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「南陽の菊まつり」百年(4) [菊まつり]

十一、起死回生に向けて――平成十八年の実験

菊まつり宣伝チラシ ラスタライズ [更新済み].png

菊まつりが街に下りてくる」宣伝チラシ(平成18年)

 

 平成十八年(二〇〇六)と十九年、新配水池建設工事のため菊人形会場である双松公園が使えないことになり、三十八年ぶりに町中に降りて開催することになった。市役所、高校が移転し、大型店にも圧され、さらに不況の慢性化ですっかり元気をなくしていた宮内に、菊まつりの間だけでも賑わいをとり戻せるかもしれない、かつての繁栄を知る五十代六十代を中心に二十代の若手も加わり十数人の有志が立ち上がった。三月末から毎週木曜日を定例日と定め計画を練った。行政そして観光協会長をトップとする菊まつり検討委員会も有志たちの意向を汲み取る姿勢を示した。かつての会場だった鳥居の場はイベントの場とすることとし、菊花品評会も菊人形展も石黒電気跡地とすることにした。企画書が当時の意気込みを伝える。


  *  *  *  *  *


「ときめく菊まつり観て味わうニッポン」企画案

                                

「菊は宮内、あやめは長井、ばらの名所は東沢」と花笠音頭にも歌われる南陽宮内の「菊まつり」。日本でも有数の歴史を誇り、今年で九四回を数えます。全国的に低落傾向の「菊まつり」ですが、菊づくりも菊人形も、多くの先人によって受け継がれ、また伝えてゆかねばならない日本の大切な文化です。折りしも熊野大社御再建千二百年の今年、会場が双松公園から鳥居の場を中心にした街中に戻ることになりました。今年の菊まつりを、すばらしい観光資源になりうる宝の山でもあることを再確認するきっかけとしたいと考えます。「スローフード」「スローツーリズム」あるいは「ロハスLifestyles of Health and Sustainability」の流れもわれわれの味方です。町をあげて「菊まつり」を盛り上げ、町活性化に向けた大きな飛躍の機会とします。

 

  ◎テーマ「ときめく菊まつり観て味わうニッポン」

 

 日本人は古来、香りつつ立ち枯れてゆく菊の花に、安らかに長寿を全うする生の理想を見てきました。穏やかな中に凛として心鎮まる花、いかにも日本的な美しさ、菊花は天皇家の御紋章が十六弁の菊であるように日本を象徴する花です。そして、今年千二百年祭を迎える宮内熊野大社の御紋も十四弁菊に三つ巴、「南陽」の名も中国河南省南陽に流れる不老長寿の霊泉「菊水」に由来するという、菊の花にとりわけ縁深い当地です。江戸期から菊の栽培が盛んで上杉藩主に菊花を献上し褒美を賜った記録も残ります。大正初期には菊人形が飾られ、菊花品評会もはじまり、菊花の進歩改良をめざす会も結成されるようになりました。以来「菊の宮内」として全国に名を響かせ、菊まつり期間中は町じゅうが湧いたものでした。久しぶりに街に降りてくる「菊まつり」、あの祭りのときめきを取り戻します。さらに観るだけではなく、置賜の豊かな食文化も体験していただきます。日本らしさが息づく街をゆったり歩いてもらい、日本の食文化をじっくりと味わっていただく、「スローツーリズム」「スローフード」も堪能していただく「ときめく菊まつり」です。

 

  ◎基本コンセプト

  一、「菊まつりルネッサンス」

 全国的に低落傾向の菊まつりを上昇気運にのせることのできる魅力ある菊まつりとし、五万人入場を達成します。

  二、「もてなしの菊まつり」

 熊野参道を中心に町全体が会場となるように、町を挙げてのもてなし体制をつくります。 

  (中略)

 

  ◎菊人形場面  「みちのくの歴史と伝説―伊達・上杉・熊野信仰」をテーマに構成。

 

  (中略)

 

  ◎街全体が菊まつり会場となる雰囲気づくり

 (一)熊野参道の石畳と電線のない町並の強調。

(二)通りに面した各種売店、食べ物屋の設置。お茶等の接待。

  1. 通り両側を花垣、すだれ、のれん、日除け幕等で飾り「日本らしさ」を演出。

(四)各商店会の創意工夫を引き出す。

 

  ◎万人を目標にした誘客作戦

 (一)話題づくり

   ①「日本で一人、こだわりの菊人形師 菊地忠男」「菊づくり一筋 青木 孝」を前面に                                      押し出した宣伝。

   ②熊野大社千二百年祭と連携しつつ、みちのくの日本文化再発見。

   ③まんじゅう、そば、鯉等 地元食文化に結びつけた宣伝。

()市民の協力体制

   ① 家族前売券一世帯一枚運動(地区長会の協力)

  ② 市外の人招待キャンペーン(家族券の活用)

   ③ 語り部、えくぼの里案内人の協力

   ④ ボランティアの組織(婦人会、食改、南陽高・・・)

  ⑤ 商店会の協力体制

()効率的なPR方法の工夫

  ①「菊人形の観方、楽しみ方」「菊花観賞法」等についての講演機会をつくる。

  ② 前売券(特別券)を早めにつくり、押し花展に間に合わせる。

  ③ 県への協力要請(「ゆとり都」によるPR等)

  ④ 旅行業者、旅館との提携

   ⑤ ケーブルテレビの活用

  ⑥ インターネットの活用

  ⑦ 仙台等伊達政宗関連地域への重点PR

 ()容易なアクセスへの工夫

   ① 道路沿いへのユニークな看板設置

   ② 長井線利用者の無料化(チラシに列車時刻表掲載。入場券を赤湯駅で販売)

 

    ◎オープニングイベントの開催

 菊まつりのスタートダッシュを期して、若い感覚も取り入れた話題性に富むイベントを考える。

 

    ◎キリン・グリーンアンドフラワー(株)との提携

 アグリバイオ事業を世界的規模で展開するキリン・グリーンアンドフラワー(株)の協力を得て、新世代にも支持される新たな菊のイメージをアピールする。


   *  *  *  *  *

 

 何より菊人形師菊地忠男も加わっての計画づくりは画期的なことだった。それまで菊まつり実行委員会と菊地との間は互いに「敬して遠ざける」風があった。しかし共に作り上げるのでなければ菊人形に魅力を取り戻すことは出来ない。菊地も理解した。

 地元の人が行ってみたい菊人形、そのために地元の歴史に関わりある場面をつくったらどうか。テーマを「みちのくの歴史と伝説 伊達・上杉・熊野信仰」とした。そして次の六場面ができた。

菊人形名場面.jpg

 

 第一景 上杉鷹山 棒杭の商い(置賜無人直売所の起こり)

 第二景 名僧虎哉和尚と梵天丸(伊達政宗の夏刈資福寺時代)

 第三景 平維盛都落ち(宮内 照明寺伝説より)

 第四景 鏡仕掛け(懐かしい人形変化、久々の復活)

 第五景 鎌倉権五郎景政 歌舞伎十八番「暫」(熊野大銀杏を手植えした権五郎)

 第六景 上杉謙信と熊野獅子(謙信公が戦場で熊野獅子を珍重したとの伝えから)

 

 懐かしい屋台店の復活、現代版棒杭市、農家の直売店、熊野大社宝物展、バイオ先端技術による菊・特殊菊の展示、菊と市民のカーニバル、だがしや楽校、菊の健康料理試食会、ハイジアパーク出張足湯、青そフェスティバル、フリーマーケット、ミニSL、奉納ふるさと踊り、鍋コンテスト、紅花染め実演会・・・等々、多彩なイベントや飾り付けで町の賑わいがつくられた。

この年の入場者数は、前年より一週間の短縮にも関わらず前年比一、二七七人増の二三、四七五人。一日当たりでは一五七人増の七五七人だった。企画案からみれば実現したのは五〇%強というところか。しかし、全くボランティアの地元民が主体となり、官がそれを応援する形が実現した菊まつりになった意義は大きい。

 翌年春、町の盛り上がりが思いがけない副産物を呼び込むことになった。宮内の賑わいのために使って欲しいということで、宮内出身の篤志家から南陽市に五千万円の寄付の申込みがあったのだ。平成十九年六月南陽市皆川健次菊まつり振興基金条例」が制定され基金が運用されることになった。さらに皆川氏から別途資金提供により、地元の同級生有志が中心になって、「南陽の菊まつり」応援団としての「菊とあゆみ(前進)の会」が結成された。「菊とあゆみ(前進)の会」は全国に呼びかけて会員を募集、集まった約百人の会員への菊まつり情報の発信や大菊の鉢植え福助仕立送付のほか、菊まつり会場では「花びら枚数当てクイズ」を企画実施する等、「南陽の菊まつり」にとって得難い力になりつつあったのだが、十九年十月皆川が亡くなったことから、三年間の活動で解散のやむなきに至った。

 平成十九年、この年も町中での開催だった。菊人形が昭和四十三年以前と同じ鳥居の場に戻った。菊まつり本体は官主導に戻り、地元ボランティアの取組みは種々のイベントが主体となった。多くのイベントが組まれ、前年にも増す民のエネルギーが注ぎ込まれたが、菊人形自体の魅力を引き出すことは出来なかった。

 

十二、「菊まつり」の可能性

DSCF8699-001.JPG

大のぼりはためく100回記念会場周辺

 

 平成二十年(二〇〇八)から三年間は双松公園で開催された後、平成二十三年から宮内地区の東南約2キロ、市民体育館に隣接する中央花公園での開催となった。この年の入場者数は、二週間の短縮にも関わらず前年より三、〇九〇人増の二一、八一〇人、一日当たりでは、四四二人増の九四八人となり、入場料が前年までの大人七〇〇円が三〇〇円になったこともあるが、入場者数を見る限り将来への足がかりを得た年となったといっていいのではなかろうか。

 かつての雄、枚方も二本松も尾道ももう第一線にはない。菊人形が飾られ、入場料をいただく「興行」としての菊まつりの名残りをとどめるのは、南陽のほか、北海道の北見、茨城の笠間稲荷、福井の武生、南砺、それに名古屋。南陽の踏ん張りを支えるのは「全国一の歴史と技と文化を誇る・・・」、その「誇り」が大きい。今年の宣伝チラシには「未来へ伝えたい技がある。つなげたい文化がある。」とある。菊人形の伝統、菊づくりの文化に支えられた菊まつりを守ろうとする使命感が伝わる。今年、第四十八回となる「一般社団法人全日本菊花連盟全国大会」が初めて南陽市で開催される。競技花となるのはその名も「南陽の光」。会場周辺には三間(五・四m)の大のぼり一〇〇本がはためき、全国から集まるお客様を迎えるにふさわしい華やぎを演出する。歯を食いしばってがんばっていれば、きっと未来は明るいと思いたい。なんといっても、菊は桜とともに日本の国花なのである。

 

おわりに

 

 宮内郷土資料館『時代(とき)のわすれもの』を主宰する鈴木孝一が蒐集した資料を中心にまとめた、いわば「南陽の菊まつり史序説」である。「南陽の菊まつり」のほんとうの調査研究はこれからと考える。百年の歴史は重い。掘り起こし始めればきりがない宝の山にちがいない。この稿がヒントとなって、菊まつりに関心をもってくれる若い人が出てきてくれればと願う。菊まつりの未来はそうした若い人の出現にかかっている。

 

*歴史の中で取り上げた方の敬称は略させていただきました。

 

〈参考文献〉

・「昭和二十三年度版 宮内町勢要覧」(宮内町 一九四九)

・「南陽市史 下巻」(南陽市 一九九二)

・「南陽市史編集資料 第七号」(南陽市 一九八二)

・錦三郎「山色清浄」(みちのく書房 二〇〇七)

・「漆山製糸業の歴史」(おりはたの里づくり推進会議歴史部会 一九九四)

・森芳三「羽前エキストラ格製糸業の育成」(お茶の水書房 一九九八)

・川井ゆう論文「山形の菊人形」(日本玩具研究学会誌「人形玩具研究 20」 二〇一〇.

・「宮内商工会青年部 歴史と顔」(南陽市商工会青年部宮内ブロック 一九八六)

 

〈参考データ〉

菊まつり入場者数の推移

菊まつり入場者数の推移.png 

 

 


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