大下一真師から山崎方代(ほうだい)について聴く [メモがわり]
このところ、「週刊置賜」創刊30周年を祝う会でいっぱいいっぱいだったが、一昨日無事終えた。
昨年の2月、加藤社長も気付かぬうちに1500号の節目を越えていた。「来年の30周年はなんとかすんべね」。そう言った以上、ずっと宿題になって頭の中を占めていた。
今年の1月、「宮内の歴史を語る会」の帰途、粟野収吉さんに持ちかけ、実行委員長は同じメンバーの長老格鈴木隆男さんにお願いすることにして、語る会のメンバーを中心に2月25日、実行委員会がスタート。それから間もなくの3月11日だったが、気持ちを立て直して進めてきた。実行委員会は5回を重ねた。話し合いは1時間くらいで終えて、そのあと1,000円会費で飲みながら何ということはなく語り合った和やかな会だった。(いつも料理を届けてくださったH.I.さん、ありがとうございました!)
200人の大目標だったが、ほぼ達成した。5、10、20周年の時よりもずっと多い。今回の実行委員の層の厚さによるところが大きい。それも30年蓄積の重みといえる。
大下さんの亡くなった二人のお兄さんと加藤社長が学生時代の仲間同士で、その縁で大下さんは「週刊置賜」創刊当初から、原稿料なしで「短歌コラム」を一号も休むことなく書きつづけてくれている。10周年の時にもお出でいただいた。その時はスピーチだけだったので、今回はまともなお話を聴こうということだった。「この時代に思うこと」という演題でお願いしていた。
大下さんと関わりの深い山崎方代(ほうだい)についての話だった。近々全国レベルの短歌の会合で同じ内容で話されるとのことだった。
山崎方代については、大下さんの経歴書で見た以外全く知らなかった。勝手に「まさよ」と読んで女性とばかり思っていた。俳句の山頭火や放哉の流れに置かれる歌人のようで、近年人気が高まっており、昨年5月には山梨県立美術館で回顧展が開かれている。
ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺の底にゆられてわがかえる村
にょうぼうという細長きへらをもてひとり背中を掻いている
兄弟の多い貧しい家庭で育ち、戦争で片目失明、片目0.01の視力、結婚することもなくぎりぎりいっぱいのうちに生涯を終えている。
なるようになってしまったようである穴がせまくて引き返せない
やにが天井から垂れ落ちるほどのヘビースモーカーだったという。Ⅰ日200本とか。
瑞泉寺の和尚がくれし小遣いをたしかめおれば雪が降りくる
大下さんの先代住職が方代をかわいがり、訪ねてくると小遣いをあげていたという。先代は大きな建物が嫌いな人で家族の病気にも見舞いに行かなかったのが、方代には大下さんを伴って病院に行った。そのとき方代が「和尚さまの書は憶良の書に似ている」と言った。それを聞いて和尚さんは大下さんに山上憶良の書について調べさせたが、大下さんの友人の島田修三いわく「そんなものはない」。けっこうそういう嘘をついていたらしいという。和尚さまの善意を憶良のこころに重ね合わせた結果の嘘でなにかうれしい。
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
「ほんとうだろうか」と大下さんは言っておられた。
無理に「この時代を思うこと」を大上段にでなく、方代さんの歌に即して語ってもらったことがかえって、「この時代に思うこと」に適っていた。歌だけ見せられてもおそらくなかなか解らない。大下さんのさりげない紹介が、今の時代にいかにもふさわしく、方代さんが魅力的に心に染み入ってきたありがたい1時間だった。ぜひ講演録を「週刊置賜」に掲載してもらわねばと思う。
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