若き鷹山公の素顔が見えた! [上杉鷹山]
12月13日「林修の今でしょ!講座」で歴史学者の磯田道史氏が、大河ドラマにしたい偉人として、板垣退助と共に上杉鷹山公をあげたという。林さんが「江戸時代の2000藩主の中でぜひ大河ドラマに取り上げてほしい藩主が居ます・・・」と言ったところでCMになったので、ひょっとしたら鷹山公?と思いつつテレビを離れてしまったのだが、あとでやっぱり鷹山公だったことを知った。あらためてその番組について検索してみて、その中で、鷹山公の治世の成果の証しとしてイザベラバードを登場させていたことを知ってうれしかった。
いま米沢市上杉博物館で(12月10日から2月12日まで)、開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」が開催されている。17日に小関悠一郎千葉大学准教授の講演会「上杉鷹山の改革と学び—『富国安民』論とはなにか—」を聴いてきた。お父さんが元山形大の英語学の教授で南陽市教育委員の小関文典さん。若い悠一郎先生、講演内容のすべて盛り込んだ資料を用意して下さって復習するのにありがたい。いろんなことを知ることができた。
内村鑑三の『代表的日本人』の種本が、明治26年(1893)発行の川村惇著『米沢鷹山公』であったことをはじめて知りました。川村は朝野新聞主筆、その前年米沢を訪れ、明治26年3月23日から6月2日までの連載記事をまとめて10月に刊行したとのこと。「足ひとたび米沢の地を踏み、上杉鷹山の治蹟今猶ほ民心を感化するのを観るに及んで、想古の情、更に益々切なり」とし、田園はよく整備されて耕作が行き届き、蚕桑製糸業が大変盛んに行われており、明治維新を経て社会が大きく変貌したにも関わらず、米沢では鷹山の治績がいまなお地域の産業の基礎であり続けていると述べているという。イザベラバードが来たのが明治11年、それから15年経っていますが、二人の眼に映った置賜が同じに見えたようでうれしい。
高鍋藩の「存じ寄り」もはじめて知った。家中士に積極的に藩政に対して献言(意見の具申)、献策をさせる「下意上聞」の体制という。鷹山公が上杉家の養子となるにあたり、その心構えを説く高鍋藩の養育係三好善大夫が公に贈った訓戒書もその伝統があってのことだった。
その伝統は鷹山公とともに米沢藩にも引き継がれたのだろうか。講演後展示をゆっくり観て回ったが、23、4歳の鷹山公に対する莅戸(のぞき)善政による建言書案が展示されていた。年寄の苦言の対象であるごくあたりまえの青年の姿がそこに見えてくる。以下展示説明から写しておきます。
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もっとしっかりしなされ!!
10.莅戸善政建言書案
安永3年(1774)3月13日 上杉博物館蔵
〔解説〕
藩主となって7年目、24歳の上杉鷹山に向け、小姓頭ののぞき善政が記した意見書の下書です。
冒頭では、良い政治も時に行われ、米沢藩の「中興」と鷹山を称えた上で、いつも申し上げる通り、政治に心を向けないことは大患だとして、以下の助言を記しています。
①.これまでの政治は家臣を頼ってぱかりだったが、鷹山白身が政治に心を注ぐこと。
②家臣や諸役人が尽力しても、君上(鷹山)が努力しなければ、「砂山を上り、虚空をつかんで天に昇ろう」とするようなものだ。
③日常、「あらぬ無駄口話、軽口はずみ」に時間を過ごし、自分の意見がない。
④学問の意味が分からないのか、ただ本を面白いと読み流すだけで、政治に応用していない。
⑤服装や仕草が江戸風ともいうべきか、俗にいう色男、伊達男、あるいは「女郎」のようなので、威儀を正すよう注意すること。
かなり手厳しい意見です。しかし、当時の社会規範として、家臣は君主のためになることは媚びることなく意見し、君主はそれを受け入れることが、望ましい君臣関係とされていました。その他の文書からも、家臣たちが政治姿勢や日常の言動について、鷹山に厳しく意見した様子がうかがえます。
皆見てるよ、格好に注意して
11.莅戸善政建言書案
安永3年(1774)7月3日 上杉博物館蔵
〔解説〕
資料10に続き、およそ四か月後に記された意見書です。先の意見書提出後も鷹山から何の御沙汰もないが重ねて意見書を出す、とあります。資料10の内容は、実際に鷹山に提出されたようです。
この二つ目の意見書では、家臣の意見を聞く態度、人材育成、財政、家臣の反対、文武の奨励、さらには日常の服装にまで九ケ条にわたり細かく注文を付けています。
三章で紹介するように、この頃から、鷹山の「善政」は藩外にも知れ渡っていきます。鷹山は優れた君主として世間の注目を集める一方、それに見合った日常の言動を強く求められていくのです。
〔翻刻〕
一 大殿様より被進候火事御帽子被為召髪思召に被成御座候哉、何とて御好ハ被仰遺候御心を不被用候事歎敷次第御座候、御国民の 奉仰侯ハ民のためにハ綿衣一汁一菜をも被為用、御物すき不被遊、花美を御制被遊侯とて、尊ひ仰たるにても無御座候哉、然に風俗花やかの御帽子に相応の御羽織を被為召、御■御腰二被為差候ハヽ、少年行、公子行の詩に可被為入御粧ニハ為在ましく候哉、御名誉天下に轟候得者、明君よ賢君よと諸国の人も■ニミちて可奉見上候、御恥敷ハ不被思召候哉、諸国の評判者夫迄ニも御座候、御供之米沢人ハ奉見上間敷候哉、御心を不被用候事歎敷侯
〔意見の大意〕
①家臣が命をかけて意見をしているのに何の御沙汰もなく、不快な顔をしていては「御聴に垢つき侯はじめ」、意見する者がいなくなってしまう。
②指導者や能吏が育っていないのに、人材育成に力を入れず、馬にばかり気を配っている。
(③、④略)
⑤去年七朔(七家騒動)後、また同じような事態が起こりうるのに、油断しては一大事である。
⑥君主の好悪が領民に移るのだから、道徳仁義文武など諸事注意して好悪を選ぶこと。
⑦武芸奨励の触と御用懸の任命があったが、ご自身でご覧になり達者な者を称えることが大切。
〔展示部分〕
⑧大殿(重定)から頂戴した火事御帽子にあわせ、派手な格好をなさるのか。世間の人も「明君よ、 賢君よ」と見上げるのに恥ずかしくないのか。
⑨密かに、女子の服を着たのはなぜか。煙草入れを鼻紙入れで包んで袖に入れていたのは、大名の男子らしくない。
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これを見て、白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会の発足時にお聴きした遠藤英先生の講演を思い起こした。
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