童謡「ナイショ話」/結城健三と結城よしを [宮内よもやま歴史絵巻]
帯に「藤井重夫『童謡の啄木』より」として、次の文が引いてあった。
《・・・民間放送のラジオ・テレビが新発足したころ(昭和26年)は、”童謡のベストセラー”といわれた。どこの局にスイッチを入れても、かならずこの「ナイショナイショ」のかわいらしいメロディーがながれていた。いまでは、昭和期に作られた古典的傑作童謡として、隠然たる地歩を占め、相変わらずよく電波に乗り、レコードも売れているという。
ところが、この童謡の作者は? と訊ねると、十人が十人とも知らない。西條八十、野口雨情、さては北原白秋など、つまり『かなりや』『証城寺の狸囃子』『この道』などで知られる、有名な童謡作詞家のうちの、だれかの作だろうというのが、オチである。
じつは、この童謡を電波で耳にし、絵本で眼にしてなれ親しむうちに、私は「結城よしを」という「ナイショ話」の作詩者に、どうしてもいちど会ってみたくなった。私は、文学にかぎらず、芸術はすべて”作品ハ人柄デアル”というのを、信条にしているので、これほど愛らしい童謡を作った人は、どんな人柄なのだろうか、とあれこれ想像しながら、対面の日を楽しみにしていた。・・・》
巻末に『結城よしを全集』編集部による解題がありました。よしをとその評価を知る上で貴重です。
《童謡「ないしょ話」を耳にして、この不朽の名作を知らぬ人は殆んど無いといえようが、作詞者結城よしをの名を知る人は意外に少ない。
よしをの来歴については、本全集の、解説事項も付した「年譜」に詳しいので、ここでは重複をさけ、簡潔にあらましを記しておくにとどめる。
結城よしを(本名、芳夫)は、大正三年三月三十日、健三長男として山形県東置賜郡宮内町で出生。小学校時代は漫画家を志したが、高等小学校を終えると、市内の八文字屋書店へ住み込み店員として就職。本を沢山読めるのがその理由で、事実手当たり次第本を読み耽った。童謡を書き始めたのはこの頃からで、地元新聞を舞台に投稿熱は高まり、東京で発行の詩話雑誌に採り上げられるようになり、「時雨夜詩夫」のペソネームで、縦横に童話・随筆・批評などに、意欲的な執筆活動を展開した。昭和十二年九月、よしを十七歳の折には、西條八十の創刊の辞を得て、童謡誌「おてだま」を創刊して意気揚がるものがあった。
「ないしょ話」が評判をとったのは、二年後の昭和十五年、よしを十九歳のときである。
こうして太平洋戦争が始まる五ヵ月前、昭和十六年七月、よしをは軍隊にとられることになるが、軍律きびしいなかにあっても、その創作力は昂まる一方であった。北方の涯から南方にかけての、一船舶兵としての記録である航海日誌の膨大な執筆量をみてもそれは首肯できるのである。
昭和十九年、小倉の病院で病没するまでのわずか十年ばかりの生涯においてよしをは、寸時もたゆむことがなかった。モの執筆量はまさに驚嘆に値する。
歌人でもある父健三氏の述懐はそれを証して余りある。「よしをは戦争に行ったのではなく、まるで軍隊へ手紙や日記を書きに行っとるようだ」と。
幼少の頃から、軍隊生活に至るまで、余暇を盗んで「せっせせっせ」とペンを走らせるよしをの創作力はすさまじい限りである。
また「よしをは、わたしたちが何十年もかけて生きる一生を、わずか十年足らずで生きてしまったのです」という健三氏の言やむべなるかである。
まさにその通りで、軍務の合間の、通信紙やはがきに書かれた童謡やノート類に書かれた日誌等々夥しい量にのぽり、それら遺稿は五千篇とも推定され、夭折の詩人のその生が、短期間に成し遂げる業績の道筋に似ていなくもないのである。 夭折のこの詩人は、没後モれも戦後になってまったく紹介されなかった訳ではなかった。昭和三十二年の「婦人朝日」(八月号)は「″もう一人の啄木″物語」のタイトルで、昭和五十一年七月にはNHKの「スポットライト」で「戦場からきた童謡」として放映され、翌五十三年の「家の光」(八月号)は「〈ナイショ話〉慕情」を、健三氏のインタヴューや出演を通じて、いずれも童謡詩人としてよしをを紹介している。記事・放映の内容等については、本全集の「年譜」を参照されたい。これ以外にも地域的に新聞・雑誌に紹介されたが、概して作詞者が誰かという点については、世上あまりに知られていなかった、といっていい。
この知られざる作同家にとって、先にその名を公にとどめる機縁となったのは、昭和三十年九月二十四日、東京日比谷公園野外大音楽堂で行われた日本音楽著作家組合主催の「物故作詞作曲家合同慰霊祭」であった。その模様を、『月と兵隊と童謡』所収の「よしを小伝」はこう伝えている。
北原白秋・野口雨情をはじめ、『荒城の月』の作詞者土井晩翠、作曲者流廉太郎、『宵待草』の竹久夢二、『鄭子の実』の島崎藤村、『軍艦マーチ』の作曲者瀬戸口藤吉、『カチューシャの唄』以後、幾多の名曲で親しまれてきた中山晋平ら、合祀された七十四名のなかに結城よしをの名が見える。
午後一時、日本音楽著作家組合一委員長大村主計氏の「開会のことば」によって会は開かれた。委員長堀内敬三氏の挨拶、友人代表西條八十氏、同じく山田耕作氏の挨拶が続く。会は、故人をしのんでの曲目演奏に移る。童謡五曲、童謡舞踊三曲、歌曲七曲、歌謡十一曲、オーケストラ演奏二曲が日比谷の大ステージで華やかに演奏された。この時、″結城よしを″の評価はまさに公認されたと言える。不朽の名作『青い目の人形』『夕やけ小やけ』に続いて四番目、結城よしをの『ナイショ話』が、東京放送管弦楽団の伴奏、作曲者山口保治氏の指揮、歌手羽崎共子さんによって、甘く、かわいらしく流れたのだった。
よしをの遺言は「童謡集を本にして欲しい」という切実な希いであったが、本全集以前の刊本は、童謡集『野風呂』と小品集『月と兵隊と童謡』の二冊に限られ、その後の父健三氏や家族の切望にもかかわらず、ダソボール箱三杯もあろうかと思われる量の遺稿の整理に困惑し、一部は印刷前に消失したものまであったという。
爾来、平成二年に至って、父健三氏の慫慂(しょうよう/しきりにすすめること)によって、残された遺稿の全容に接することになり、ここに一年余を通じてようやく全遺稿を整理して成稿となし、『結城よしを全集』全一巻として編集、刊行に漕ぎつけた次第である。
従来、「戦後の童謡史」や年表などの記載は、発表された作品名を列記するのみで、その評価に触れることが少なかった。それは資料不足のもたらした故であろうが、今回この全集の刊行によってその弊が除かれるであろうことを希い、これを基に新しい評価が期待されるのである。》
【追記 26.12.4】
今朝の山形新聞です。
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