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mespesadoさんによる1億人のための経済講座〈Ⅱ〉(5) 現実感覚による経済理論批判 [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

mespesadoさんの経済論の真骨頂は、くらしの実感レベルで経済の仕組みが理解できることです。

《「価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスする」ことと「景気が良好な状態にある」こととの間には何の関係も無いですよね?/ なぜなら、「市場にまかせていれば、価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスする」というときの「需要」や「供給」というのは消費者や生産者にとって「本意」な需要や供給であるとは限らないからです。/ 恐慌ではない通常時でも、(特に日本以外では)貧富の差が激しく、貧しい人たちはオカネが無いので欲しいものも買えず、結局買えるオカネを持っている人たちの間だけで需要と供給がバランスしているだけですから、このバランス状態が維持されているからといって、すべての人が「満足している」わけではありません。貧しい人は消費を「諦めてしまっている」だけです。 恐慌における「不完全雇用均衡」というのは、単にこの「消費を諦めてしまっている」人たちの範囲が拡大しただけのことであって、通常時と仕組上何の違いもありません。》つまりそもそも新古典派が「神の見えざる手」などと形容した需要と供給のバランス理論は、そもそも景気が(消費者が満足する消費ができるという意味で)正常に維持されることを保障する理論ではなかったのです!》

「貧しい人」というのは、消費を「諦めてしまっている人」、「景気の好し悪し」とは、「諦め加減の如何」です。モノの豊かな世の中では「諦めてかえって幸せ」もおおいにあり得るわけです。

*   *   *   *   *

269:mespesado : 2018/01/28 (Sun) 17:23:28 host:*.itscom.jp
>>226
 さて、書評の連載の続きです。今回は第5章の「復活ケインズ理論と新しい古典派の闘い」です。
 この章では経済学の発展史が述べられています。
 経済学と言えば、昔は「神の見えざる手」で有名な、「新古典派経済学(Neoclassical Economics)」が主流で、「市場にまかせていれば、価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスするから、政府は余計な手出しをしなくてよい」と主張されていて、それで実際の経済が説明できると思われていました。また、政府の財政も、収支が均衡するのが理想とされていました。
 ところが、1929年のニューヨークに始まる「世界大恐慌」によって、世界は長く深刻な不況に突入します。つまり大量の売れ残りと大量の失業者が発生し、その状態のままで「収支が均衡してしまった」のです。
 こんな状況下で、イギリスの経済学者ケインズは、1936年に、『雇用、利子および貨幣の一般理論』という本を出版し、政府が市場に介入しないで放置すると、大量の失業が残ったまま経済が落ち着いてしまう「不完全雇用均衡」という現象が生じうると主張しました。これを防ぐには、政府が経済に積極的に介入し、「金融緩和政策(=中央銀行によるオカネの大量発行)」「財政拡大政策(=政府による大量支出)」が必要であると説いたのです。このケインズ理論はアメリカで「マクロ経済学」という教科書体系にまとめられました。これが1960年代のアメリカで大々的に推進された結果、ほぼ完全雇用が実現され、この理論の有効性が明らかになりました。
 ところが1970年代になると、先進国全体でインフレがひどくなり、そのわりには景気の伸びも鈍化し、ケインズ政策を取れば取るほどインフレばかりが拡大し、一向に景気が良くならない「スタグフレーション」という現象が生じるようになってしまったのです。
 この結果、ケインズ経済学は批判を浴び、新古典派経済学が復権し、「新しい古典派(New Classical)」と呼ばれ、1990年代には先進国で主流になりました。その内容は、「新自由主義」と呼ばれているもので、民営化、規制緩和を推進し、財政支出は削減して「小さな政府」を目指す、というものです。1980年代に、イギリスのサッチャー、アメリカのレーガンが目指したのがそれで、日本では鈴木善幸政権に始まる「行革」や中曽根政権の「国鉄・電電の民営化」や「橋本行革」を経て、小泉政権の雇用流動化政策や郵政民営化に代表される「構造改革」で決定的に推進されました。このとき、各国では保守系の与党に対立するのはずの政党が、新自由主義に反対するどころか「新自由主義の不徹底」を主張するなど世を挙げて新自由主義政策が推進されていったのです。
 さて、そんな世相の中、1990年代に、日本が先進国の先頭を切って、戦後初めてデフレ(持続的な物価下落)に突入したのです。ところがこれは、それまでの「ケインジアン vs 新しい古典派」の対立の枠組みでは説明のつかない現象でした。どう説明がつかないのか、ここで著者はその内容をきちんと説明します。
 まず、ケインズ派では、例の「不完全雇用均衡」が生じる理由を「物価や賃金の下方硬直性」に求めていました。このため、実際の物価や賃金が均衡点まで下がらず、そのため買いたくても高くて買えない。雇用したくても賃金水準が高くて雇用できない、だから「不完全雇用均衡」が生じるのだ、というわけです。
 一方の「新しい古典派」の方は、この「不完全雇用均衡」が生じる理由を「物価や賃金の下方硬直性」に求めるところまではケインズ派と同じですが、このような下方硬直性が生じてしまう理由は、政府が余計な規制をしたり労働組合が競争を阻害するからだ、と主張し、それが新自由主義政策を推進する根拠となったのです。
 ところが、1990年代の日本のデフレは、このような説では説明がつきませんでした。なぜなら物価も賃金も、需要不足を反映してどんどん下がっていった(すなわち下方硬直性は特に見られなかった)からです。ところがここで改めてケインズの著書を読むと、賃金がどんどん下がると(すなわち下方硬直性を撤廃させると)失業率が落ち着くなどとは一切書かれておらず、ますます事態が悪化すると書かれていた。つまり「物価・賃金の下方硬直性悪者説」は「新しい古典派」の思い込みに過ぎなかった、というのです!
 そこでケインズの著作を改めて読んでみると、不況になって失業が溢れる理由は、今日「流動性のわな」と呼ばれている現象、すなわち人々はオカネを持つと、その増えた分を手元に抱え込んで消費に使わないし投資にも使わない、という現象が起きるからだ、というのです。つまり、物価が下がると将来物価が下がってから買うほうが得なので「買い控え」が起きるし、投資も、外に貸し出すというリスクをわざわざ負わなくても物価が下がって相対的にオカネの価値が上がるので同じことになるので、結局消費も投資もせず、オカネのまま手元に残しておく方がよい、となります。この結果、総需要が減って、ますます景気が悪化する、というわけです。
 グルーグマンは、日本のデフレを見て、これこそ「流動性のわな」に陥っているのだと診断し、ここから脱出するための策として「インフレ目標政策」を提案します。この提案の要諦は、日銀がこのインフレ目標値を公開で宣言することにより、「人々に将来のインフレの実現を信じさせる」ところにあるというのです。
 長くなりましたので、一旦ここで切ります。         (続く)
270:mespesado : 2018/01/28 (Sun) 19:21:37 host:*.itscom.jp
>>269
 さて、著者は次に日本における小泉「構造改革」対「リフレ派」の対立構造に進みます。
 グルーグマン以降、日本でも同様の主張をする人が出てきて、著者もその一人である、これらの人々は「再びインフレにする」ことを目指す、という意味で「リフレ派」と呼ばれることになった、と言います。
 そして、この両者の一番の対立軸は、小泉「構造改革」派が日本の長期不況の原因を「生産性の低迷(=供給不足)」にあると主張して更なる競争を煽ったのに対して「リフレ派」の方はその原因を「総需要の不足(=供給過多)」にあると看做したところにある、と看破し、金融緩和や財政支出による総需要拡大策を提唱したわけです。
 ところが、時の小泉総理はインフレ目標政策を「いざインフレになると制御できなくなる」と言って反対します。また、時の速水日銀総裁も「良いデフレ」論者で「強い円」論者であり、金融緩和にも乗り気ではありませんでした。そんな中で小泉政権は「構造改革」を断行し、不良債権の徹底処理や公共事業の削減、国債発行額の抑制などにより不況が深刻化します(最後のは後に撤回)。このため、経済政策を担う竹中平蔵が金融政策に限ったリフレ政策を取り入れるようになり、2003年に就任した福井日銀総裁は量的緩和を本格的に拡大します。
 しかしながらこのときのインフレ目標は「0%」で、「消費者物価指数が安定的に0%以上となるまで継続する」というものでした。今のアベノミクスの2%に比べると何と気弱な、と思われますが、それでも人々の将来予測がデフレからインフレに変わったそうです。このことを著者は「ブレーク・イーブン・インフレ率」という指標の推移グラフが2004年以降はプラスになっていることを示すことにより説明しています。そしてこの結果、政府の雇用流動化政策のせいで賃金は抑えられていたものの、財務省の円売りによる円安政策の援護射撃により大幅な円安になり、輸出が増えて景気が拡大し始めました。ところが2006年に日銀が量的緩和を止め、続いてゼロ金利政策も止めたため、再び「ブレーク・イーブン・インフレ率」が下がり始め、景気は後退し、そして2008年のリーマンショックを迎え、日本経済は奈落の底に落ちたわけです。
 そんな状況のもと、2009年に民主党への政権交代が起きます。ところが最初の鳩山政権は「事業仕分け」に代表されるように、緊縮志向を進め、次の菅首相になると、ギリシャの債務問題が起きたのを盾に財務省と新自由主義勢力に脅されて、2010年の参院選で「消費税増税」を掲げて大敗します。そして翌年の東日本大震災の不十分な復興予算、野田政権の財政再建志向、そして置き土産のような消費税増税を決めて「自爆解散」、という経済政策としては最悪な結果を残して民主党政権は終わりました。
 ここで著者はとんでもない事実を暴露します。それは、菅政権が増税路線に舵を切った原因の一つである2010年の主要国首脳会議などで、ギリシャ問題が大きな議題になり、そのため先進国が一斉に緊縮財政に方針転換したことに菅さんも影響を受けたのですが、この緊縮財政に方針転換した背景には、「国の借金が対GDPで90%を超えると経済成長率が急落する」とするハーバード大学で出た論文が影響を与えたのだそうです。ところが何と、2013年になって、この論文の結論が実はエクセルの集計ミスによるものであるということが発覚したというのです!
 こんなことに踊らされて民主党がせっかく当初「4年間は消費税増税しない」と公約していたにもかかわらず、その約束を破って有権者に見放された、何とも言いようのないピエロであった、と著者はこの章を結んでいます。        (続く)
271 名前:mespesado 2018/01/28 (Sun) 22:50:16 host:*.itscom.jp
>>270
 さて、この第5章について論評していきたいと思います。この章の記述は新古典派から今日の復活ケインズ理論までの経済学の研究史をとてもコンパクトに纏めていて、大変わかりやすい解説になっています。
 そして、その解説が明確であるがゆえに、既存の経済理論そのものの問題点が明らかになってしまっています!
 まず最初の新古典派の主張する「市場にまかせていれば、価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスする」という部分ですが、これって冷静に考えれば、「価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスする」ことと「景気が良好な状態にある」こととの間には何の関係も無いですよね?
 なぜなら、「市場にまかせていれば、価格メカニズムが働いて需要と供給がバランスする」というときの「需要」や「供給」というのは消費者や生産者にとって「本意」な需要や供給であるとは限らないからです。
 恐慌ではない通常時でも、(特に日本以外では)貧富の差が激しく、貧しい人たちはオカネが無いので欲しいものも買えず、結局買えるオカネを持っている人たちの間だけで需要と供給がバランスしているだけですから、このバランス状態が維持されているからといって、すべての人が「満足している」わけではありません。貧しい人は消費を「諦めてしまっている」だけです。
 恐慌における「不完全雇用均衡」というのは、単にこの「消費を諦めてしまっている」人たちの範囲が拡大しただけのことであって、通常時と仕組上何の違いもありません。なので、そもそも新古典派が「神の見えざる手」などと形容した需要と供給のバランス理論は、そもそも景気が(消費者が満足する消費ができるという意味で)正常に維持されることを保障する理論ではなかったのです!
 では、この「不完全雇用均衡」で金融緩和政策や財政拡大政策を実施すると、なぜ景気が正常に戻るのかというと、これらの政策で、政府がオカネを一定の国民に配ることになるので、その配られた国民は、今までオカネが無くて消費できなかったのが、オカネを得て消費ができるようになり、「消費を諦めてしまっている」人たちの範囲が縮小するからに他なりません。
 しかし、この「消費を諦めてしまっている」人たちの範囲の縮小には限界値があります。それは恐慌でない通常時における「消費を諦めてしまっている」人たちの範囲がその限界値です。なぜなら、生産力がもともと「通常時に消費できている人」に行き渡る分しか生産できていないからこそ、それ以上の「消費にあぶれた人」は、消費したくてもモノが無いので消費できなかったのですから。(オカネやモノの価格というのは、モノが入手できるかできないかをモノが買えるか買えないかという言語に翻訳するためのツールでしかありません。)
 ということは、金融緩和政策や財政拡大政策をずっと続けても、「消費を諦めてしまっている」人たちが、この「限界値」に到達したら、それ以上いくらオカネをばら撒いても、肝心のモノがそれ以上存在しないんですから、それ以上消費できる人は増えません。それでも無理にオカネをばら撒けば、限られた生産物を巡ってセリになり、物価が上昇するのは当然で、これが、限界値に達したのに金融緩和政策や財政拡大政策を続けたらインフレ(スタグフレーション)になってしまった理由です。
 ですから、こんな「当たり前のこと」が起きただけのことに過ぎないのに、これを見て、やれケインズ経済学は破綻しただの古典派が息を吹き返しただのという経済学の発展史というのは、「あんた、一体何を見てんの?」としか思えません。その後の「賃金の下方硬直性」が原因だとするケインズ派の仮説も見当違いも甚だしいですし、それを日本のデフレを観察して修正したという「買い控え」理論もトンチンカンです。
 なぜなら、前にも繰り返し説明したように、生鮮食品等は買い控えできません。そうではなくて、日本人は特にそうなのでしょうが、生産力(供給力)が需要に追いつくと、右肩上がりの高度成長が終わり、企業は売り上げが増えないんですから給料も増えるとは限らない。それどころか増えない消費者のパイを巡ってパイの食い合いが始まるから、企業の収支は不安定になり、その結果労働者の賃金も不安定になるので将来が不安になり、企業も家計も将来のためにオカネを溜め込むようになるわけです。
 日本人ならこういう機序はすぐにピンと来ると思うのですが、日本以外では、日本人ほど将来を不安に思って消費を控えるという性向がないようですから、欧米の経済学者がそのような視点を持たなかったのも無理はないと思いますが、それなら何で日本人の経済学者がそれに気付かないのかというと、結局日本における経済学というものが海外の研究の「受け売り」だからではないか、という気がしています。
 かなり既存の経済学に対して大胆なことを書いてしまいましたが、私には、どう考えても上記のような疑念が拭えないでいます。      (続く)
277:mespesado : 2018/01/30 (Tue) 00:15:24 host:*.itscom.jp
>>271
 さて、新自由主義の緊縮財政に対抗して出てきた「リフレ政策」ですが、この「リフレ」すなわち再びインフレを、という政策は果たしてリフレ派が主張するような機序で効果を挙げているのでしょうか?
 再びインフレを、というのですから、リフレ派の人たちはインフレを「良いこと」だと考えているわけですよね。しかしそれは「デフレ」が「悪いこと」だから、その逆のインフレが良いことだ、という単純な考えに基づいていないでしょうか?
 インフレが「良い」という理屈は、前々回 >>269 で説明したように、人々に将来インフレで貨幣価値が下がると信じさせることによって、貨幣価値が下がらないうちにモノを買おうという意欲を引き起こして消費を増やす、というのがそのカラクリだと考えられているようです。またこの話にもなぜか「財政の健全化」の話が出てきて、国の借金がインフレになると目減りするからよい、とまで言われています。
 実際、アベノミクスでは、リフレ政策の一番の目玉として、インフレにするために財政緩和・金融緩和と称してオカネを市場に大量にばら撒きます。いわゆる第一の矢と呼ばれている政策です。そして事実、オカネを大量にばら撒いた結果として確かに景気は良くなっているのですから、論より証拠、リフレ政策のインフレ目標政策は効果があるように見えます。
 しかし上記の理論どおりだとすると、オカネを増やすとまずインフレになるはずです。で、ちゃんとインフレになっているでしょうか?
 1980年から2017年(10月)までの年平均インフレ率は次のとおりです↓
http://ecodb.net/exec/trans_country.php?type=WEO&d=PCPIPCH&c1=JP
 これを見ると、2014年に2.76%と突出していますが、これは消費税増税分ですから、実は全然インフレになっていないことがわかりますね。
 それじゃあ、実際にはインフレになっていなくても、消費者が将来インフレになると予想して、「駆け込み」で消費を増やしているでしょうか?
 実質消費支出の指標で見ると、推移は以下のとおりです↓
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=55384?site=nli
 全然増えていませんw
 つまり、インフレを起こそうとして実施した財政緩和・金融緩和政策が、実際はインフレもインフレ期待による消費増も引き起こしていないのです。しかし、それでもなお景気は良くなっているのです。どこが良くなったのかというと、一つは賃金です↓
http://www.murc.jp/thinktank/economy/forecast/indicators/indicators_170309.pdf
 所定内給与は2015年から確実に増加しています。
 次は輸出額です↓
http://frequ2156.blog.fc2.com/blog-entry-169.html
 2017年は前年とほとんど変わりませんが、2014~2016にかけて、確かに増加しています。
 つまりこういうことです。輸出企業を中心に収益が増え、その中で余裕のある会社から賃上げが行われた。しかし消費は増えていない。
 つまり、企業の利益が増えたことにより、確かに景気は向上し、内部留保が十分溜まった企業から順番に、賃上げや雇用増によって従業員に還元し始めたけれど、肝心の「消費」は増えておらず、リフレ論者の肝心の主張である「インフレ期待」で消費が増えるという機序は何ら働いていない、ということです。
 つまり緩和政策は、うまく景気向上に結びついたので結果オーライではあるけれど、経済学者の考えた機序は、実は机上の空論だったわけです。
 以上で第5章の評論を終え、次回からはいよいよ最終章である第6章の論評に進みます。      (続く)

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