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日本最初の渡来仏像「善光寺如来」は置賜に在る!? [熊野大社]

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山形新聞毎週月曜日連載の「ふるさとの文化財」、今週(1/30)は米沢市・法音寺の「金銅五鈷杵・金銅五鈷鈴」だった。《米沢市御廟I丁目にある法音寺は上杉家の菩提(ぼだい)寺で信州善光寺(長野市)から伝わったという善光寺如来を秘仏として祭る。如来尊善光寺の本尊とされた貴重仏像だが、上杉謙信と武田信玄による川中島の合戦(1564年)の際、戦火を避けるために謙信が保護、後に上杉景勝が米沢に移したとされる。この如来尊と一緒に伝来した善光寺如来尊付属宝物があり、その一部が密教法具の金銅五鈷杵と金銅五鈷鈴。》とある。この機に「善光寺如来を秘仏として祭る」ことの重大さをあらためて認識すべき時であると思う。なぜなら、6世紀(BC552)、百済の聖明王より欽明天皇(539-571)に仏像や教典などが贈られた事実をもって日本への仏教伝来とされるが、その時の仏像がその「善光寺如来」なのである。「貴重仏像」その極みである。その後仏教受容をめぐって蘇我対物部の争いが起り、物部氏ら廃仏派によって難波の堀江に捨てられていたのを、信濃の本田(多)善光(若麻績東人とも)によって拾われた。信濃に運ばれて自宅に安置していたが、後に皇極天皇(女帝/642-645)によって善光寺が建立され、その御本尊として安置されるようになったと伝えられる。『善光寺縁起』に皇極天皇が地獄に堕ちていたのを善光が現世に呼び戻したという話があります。善光とは善光寺を創建した人です。/蘇我氏と物部氏が仏教導入で争い、難波の堀江に捨てられた仏像を信濃に持ち帰ったのが本田善光です。ところが、善光の長男の善佐が突然亡くなります。悲嘆にくれる本田夫妻を、阿弥陀如来(難波の堀江から連れ帰った仏像)が不憫に思い、地獄の閻魔に命令して、善佐を蘇らせることになりました。/善佐は「この世」へ戻る道すがら、“鬼に引き立てられて地獄へ堕ちていく高貴な女性”とすれ違います。尋ねると、なんとそれは皇極天皇でした。生き返った善佐から話を聞いた善光は、阿弥陀如来に女帝の助命を願います。そしてめでたく女帝は蘇生されました。皇極天皇は善光・善佐の手柄を褒め称え、善光の家の場所に、立派な如来堂を建立する詔を発せられました。これが「善光寺」の始まりです。http://blog.livedoor.jp/mappkakr-kaikatudo/archives/67441112.html


それからおよそ900年経って、上杉謙信対武田信玄の川中島合戦は、そもそも善光寺如来の争奪戦だったとも言われている。(天文221553の最初の戦いで、善光寺を支配していた栗田氏は、北信濃の豪族と同様に上杉方についた。/ 弘治元年1555の二度目の戦いでは上杉軍は、善光寺に近い城山に陣をしいた。この時、栗田氏は旭山城に逃れたのである。謙信は春日山に戻るに際して、善光寺の仏像や仏具を越後に移し、直江津の五智に善光寺を建立した。/ 一方の信玄は、弘治31557の戦いにおいて、善光寺を後方の葛山城を落とし、善光寺一帯を支配した。信玄は善光寺如来を甲府に移し、やはり善光寺を建立した。栗田氏や大本願の上人も甲府に移り、善光寺はすっかり寂れてしまったのである。/ 両雄がこうも善光寺にこだわったのはなぜなのだろうか。善光寺如来は、その縁起によると、三国伝来の生きた仏といわれ、古来より多くの信仰を集めてきた。創建は奈良時代と推定されるが、その後ここは多くの聖たちが立ち寄る聖地となり、彼らの力もあって、その信仰は全国に広がった。/ 鎌倉幕府を開いた源頼朝は善光寺を深く信仰し、戦乱で焼けた善光寺を再建するのに力を尽くした。自らも善光寺に参拝したと伝えられ、門前町には、その伝説を伝える場所が多く残っている。/ もともとは民衆の熱狂的な信仰を集めた寺であったが、時の権力者も帰依したため、その名声はさらに強まったのである。信玄や謙信もまた善光寺如来を深く信仰した。一般に戦国時代の武将は神仏への信仰心が厚い。明日の運命も知れぬ身であったから、自らの幸運を神仏に託したのであろう。/ 戦国武将たちは多く起請文というものを残している。起請文とは神仏への誓約書である。部下にもそれを書かせている。宗教的な権威を借りて、自らへの忠誠を誓わせると同時に、自分も宗教的な権威に守られることを祈るのである。だから神仏を味方につけるということは、戦いの勝利を約束するもとして重要なことであった。http://sinsyuugositee.naganoblog.jp/e604670.html川中島五回の合戦の内3回目、弘治元年(1555)の戦いで上杉軍は、善光寺に近い城山に陣をしいた。この時、善光寺別当職栗田氏は旭山城に逃れたのである。謙信は春日山に戻るに際して、善光寺の仏像や仏具を越後に移し、直江津の五智に善光寺を建立したという。

http://sinsyuugositee.naganoblog.jp/e604670.html そしてそれから歴史を経てその仏像・仏具は、いま置賜に在る。 

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平成24年に長野県立歴史館で求めた『善光寺信仰―流転と遍歴の勧化(かんげ)」という開館15周年春季企画展の図録の中の「第三場 善光寺と戦国大名」のトップは宮内熊野大社の写真。ページをめくると、熊野大社所蔵の仏式御輿と華鬘(けまん)。御輿には「善光寺如来を信濃国善光寺から上杉領に遷したときに如来を運んだものとされている。戦国時代に武田氏と善光寺争奪を繰りひろげた上杉氏との関係をしのばせる。」、華鬘には「山形県南陽市の熊野大社に伝わる仏堂を飾る仏具。『善光寺』の銘がみられ、御輿とともに信濃国善光寺から当地へもたらされたものと伝えられている。」という説明がつく。さらに次のページには「幡・瓔珞(ようらく)複製(原品は南陽市熊野大社)」。わざわざ長野県立歴史館で複製までして保存しているのに驚く。


上杉藩は、秀吉の命により慶長3年(1598)越後から会津に移った。置賜は直江兼続の所領となる。宮内に入ったのは兼続の母の実家尾崎の一統。尾崎家のあった飯山は上杉・武田対立最前線。宮内熊野大社の善光寺関連仏具は尾崎家とともにもたらされたと思う。どういう経緯で米沢に遷されたのかはともかく、わざわざ御輿だけを運んでくることはありえないわけで善光寺如来がこの地に移ったことはまちがいない。最近前田慶次関連で米沢万世町堂森の善光寺が注目を集めるようになったが、信濃からの奪還運動への対策として善光寺を身代わりにし、その通路であるこの町を信濃町と名づけ、本物らしく見せかけたという説があるそうだ。http://yyw.jp/old_name/ekimae/14.html 善光寺如来争奪戦は土地を替えても決着がついたわけではない。

 

それからさらに350年経った昭和17年、米沢御成山に御堂を造営してそこに善光寺如来を祀ろうとの運動が起きたことがある。当時発行の小冊子があるはず。しかし戦争の最中ということもあり頓挫して、今は法音寺に在ることになっている。一方信州は信州で本尊が上杉氏とともに置賜に遷されたなどとは誰も思ってはいない風だ。善光寺如来は秘仏中の秘仏で幾重にも布にくるまれ、誰も見た人はいない。「善光寺由来記」などに、秘仏本尊は「厨子で七重に包み、その(厨子)の中に綾飾金欄で七重に包まれている」と書かれている。これは元禄年間、本尊実在か否かを調べるため、東叡山寛永寺からやってきた役人が深夜に厨子を開け調べた時の報告というが、その時は置賜に遷された後のことで証拠があるわけではない。法音寺の高梨良興住職は米沢西部幼稚園の理事長を務めておられるので、お会いした時に「ほんとうに善光寺如来はあるのですか」とお訊ねしたところ「あります」と断言された。しかし、住職も実際に拝観したわけではないとのことだった。住職は婿に入られた方と聞く。実は戦後のどさくさの中で長野に遷されたとの話を聞いたことがある。以来ずっと気になっていることなので、長々と書いてきた。このたびネットで調べているうちに、長野は長野で奥歯にもののはさまった物言いがあるのを知った。平成14年に善光寺の門前で開催された小林一郎長野郷土史研究会副会長による講演会「どうして長野に善光寺があるのか」で、参加者から「善光寺の本尊は秘仏だというが、本当にあるのか?」との質問が出され、それに対して小林氏が「長野市として善光寺の古い歴史について、明確にできない理由がある」と話されたということだ。いずれ真相はあきらかになると思いたい。謎深い尾崎の歴史とも関わり、宮内の人間としても大きな関心事である。


↓「宮内よもやま歴史絵巻」(写真クリック拡大)

善光寺神輿.jpg


以下は、思い出すきっかけを与えてくれた山形新聞記事。

*   *   *   *   *

善光寺、上杉ゆかりの法具 


 米沢市御廟I丁目にある法音寺は上杉家の菩提(ぼだい)寺で信州善光寺(長野市)か伝わったという善光寺如来を秘仏として祭る。如来尊善光寺の本尊とされた貴重仏像だが、上杉謙信と武田信玄による川中島の合戦(1564年)の際、戦火を避けるために謙信が保護、後に上杉景勝が米沢に移したとされる。この如来尊と一緒に伝来した善光寺如来尊付属宝物があり、その一部が密教法具の金銅五鈷杵と金銅五鈷鈴。いずれも鎌倉時代の作とみられる優れた金工品で善光寺や上杉家と関わりがあリ歴史的価値が高い。1953(昭和28)年、県有形文化財に指定された。

 越後(新潟県)の春日山城主だった謙信は春日山にお堂を建てて善光寺如来尊を守護したという。法音寺は奈良時代の737(天平9)年、越後に創建され、後に上杉家の祈願寺となって春日山に移された。1601(慶長6)年、国替えに伴い上杉景勝が米沢に移ると法音寺住職も追従した。

米沢藩初代藩主となった景勝は謙信の遺体を祭る霊廟(れいびょう)を米沢城本丸に造り、謙信が崇拝した善光寺如来尊と泥足毘沙門天尊(どろあしびしゃもんてんそん)を遺骸の左右に祭った。さらに二の丸の一角に法音寺ほか真言宗21カ寺を建立。景勝の葬儀で法音寺住職が導師を務めると、それ以降の歴代藩主の葬儀でも導師を務め、菩提寺となった。寺は1870(明治3)年、神仏分離令などに伴い上杉家廟所(墓所)の前の現在地に移築。その後、謙信の霊廟が上杉家廟所の中央に移転された際、霊廟に祭っていた善光寺如来尊や泥足毘沙門天尊をはじめ金銅五鈷杵、金鍔五鈷鈴などの法具、仏画など数々の宝物が寺に託された。

 五鈷杵と五鈷鈴は護摩祈祷など密教の儀式で使われる。五鈷杵は元はインドの武器で仏の知恵の力を象徴し煩悩を滅ぼすとされる。両端に尖った刃が五つあるのは五鈷杵、三つは三鈷杵、一つは独鈷秤と言う、五鈷鈴は五鈷杵の一方に鈴を付けたもので、鈴の音によって仏心を呼び覚ますという。法音寺の金銅五鈷杵は長さ約17㌢。製作年月日は記されていないが「善光寺如来埋阿(リあ)」と刻印されている。金銅五鈷鈴は二つあり、ともに高さ約23㌢。一つには「貞応三年甲申(じょうおうさんねんきのえさる)八月十八日」の銘、もう一つには「仁治二辛丑(にんじにかのとうし)八月丗(さんじゅう)日」「善光寺願主法橋禅智」の銘がある。両方ともほぼ同じデザインだが、貞応3年は1224年、仁治2年は1241年で製作時期に17年の差がある,鬼面や仏を表す種子(しゅじ)を彫刻し、蓮華や唐草模様を細かく施してあり、神秘的な雰囲気が漂う。法音寺・中興44世住職の高梨良興さん(75)は「金銅五鈷杵と五鈷鈴は精巧かつ丁寧な作りが際立ち、信州善光寺にあった時には大法要の時のみに使用された貴重な法具だったのではないかと思う。上杉謙信の遺体を納めたかめのそばに供えてあったとも言われており善光寺如来尊とともに大切に守っていきたい」と話した。

【追記】善光寺遷座旧跡 http://shinden.boo.jp/wiki/善光寺遷座旧跡 善光寺如来の歴史が表に整理されていて大変わかりやすい。現在は米沢法音寺に在ることになっています。

『法音寺の宝物と歴史』より

善光寺如来 法音寺史料.jpg


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