういう意味だったのか今もわからないままです)

3年前のこの文章を引っ張り出して、ふと「新・ゴーマニズム宣言」の第102章(第8巻所収 平成11年)のことを思い出しました。この中で西尾先生が「私はむしろやめてほしいのは藤岡さんあなたの方だ!」と言っておられます。ずっとその場面が私の気持ちの中で引っかかっていました。涛川先生を追い出すことになったあの理事会がその後を方向付ける分水嶺だったように思えるのです。つまり、藤岡先生の路線がつくる会の今日を招いたのではないか。今だから言いますが、私は運動の現場にいたものとしてずーっとこのことを思いつづけてきました。事ここに至ればもう腹蔵なく出すものは出すべきと考えています。

西尾先生と藤岡先生のお二人はつくる会にとっての神さまのように考えておられる方もあるようですが、私にはお二人の間での真正面から向き合った、この期に及んでは喧嘩別れになってもいい、お互い遠慮のない議論こそが、(かりに存続するとして)つくる会の今後にとっても、今後の保守言論界にとっても、ひいては日本にとってぜひとも必要なことのはずです。「私はむしろやめてほしいのは藤岡さんあなたの方だ!」西尾先生のこの言葉には、先生がその後ずーっと蓋をしてきてしまったホンネが込められているように思えるからです。運動の当初からつくる会に期待し、莫大な時間を捧げてきた者にとって、惜しむべきものは何もない。この痛恨の体験を今後活かせるかどうかは、これまでの運動についての徹底した反省の如何にかかっている。そのキーマンはやはり西尾先生です。

Posted by: めい at 2006年03月07日 15:13

2.
再び山形のめいです。

運動に心血を注がれた東京支部長さんが、つくる会のMLで理事や事務局員のほとんどは「現場」の運動には何の役にもたたなかったことを嘆いておられました。しかしそもそも「現場」を採択レベルに矮小化してしまったことにこそ問題があるわけです。本来教科書改善の運動が目指すところは、日本人としての共通意思づくりにこそあったはずなのです。だれも一出版社の営業活動をするためにつくる会の運動に関わったわけではない。日本人としての共通意思づくりのチャンスをみすみす逃してしまった。その結果が今の日本の体たらくといってもいい。それが悔しい。ここのところを運動の舵取り役であったはずの西尾先生にもきっちり認識していただかねばなりません。この認識に立ったきちんとした(自らを切りさいなむ覚悟をもって)反省総括をしていただかねばなりません。それが西尾先生に今与えられた責務であるはずです。

Posted by: めい at 2006年03月10日 07:56

3.
長谷川さん

西尾先生との二人三脚で大きな役割を果たしておられることにあらためて敬意を表させていただきます。おかげで私も鬱屈した思いをぶつけられる場を与えていただいていると感謝しております。

私の言わんとするところをよくお読みいただければわかるはずですが、私が問題にしているのは西尾先生が会長であった運動の最初の段階です。そこが間違ったと言いたいのです。西尾先生に対してないものねだりをしているのではありません。西尾先生ならおわかりいただけるはずという思いで申し上げています。

>今の日本の体たらくの責任は西尾先生一人にあるのではなく、私たち国民一人ひとりに同じ重さだけあるのです。

こういう物言いはこの際何の足しにもならないことを自覚せねばなりません。

Posted by: めい at 2006年03月10日 11:08

4.
長谷川さん

誤解しないで下さい。西尾先生を「責めている」のではありません。生を賭して言論の世界に生きておられる西尾先生に「問う」ているのです。私も生活を二の次にしても正気煥発板上で自分の言葉を吐いてきました。自分の言葉にはそれなりの責任を持っているつもりです。そのレベルで西尾先生に問いかけているのです。つくる会の運動のために費やした莫大なエネルギーを今さら惜しむわけではありません。それはそれなりに意義があったとも言える。それは私個人のことだけではなく世の中全体に広げてもそれを言えばなんとでも言える。そう言ってしまえばそれっきりです。しかしそれで済ませられる問題ではないこともご理解下さい。日本の歴史を背負った極めて「公的」役割を担った運動だったのですから。

Posted by: めい at 2006年03月10日 18:18

5.
私が従軍慰安婦問題を通して教科書問題に関わるようになったのが平成8年の暮れ、その最初の段階、つくる会の運動以前の段階で日教組とのやりとりがあり、そこから「日本人としての共通意思」をどう確立するかということが課題としてありました。同じ日本人である以上日教組ともわかりあえるという思いがあった。だからつくる会の運動に入ってからの反対派の集会にも支部事務局長を名乗って参加したこともあるし、俵義文氏の講演会にでかけたこともあった。しかし、つくる会の運動はそれを逆なでする方向へと進み、運動の内部にいた私もその流れに流されていた。そして今になってこんなはずではなかったと思いだしている。だからといって改めて出直そうというエネルギーはもう残っていない。ただ、うやむやのまま運動から遠ざかりつつあったのが、つくる会内部のゴタゴタのおかげで胸底にたまっていたものを吐き出す機会が与えられたのはありがたいことだったと思っているところです。

Posted by: めい at 2006年03月11日 10:16

 長谷川さんやあきんど@携帯さんなど何人かとのやりとりがあり、ここまで進んだところで西尾先生が次のコメントを寄せられた。

   *   *   *   *   *

めいさん へ

山形のめいさんからの訴えとご質問に、よく存じ上げているほかならぬめいさんからのコメントでしたので、意味がわからない点もあるので、ひとこと応答させていただきます。

めいさんはつくる会の本来の目的は「日本人としての共通の意識ずくり」であって、「教育委員に焦点をしぼった採択運動」であるべきではなかった、とおっしやいますが、その意味が私にはよくわからないのです。採択運動は政治運動であって、それに矮小化すべきではなく、「全国的な社会運動」を展開すべきであったともおっしゃるのですが、われわれは各種の出版やシンポジウムをずいぶんやりました。力およばなかったとはいえ、「全国的な社会運動」はかなりやったつもですが、「日本人としての共通の意識ずくり」とはこういうことをもっとどんどんやるべきであったという意味でしょうか。そして、採択の現場への働きかけはやらないほうがよかったということでしょうか。

どうも意味がよくわかりませんので、「日本人としての共通の意識ずくり」の具体的な内容としてあなたがイメージされていることを解りやすくおしえてください。これからのわたしの活動の参考になります。よろしく。      西尾幹二

Posted by: 西尾幹二 at 2006年03月12日 19:42

   *   *   *   *   *

それに対して次の文でお答えした。

6.
西尾先生

ご返事ありがとうございます。
私もここ数日いろんなご意見に接しながら自分の体験を反芻しているうち、つくる会に関わる以前、私にとって教科書問題とはなんだったのかと考えるようになっていました。そうしてあらためて浮んできたのが「日本人としての共通意思」という言葉でした。そもそも公教育とはそのことを醸成することが大きな目的であるべきはずです。ところが「個」を原理とする戦後教育においてはこの視点がすっぽり抜け落ちている。この原理こそ問題にしなければならないのではというのが私にはずっと問題でした。この問題について5年前に書いた文があります。ちょっと長くなり申し訳ありませんがお読みください。

   -----------------

 教育の何を変えるべきか
   秩序感覚の回復を
     
 「素直であること」が悪いことであると思わなければならない、と思い始めたのは今から四十数年前、小学五、六年生の時だった。当時の担任であった女の先生は、作文指導の中で、何事に対しても批判的であることの大切さを教え込んでくれたのだった。それまで「人の言うことは素直によく聞くこと」とばかり思い込んでいた私にとって、世界がひっくり返るような教えだったのだと思う。目のパチパチが止まらなくなるチック症で「ソロバン」のあだ名が付いたものだった。
 以来戦後教育の洗礼をまともに浴びつつ高校から大学へ。しかしあの全共闘時代の真っ只中、何とか渦中に巻き込まれずに踏ん張れたのは、祖父母のいる家庭で培われた、学校教育以前の「三つ子の魂」のおかげだったと思う。
 まじめに勉強すればするほど人間がおかしくなる。まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまう。自らを省みてそう思う。学校の勉強なんていい加減に聞き流してきた方が、ずっとまともな人間として暮らしてゆけるのだ。戦後教育に内在する恐ろしい逆説である。 
 中学の「公民」の教科書(東京書籍)を開くと、「社会における利害の調節や紛争の解決をめざす営みを広い意味で政治とよぶ」とある。利害の対立や争いごとがあるから政治があるということになる。そうなのだろうか。日本では、政治を「まつりごと」とも言う。そこにはまず秩序がある。政治の役割とはまず何よりも、世の中の秩序を維持することではなかったのか。たしかにもめごとの解決も秩序の維持も同じことの裏表、しかしどちらを表に出すかで、もめて当然かまとまっているのがあたりまえか、天地の隔たりが出てきてしまう。この教科書ではわざわざ「広い意味で」と言っているので、子供たちは、すべて政治は基本的にそういうものなのだと思い込む。その一方では「人権の尊重」とか「自由と平等」とかの言葉で西洋仕込みの個人主義をたたき込まれるわけで、いくら「公共の福祉」やら「寛容の精神」やらで和らげようとしても、世の中もめていてあたりまえ、みんな自分の思いのまま、強いものが得をする、そんな感覚になってしまわざるをえない。
 歴史の教科書も同様である。たとえば、「大正デモクラシー」の節には「米騒動は、およそ三ヵ月にわたり、約七〇万もの人々が参加する民衆運動となり、軍隊の出動でしずまったが、人々の政治的な自覚をうながした。」(日本文教出版)とある。まさにもめごとが「政治的自覚をうながすもの」として奨励されるかのようである。
 また、「公民」の教科書(東京書籍)では、「人権」について三七ページにわたって説明されている。「人権」という言葉と表裏一体のものとして「自由」が叩き込まれる。しかもそれは「国の秩序」や「学校の秩序」や「家庭の秩序」よりも何よりも優先されている。本来「人権」や「自由」という考え方は、弾圧や抑圧に対抗するものとして生まれてきたはずのものなのに、今の教科書ではそれだけが一人歩きしてしまっている。
 かつてわれわれ世代にとって教祖的存在でもあった吉本隆明は「個人幻想は共同幻想に逆立する」と言った。われわれは、共同幻想からはみ出た部分を自己とし、それを以って存在の基盤に据えようとしていた。存在自体が根底において反秩序なのである。世の中との乖離は必然である。学生時代を含め十年間の独り暮らしから、家業を継ぐため家に戻って、地域に溶け込んでゆく中で、戦後教育で身につけた殻を徐々に徐々に剥がしてきた。教科書を読むと、殻をまとっていた頃の自分が見えてくる。
 フッサールからメルローポンティに連なる現象学の系譜は、コギト(思う我れ)を原理とするデカルトを批判し、コギト以前の「すでに生きられた世界」こそが初源であると喝破した。ハンカチを片手で渡すと渡された相手は片手で受け取り、両手で渡すと両手で受け取るという実験をテレビで見たことがある。私たちは、考える以前の行動のレベルでは、いちいち心の中の「私」が考えて行動しているわけではない。そこでは、まだ「私」の意識が育っていない赤ちゃんがそうであるように、私の気持ちと相手の気持ちとは溶け合っている。自ずとそこには秩序がある。その初源を忘れて「私」を原理としたところに戦後教育の根本的な誤謬がある。「思う我れ」を第一義とするデカルト的主知主義からの脱却、すなわち共感の体験を第一義とすることを通して、個人以前の秩序の感覚を取り戻すことを教育改革の要に据えねばならない。難しいことではない。われわれはすでにそうして生きているのである。

   -----------------

私にとっての戦後教育の改革はこうした原理的なところまで射程に置いていたつもりでした。そこから出発すると「日本人としての共通意思」とは、ことさら新しいものを「つくる」のではなく、今その中で生きている中から「発見するもの」ということになります。そのレベルで言えば右も左もない。そういう思いから、従軍慰安婦問題をきっかけに日教組の先生と最初は手紙で議論をし、さらにはシンポジウムを共催で開くまでになったのでした。平成9年の3月だったと思います。その時の日教組の先生には平成12年に米沢市で開催した田中英道先生の講演会にもお出でいただいて発言していただいたり、また、正気煥発板開設当初、毎日のように書き込んでくれて熱心に議論してくれた方はおそらくシンポジウム参加者のおひとりだったりもしました。あのような左右を超えた議論の場を他でもつくってみたいという声もあちこちにあったのですが、そのあと山形市で試みただけでそれっきりになってしまたのが今でも残念に思います。ちょっとちがいますが、「正論」等で読んだ限りでは、高森先生と岡田英弘先生とが議論された平成10年の古代史シンポジウムが今になってみると貴重に思えます。そうしたことを念頭においての先に書いた次の文でした。
≪教科書運動を選挙に例えれば、教科書運動は市町村議レベルのドブ板選挙では、かろうじて組織維持、運動としてはしないよりまし、結果としては徒労。教科書運動の選挙区はまずもって全国区であることを主眼とし、大量の浮動票を取り込む戦略をもたなければ運動の未来はない。
たとえば、現在に至る分水嶺に、平成10年1月第三回シンポジウム「古代史最前線からの眺望」(『正論』平10・5月号所収)の岡田英弘先生を軸にした激しい議論があった。岡田氏の議論に左翼史観との仲介的役割の可能性をみる。あの議論の延長上にこそ教科書問題解決の展望が開けてくるはずなのではなかったか。すなわち、良識ある(唯物史観から自由な)学者層、知識人を総動員した戦後歴史学、戦後歴史教育見直し大論争へと発展させ、結果として左翼史観を吹き飛ばしうる可能性があったのではなかったか。≫

採択の現場への働きかけは、形骸化していた教育委員制度の下では労のみ多くして・・・だったと思います。教育委員の自覚を喚起したという面では画期的なことだったのかもしれませんが。

Posted by: めい at 2006年03月12日 21:53

さらに、懐かしい機械計算課長さんからコメントをいただいたので、次の文を書いた。

7.
機械計算課長さん

ほんとうに懐かしいです。正気煥発板では課長さんにいろいろ学ばせていただきました。過去ログを引っ張り出してみましたが、とりわけ「日本人としてのアイデンティティー」をめぐって展開していただいた議論はすごいです。あらためて勉強しなおします。

課長さんに「歴史的な認識よりプリミティブの認識」と言っていただいたとおり、今の私は教科書運動以前の私個人の体験に根ざした戦後の公教育に対する違和感まで遡って考えようとしています。それがあったからつくる会の運動にも関わることになったのですが、私にとっては、歴史認識を問題にしたつくる会の運動よりもっと根源的で、それゆえ切実です。
私の個人的体験を言えば、10年間家を離れて暮らした後、地元に戻って最初に入ったのが消防団でした。そこで地元に根ざして生きている世代を超えた人たちと出会い、いったい自分が受けてきた大学までの教育とはなんだったのかと思い知らされました。先のコメントで書いた≪「思う我れ」を第一義とするデカルト的主知主義からの脱却、すなわち共感の体験を第一義とすることを通して、個人以前の秩序の感覚を取り戻すことを教育改革の要に据えねばならない。難しいことではない。われわれはすでにそうして生きているのである。≫はそれ以降の体験が土台です。まだまだ抽象的にすぎませんが、実は家業のほかに一年前から幼稚園に関わる役職にあり、今後私に与えられた社会的使命があるとすればその場所から教育を根源的に考えていくことなのかと思い始めているところです。教育の根っこを考える上で幼稚園はいい現場です。

Posted by: めい at 2006年03月14日 06:03

さらに、

8.
機械計算課長さん

かつて機械計算課長さんとのやりとりの中で次のようなことを書いていました。先の西尾先生へのお答えで書いたことにつながりますので転載させていただきます。

   -----------------------

そもそも人生においてとどのつまり何を求めて生きているかと言えば、「心の安定」ということなのではないでしょうか。金や地位や名誉もそのための手段に過ぎないのです。としたら、教育も本来そのことをきちんと視野に置くべきです。私は今の教育は原理的に間違っていると思います。

 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」、この「思うわれ」を窮極の原理として近代合理主義思想は出発しました。「思うわれ」は、思うかぎりにおいて「だれが何を思ってもいい」という意味で、自由でありまた平等です。ところが、それを現に身体をもって生きている人間にまで引き延ばして適用してしまったところに、近代合理主義の誤りがあります。人間は、まず自分が勝手に考え始める前に、親兄弟をはじめとするいろんな人たちと一緒に生きているのです。それがあってはじめて、自分で考えるようにもなれるのです。事実として、ともに生きている世界があって自分があるのです。その逆ではありません。

 本来、「自由」に対置する言葉は、「束縛」ではなく「秩序」です。「平等」に対しては「差別」ではなく「分度分限」といういい言葉があります。世の中に合った自由と秩序のバランスの取り方、平等と分度分限のバランスの取り方から、「倫理」の問題は生まれます。
 ところが、秩序よりも何よりも人権を第一義とする教科書を見るかぎりでの今の教育では、倫理の問題も何も生じようがないのです。今の教育は、原理的に共通の規範を拒否していると言えるかもしれません。精神の安定は、基本的には周囲の人との共通理解の上に立って生きていることでもたらされるはずです。今の教育はそのことをはじめから否定しているのです。

 今の教育では、まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまっています。「何のために学ぶのか」の問いかけに「自分のため」としか答えようがない。「そんなら別に勉強なんかしなくても…」に返す言葉がない。道義の感覚はすっかり色あせ、経済的利害とそのときどきの欲望のみが行動の基準、ただただ声の大きいものが、力の強いものがわが物顔に振る舞い、裏では人を欺くはかりごとがうごめくような世の中、これでは精神の安定を得られるはずはありません。今の教育は、人間が本来求めるものから逆行しているのです。

 デカルトの「思うわれ」というのは、秩序が抑圧として捉えられるようになって「人権」思想が生まれたことと歩調を合わせるかのように、身体をもって空間的・時間的に制約されて生きている自分が意識されるようになるにともなって、そうした制約から一切自由な主体として構想されることになったと考えることができます。

 「人権」と「思うわれ」は軌を一にしていると考えるのですが、それは「人権」を言い出すとだれもそれには逆らえないのと似て、「思うわれ」を基礎にすると、世の中の存在すべてが説明できるように思えてしまう。そしてそのゆきつくところは、(うろおぼえですが)イギリスのバークレーのように「自分が知覚しないものは存在しない」となってしまう。もう完全な蛸壺状態。

 それにたいして、そのおかしさを指摘し、理屈はいい、まず事実そのものに立ち返ってそこから考えようとしたのがフッサールに始まる現象学の流れです。

 フッサールの流れを汲むメルロ―・ポンティは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対して、「われなし能う、ゆえにわれあり」と言います。私はこれはすごい言葉だと常々思っているのですが、まだ教科書に載るまでは普及していないようです。教育もデカルト的主知主義(「思うわれ」を主体として、知ることが基本)では全くの片手落ちで、「できるようになることが基本」を原理にしなければならないと思うのです。教育の原理見直しのゆえんです。

 メルロ―・ポンティは、「私が思う以前に、先ずもってみんなと共に生きている」と言います。そこから見れば、「思うわれ」なんて後からの理屈づけにすぎません。ところが今の世の中では、(きっと教育の結果)「思うわれ」の方が本来の自分であって、「現に生きている自分」は仮の姿のように思い込んでしまっているのではないでしょうか。みんな蛸壺の中にいるときがいちばん安心できるように思いこんでしまっているのです。

 「秩序」について言うと、蛸壺に入り込んでしまうと「秩序」なんてさもうっとうしいように思えてしまうけど、「先ずもってみんなと生きている」世界では、意識はしなくてもちゃんと「秩序」の中で生きているということが言えるのではないでしょうか。別にどこかから探し出してきたり、新たに作り出すこともないのです。 そこで、今いったい自分はどういう秩序の中で生きているのかを、あらためて見つめなおす必要があるのではないかと思うのです。

 私もメルロー・ポンティとのおつきあいは30年も前にさかのぼるので、昔のメモを引っ張り出したら、「意識とは、原初的には、『われ惟うje pense que(I think that)』ではなく、『われ能うje peux(I can)』である。」とありました。彼の主著「知覚の現象学」の「身体論」の中の言葉です。そして日本語版の注釈に「この術語は、フッサールの未刊書のなかでしばしば用いられている。」とありました。メルロー・ポンティのオリジナルでない事を今知った所です。それに、いつの間にか「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉で私なりに理解していましたが、意訳として間違ってはいないと思うのでご了承ください。

 また、「思うわれ」を主体として、知ることが基本とする考え方が、知識それ自体自体だけで第一義的に価値があるように思い込んでしまう、頭でっかちを生み出しているのではないかと思えるのです。それに対して、「できること」とは「身につけること」と考えてはどうでしょうか。それにはもちろん、「知識を身につける」ということも含まれます。その時の「知識」とは、いつも生きている世界とのかかわりをもった知識であるはずです。メルロー・ポンティは、先の言葉の後、「意識とは、(みんなと共に世界の中で生きている)身体を媒介にして事物へと向かう存在である」と言っています。まずそれが初源であり、第一義であると言うのです。蛸壺の中が初源ではないのです。

    *   *   *   *   *   

これに対しての西尾先生からのお答えはまだない。やはり噛み合わないのかもしれない。

「原理的思考」と「関係的思考」という言葉が思い浮かんだ。原理的思考といえば私にとってはまず第一に吉本隆明であり、その極北には宮沢賢治がいる。副島隆彦氏はその流れにあると思う。かつて西尾先生に副島氏との対談を願って一蹴されたことがある。「自分のまわりでは信用がない」というものだった。西尾先生は、「藤岡先生と八木前会長との関係を等距離におきたい」と言われた。西尾先生は、その思考において、原理よりも関係が優先するタイプなのだと思う。まずは学者の世界に生きておられるのだ。


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