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大岡信氏の訃報に接して(2) 大岡氏、置賜の印象を語る [思想]

すっかり忘れていたのだが、昭和62年、宮内幼稚園を会場に大岡氏を招いて開催された「詩人の会」、その時の講演録を読んだら、ワインですっかり酔っ払った私が質問を発して、それに対して大岡氏がそれこそ丁寧に答えておられるのがしっかり記録されていて驚いた。ほんとうに全く忘れていたことだった。

大岡氏の一通りの話が終って懇談の場に移り、私の前にどなただったか記憶にないが、宮沢賢治と信仰についての質問があった。これについても多くを語られているが、中にこんな発言もあった。
《宮沢賢治は、稲が凶作の場合、或いは風雨があっても耐えられる強い茎を持ち、そして一つの穂から多くの米が探れるようにする為にはどうしたらいいか、死にもの狂いで考えて、そして薬品を調合して農民に与える訳ですね。/ しかし、その年は運悪くひどい凶作の年であった。つまり天候がメチャクチャだった訳ですね、それで彼は、その為に肺炎になって死んだ。あれは自殺とみてもいいようなものなんです。》

私が聞いたのは、まず置賜の印象。

*   *   *   *   *

日本の詩歌を語る

「言語の神秘性」


置賜のイメージ

 ――前に井上ひさしさんとお話する機会があった時に、井上ひさしさんにとって一番大事な文学者は宮沢賢治さんだ、とたしか ”さん” づけで言われました。その井上さんや吉本隆明さんなどと関わりのあるこの置賜を、大岡さんの観点で捉えて、どんなイメージを持たれたでしょうか。

 大岡 ひさしさんはよく知っている方ですが、置賜生まれとは知りませんでした。私は、山形の方には前にも来たことがあります。真壁仁さんがまだ御存命中で、山形の方で詩人たちの小さなグループの集りで話したりしたのですが、真壁さんという方は本当に山形県らしい、良い仕事をなさっているなと思っていました。それから酒田出身の吉野弘さんという詩人は、十数年来の仲間で.まあ、ひさしさんも含め何人かの人を通じて、大体山形の人っていうのは感じとして分るんですね。

 しかし、ここは初めて伺った。初めて伺って、こういう所でいきなり話をした訳です。

置賜は良い所

 僕は初めて置賜へ伺ってこういう所でいきなり話をした訳です。その場合どういう事を感じるかっていうとですね・・・僕にとって置賜っていうのは、ここにいる皆さんなんですね。そうすると、ここにいる人々が聴衆として非常にレベルが高い、だから置場は良い

所だ・・・と、つまりそういうことになるんです。

 これは話をするとよく分るんですね、皆さんの方からは僕一人しか見えない訳ですね、殆んど。僕は全部の方のお顔が見えていて、話をしてる時にどういう状態で自分のイルカ語がこの人達に入って行くかがよく判る。それで行くとこの置賜という所は、非常に立派

だと思った訳ですね。これは別に、おもねて言ってる訳じやないですよ。

良い聴衆とは

 今.日本の文化水準がだらけている、駄目になったっていう話がいろいろありますね。若い人が本を読まなくなったとか、いろんな話を成す人がいましてね、私はそういう説を聞く度に不思議で仕様がないですね。

 何故かというと・・・私は講演というのは余りしないんですけど、それでも朝日新聞の関係で言えば三ヶ月に一度、『折々の歌』を読む会が都内の大きなホールであって、二千円も払って私の話を聞きに来る人がいるんですね、それも五百人位いるんです。自分だっ

たら、金払って誰かの話聞きに行くなんて絶対しない。だけど僕の話を聞きに来てくれる方がこんなにいるっていうだけてびっくりする訳です。

 その人々の顔を見ていると.非常に真剣だけれども同時にリラックスして聞いてくれてる。これは聴衆としては最高なんですね。それで判断しますと、つまりリラックスしてるってことは、非常に成熟してる訳ですね、聴衆が。学生達は、まだ成熟していない場合はすごく真剣なんですけども後で聞いてみると、私の話なんか何も聴いていないんですね。そういう学生がいますよ、一年生に入った位の大学生だと。

 そうじゃなくて、分ってる聴衆だってことはすぐ分る。顔を見ると。向いあっていると分るんです。そういう意味で言うと(日本のいろんな所へ行っていろんな経験しますから)、本を読む人が少なくなったとかいう理由で、日本人の今の知的な活動が衰えているとかいう話を成す人は、多分よほど講演が下手とか、或いはその人の書いた物が売れないとか、非常にみじめな人だと思うんですね。だけど、なんか社会的には、不思議な事に名声がある人で、こういう人は沢山いる。こういう人が又、大声を上げるんですね。 

高い知的レベル

 僕は自分が戦争中だった中学生の頃からずーっと思い返して見ますと、今の日本位、大勢の人が知的レベルの高くなっていた時代というのは無かったと思う。もう、絶対、日本歴史の上で最高だと思う。本を読まなくなったって言われますけど、そんな事はない。少

くとも僕の本は売れてます。或る程度。

 それはやっぱり、読んでくれてる人が居る訳ですね。何十万部も売れて蔵が一杯建つとか、そんな事は絶対ありませんね。そんなに売れたら、逆に危険だと思う。確実に読んでくれてるっていう人が、もう殆んど顔も分る。つまり僕がイルカになっている気分で言えば・・・、そういう人の顔が分るという感じで本が売れてる状態が一番良い訳ですね。

 まあ、そういう嘆く人は小説家やなんかで、数年前まで非常に小説が繁栄していたから、今落ち込んで来るとそういう嘆きを言うのかも知れないけれど、僕みたいに現代詩人なんていうのはですね、昔から今に至るまで売れないのが当り前で、原稿料くれるだけでも

すごく有難いという風に思ったものです、昔は。

 そういう時代から考えてみると、今は、知的活動が衰えてるとか本を読まないとか言われている事は、違うと思うんですね。

違う分野での読書

 今.人々が本を読まない.知的活動が衰えていると言われているのは、僕は違うと思う。というのは、講演会などに来る聴衆の年齢層が、大学生位から七十、八十、九十歳位の方まで色々ですね。それぞれの人がそれぞれの形で話なら話を聴きに来て、それで面白がって帰る、或いは「あいつは馬鹿だった」と言って帰る。それで良い訳なんです、そういう事がかつてあったか。どこにもありませんでした。日本中、かつて無かった。

 今,東京が一番ひどいと思うんですね.僕は。惨たんたるものになっているのは、東京だと思うんですけど、それでもカルチャーセンターとか・・・僕はそういう所は呼ぱれても行かない様にしてるんですけども、行ってる人の話を聞けば、非常に熱心な人が来てる。ずーっと続けてやってるんですね。

 そういう事から判断すると、人々が本読まなくなったっていうのは、文学の、小説とか詩とか、そういうものは読まなくなったかもしれないけれど、もっと違う分野の知的な刺戟に満ちたものを非常によく読んでるんですね。それは本の形であれ、雑誌の形であれ読んでいる。そういう人々が非常に多くなっている。

 だから、若い人が本読まなくなって、今は駄目になったっていう様な事を聞く度に、非常に腹が立つんですね、一般的に言って非常にレベルが上っていると思うんですけど。

 しかしごこで拝見する方々の年齢的なことで言いますとね、平均年齢が非常に低いですね。一般的に言って東京などの場合は、平均年齢が高いです。つまり東京の場合には若い人が、文学とか何とかそういう話を聴くよりも、もっと直接的に、手軽に面白いことが

一杯あって、そちらに行ってるんですね。

 そういう意味で言うと、あまり沢山遊べるものがあるっていぅ所は、確かに問題があると思います。しかし、ここにいらっしやる方々を拝見すると、非常に程度が高いんだっていぅ風に思いますね、それがまず、置賜についての印象です。



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