もろもろ見えてきた物質主義の限界 [神道天行居]
かくべつな意味
友 清 歓 真
拝啓 ちかごろは日一日と人間の生活から潤ひが消えて行き、ひからびた物的幸福への妄執のみ強くなり、春のあけぽのの花の匂ひのやうな美しい愛から遠ざかつて行く世相を見せつけられることは慨(なげ)かはしいことでございますが、それもこれも、所詮は私どもの本統の愛の足らぬ反影でありませうから、その点お互ひに且つ省み且ついましめねばならぬことと存じます。
やがて来らんとする暴風の前、静かなるベタニヤの村の小宴は、イエスと其の周囲の人たちに清らかな感激をつつましく秘めた美しい繪でありましたでせう。マルタの妹のマリヤは高価な香油の壷を砕いてイエスの足にぬりました。ユダは憤って「なぜそんな無益なことをするか、この油を売ったら三百デナリの金が得られる、その金で貧しい人々を助けることが出来るではないか」と申しました。イエスの弟子となって三年、日夕その崇高な人格と愛と教へとに恵まれた十二使徒の一人ユダは悲しくも物質主義から目ざめることが出来ませんでした。しかもユダの言葉は一応論理的であり、多少の同感者をも獲得したでせう。しかし、けっきょくユダはイエスにそむきやがて自身も気の毒な結果になりました。口頭では立派なことをいっても、ユダと其の一味のものは、金銀以上の価値あるものを見ることが出来ませんでした。
山間の明月、江上の清風、金銭に換算できないものを愛する人々によって、人間性は守られて行かねばなりません。
かくべつな意味に於いて、あなたの御健勝を祈ります。
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マドモアゼル愛さんもイエスに関心が向いたようです。私の思いとも重なりました。
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20150910
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教会の教理とイエスの言葉の違いに違和感を覚えたことが昔からあって、自分勝手にイエスの言葉を読んできたのですが、ドストエフスキーも獄中で聖書を精読したらしいのです。
そして、イエスほど暖かで素晴らしい人間はいない、、、というような感想を語っていたと思う。
私も昔からそう思っていて、結局、今の時代というか、この二千年の間、キリスト教は広く世界に広まったものの、本当のところのイエスはむしろ隠されてきている、、、、ことを実感しています。
素晴らしいものを乗っ取り、その名を借りて悪事を働く、、、、そうした構造がこの二千年間の隠されたスタイルだったと思うのです。
美辞麗句、言葉だけ、スローガン、イメージ、、にだまされてきた二千年。
イエスをもう一度復活させることはとても重要な気がします。そんなこと私ひとりにできるわけはないのだけど、それぞれのイエスがいてもいいと思うのです。
私が知ったイエス、、、私が感じたイエスを、聖書のイエスの言葉から探っていく試みを機会があるごとにやってみたいと思います。
時代は何を壊そうとしてきたのか、、、、それは、魂の喜びであり、生きがいであり、感動だった気がします。
魂の感動をスポーツの感動に置き換え、魂の喜びを怠惰な喜びに格下げさせ、愛を低俗な欲求に変えさせて、、、、時代を支配する方法。それがピークに達した印象があります。
そのためには、イエスを奪う必要があったのでしょう。東京カテドラル教会ができた時、私はこれが教会なのか、、、と内心で驚いた記憶があります。
まるで刑務所の中のように思えたからです。古い木造の教会は壊され、近代的な鉄筋の教会になっていった、、、、すべての魂のふるさとを違った感動のないものに置き換える作業が、おそらく意図的に行われていたように感じられます。
その根本は、イエスの抹殺だったという直観。大したことは言えないとは思いますが、私が感じたイエスを語りたい、、、、そんな思いがふっとわいてきました。
イエスの語った内容はほとんどが逆説です。この世の苦しみは反対の喜び、、、この世の喜びは何か大事なものを捨てているという構造。
悲しんでいるものは幸いである、、、彼らはなぐさめられるであろう、、、
山上の垂訓の一部ですが、イエスの言葉にあふれるやさしさ、愛、逆説の人生観、、、それは本当に素晴らしい人情であり、真理だと思われます。
人間イエスに迫りたい、、、なんだか不思議な思いがわいてきましたので、いつとは言わず、ことあるごとに語らせていただくことにいたします。
どうかよろしくおねがいいたします。イエス? なんだかつまらない、、、、とお思いの方も多いと思いますが、ちゃんと話せば本当に面白いんです。
あくまで私のイエス像ですが、読んでいただけたら幸いです。
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