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雲井龍雄評価の気運? [雲井龍雄]

久しぶりに行った書店で「藤沢周平の世界24 雲奔る 小説・雲井龍雄 幕末を駆けた悲運の志士」を見つけて買った。
平成16年の12月に米沢市で岡田幹彦先生による雲井龍雄についての講演会を開催した。そのことを含めて雲井龍雄については以前このブログでも取り上げたが、講演会に向けてつくった資料データが眠っているはずと思い引っ張りだしてみました。ひょっとしたら藤沢周平ブームに乗って雲井龍雄も注目されつつあるのかもしれませんので。

 

 

 

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●講演会の趣旨

岡田幹彦先生は、歴史上の人物について、どこまでも肯定的な視点から見つめることでその人物に共感し、その共感を土台に、だれにもわかりやすくその人物像を語り伝え、全国各地で多くの感動を与えつづけておられる在野の歴史研究家です。県内では、十数年前から毎年山形市で講演会を開催してこられたのですが、平成十三年からは」南陽市にもおいでいただき、これまで鷹山公、西郷隆盛、勝海舟をテーマに語っていただきました。このたび米沢市で開催する講演会は、昨年おいでの折、次回はぜひ雲井龍雄について語っていただきたいとお願いして実現するものです。

今日本はどこに向かおうとしているのか、大きな岐路に立っています。なぜこうなったのか、その遠因をたどるとどうしても明治維新に行き着きます。そうした中、いま明治維新見直しの気運も起こっています。――明治の元勲とは、外国勢力を背景に権謀術数の限りを尽くして生き延びた人たちだった。動乱の中で斃れていった志士たちの中にこそ真の義はあったのだ。大義が見えなくなった今の日本の淵源は
明治政府にある――

 明治政府を義とすれば雲井龍雄は「反逆者」であったかもしれません。しかし、本来日本人とは何なのかを問うとき、いずれに義があるか。曇りなき眼で雲井龍雄を見つめてみたい。雲井龍雄は藤沢周平が言うような「遅れて来た志士」ではなく、これからの時代を切り拓く先覚者なのではなかったか。われわれの中に眠っている日本人としての魂を、米沢が生んだ烈士雲井龍雄によって揺さぶり起こしていただきたい。そうした願いをもって開催する講演会です。
  

●雲井龍雄(くもい・たつお/1843-1870)
山形県米沢市生まれ。実家の中島家から幼くして同藩の小島家の養子となったが、生活は裕福ではなかった。陽明学を学び、安井息軒の三計塾に入り、同門の谷干城、人見寧、山井善輔らの友人と交わった。やがて、新政府ができかかると、地方各藩代表の議政官をつとめた。その後、意見書がいれられず、奔走し、長州を味方につけた。戊辰の戦いで、戦争の責任を問われ、米沢に監禁された。のち自由の身となると、後進を教えたが、時勢をうれい、情熱を抱き上京し、旧友、同志と連絡をとった。まもなく、集議院に入り、太政宮の諮問に応じる役につくが、知己を得ることができず、辞職した。やがて、望みを果たす前に捕われ、斬首の刑に処せられ、悲惨な最期をとげた。二十七歳であった。

●岡田幹彦
昭和21年北海道に生まれる。國学院大学中退。学生時代より日本の歴史および人物についての研究を続け、月刊『明日への選択』に「上杉鷹山」「勝海舟」等を連載するとともに、各地で歴史人物についての講演活動。私心無きお人柄と、徹底した人物研究に裏付けられた日本人の魂に響くご講演によって、全国に多くのファンを集めておられる。 現在、日本政策研究センター主任研究員。著書に『西郷隆盛』『東郷平八郎』『明治のサムライたち』(日本政策研究センター)『東郷平八郎 近代日本をおこした明治の気概』『乃木希典 高貴なる明治』(展転社)等がある。

●龍雄の師、安井息軒(寛政十一(一七九九)~明治九(一八七六))と米沢
幕末~明治初期の儒学者。日向・飫肥藩の藩儒から、昌平黌の教授になった。「管子纂詁」、「左伝輯釈」、「論語集説」、「息軒文
鈔」などの著書がある。「読書余適」は、天保十三(一八四二)年の七月二日から八月二十三日までの五二日間にわたって、東北地方を旅行したときの日記である。米沢での記述がある。息軒は、米沢に入った前日の日記に、天保七‐八(一八三六‐七)年の飢饉で東北地方には数万人の死者が出たが、会津・米沢の二藩には一人の餓死者もなかったこと、とくに米沢は豊かで、政治のあり方がこの結果をもたらしたものであることを述べている。このため、堅実な米沢藩政の基礎を作った上杉鷹山に特別な敬意を抱いていたようである。 以下、米沢での記述である。

 … 橋本伯恭・飯田世坦(米沢藩の藩士であろう)来り、申牌(午後四時ごろ)、導いて国黌(藩校)を観す。廟堂、寮、塾、尽く具はる。其の大聖殿の匾(扁額)は即はち鷹山公の書する所なり。昔人、其の人を思はば、其の樹を敬す。況や手沢をや。公、学を好
み、尤も師儒を敬重す。其の師・紀徳民(細井平洲)、嘗て米沢に来る。公、鹵簿(行列)して之を郊に迎ふ。曰く、「今日、先生の
為に前駆す」と。 騶(御者)に従ひて屏去し、歩みて之を導き、且つ行き、且つ顧み、以て子城に至る。観る者、堵(かきね)の如し。皆、公の尊きを忘れ、平洲の道を以て自ら重んずるを嘆ず。其の政績に至りては、府朝之を賞し、輿人之を誦す。今また逸事を摘せるは、其の治の自ら有るの見はるを云ふなり。既にして一小室に入れば、教授・坂千丈の輩、来会せり。古本漢書を観るに、模印精明、注家尽く具はり、葉毎に欄後に篇名を著す。其の紙は堅靭にして、簾紋無く、朱紙にて之を装す。乃ち、宋板の佳なるものなり。之を聞くに、文禄中、其の大夫(家老)直江氏(直江兼続)、勇にして学を好み、藤(藤原)惺窩ら諸人と交はる。壬辰の役(一五九二年の朝鮮出兵)に、慨然として其の徒に語りて曰く、「我が師(軍隊)独り鮮奴の髯首を芟(と)るを喜ぶ。 これ何ぞ用いる所ぞ。我れ将に至宝を攫り、以て万世に幸せんとす」と。書数筐を取りて帰る。直江氏亡び、其の書は公に帰す。即ち此の本なり。其の装は、蓋し直江氏の改むる所と云ふ。宋板の漢書は、彼(中国)の中にては既に亡ぶ。予の聞く所を以てすれば、漢書の善本は、宇宙間にただ是の書有るのみ。信に、万世の儒者の幸なり。また左伝・史記等有り。亦、直江氏の齎し帰る所なり。時に諸子、宴を輪王寺に設け、督促頗る急なれば、皆、詳を致すに及ばず。因て念ふ、他日、数月の暇を獲て、山井鼎(校勘学者、一六九〇‐一七二八)の「考文」(「七経孟子考文」)の例に倣ひ、精対して一書を為さば、亦、芸林の一勝事ならんと。乃ち之を千丈に謀るに、千丈は唯唯たり。寺に至れば、則ち暮ぬ。僧は雪庭と曰ひ、善く飲む。勝景無しと雖も、地は頗る幽静なり。弦月は山を離れて楼壁に横射し、風涼しく談は清し。亦、此の遊の罕に遇う所なり。

小林 昭夫「らんだむ書籍館」
http://club.pep.ne.jp/~akio.kobayashi/shoseki-10/contents.html

(なお、直江兼続公は、平成21年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公です。)

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●諸家引用による雲井龍雄

◇龍雄の詩魂

雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人となっている。しかし、それが世の中の進歩、教育の発展であるとはわたしにはまったく考えられない。わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。わたしはこれらの人によって日本の詩の近代は用意され開始されたのだと信じている。

詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動にある。その意味において、当今功利の文人が、ためにするところある文学のことごとくは、雲井龍雄の詩心の前に、ほとんど顔色ない。そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬い青年のおぐらくも勁い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。その沈冥鬱屈の情を、今日の青少年は知らねばならぬ。
(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)

◇「討薩檄」

○ 初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏て幕府の大罪とし、今日は公使の
禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
○ 皇朝陵夷極まると雖も、其制度典賞、斐然として是備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謨を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其罪何ぞ問わざるを得んや。
○ 薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥に諸州群不逞の徒、己阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ、綱紀錯乱、下凌ぎ上替る今日より甚きはなし、其罪何ぞ問はざるを得んや。
○ 伏水の事、元暗昧、私斗と公戦と孰れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其公論を定め、罪案已に決して然る後徐に之を討すべし。然るを倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して征東の兵を調発す。是王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其罪何ぞ問はざるを得んや。
○ 薩賊の兵東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せることなく、或は人の鶏牛を攘み、或は人の婦女を淫し、発掘殺戮残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず。猶且靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則を称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
○ 井伊、藤堂、榊原、本多等は徳川氏の勲臣なり。臣をして其君を伐しむ。尾張、越前は徳川の親族なり。族をして其宗を伐しむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり。父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り、今上陛下の初政をして、保平(保元・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪何ぞ問わざるを得んや。

右之諸件に因って之を観れば、薩賊の所為、幼帝を刧制して其の邪を済し、以て天下を欺くは奔・操・卓・懿(何れも支那の叛臣不義の徒)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉(何れも支那の暴徒)に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず。再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。是に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此義挙を唱う。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾くは、我が列藩の逮ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし。若し尚、
賊の篭絡の中に在て、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾は、臨時勇断する処を知るべし。
慶応四年戊辰夏六月
                奥羽越同盟軍総督府 
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注目しておいてよいのは、龍雄がこの檄文で朝廷の「初政」の汚れることを慨嘆してはいても、けっして徳川封建の世に帰そうというような思想は抱いていない点である。世界に対しても、列国の「笑侮」をなげき、薩の尊壊派が欺瞞的転向をとげて英仏に「諂媚」している
ありさまをいきどおっているのであって、いたずらに撃壊の挙に出ようとしているのではない。龍雄の生涯の思想をもって、或いはまた東北列藩の思想をもって、いたずらに封建反動の徒と目して来た世の「進歩的」歴史家は一考あって然るべきではあるまいか。
(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)

◇龍雄の最期

明治二年六月、龍雄は許されて藩校の教師に挙げられたが、いくばくもなく辞職して上京し、政府が新設した集議院に迎えられ、議員(正式名称は寄宿生)となる。かつての貢士の制度が変更され、太政官の下す議案を公議するところである。時の長官は公卿の大原重徳であるが、権判官にかつての友人、稲津渉と三好退蔵がおり、龍雄を推挙したのであった。同僚議員には森有礼、丸山作楽、加藤弘之、津田信道ら、後にそれぞれ明治初期を代表する名士がおり、もし龍雄が、権門と妥協できる性格であったならば、これを機にそれら将来の名士・高官の列に入ることも可能であったかもしれない。が、むろんそれはできぬことであった。居ることわずかに二カ月、龍雄をかつての叛賊として讒する者もあって、憤然辞職する。「集議院の障壁に題す」という有名な詩が成ったのはこの時であり、今日この一篇をわたしらが有していることは、彼がどんな名士に成り上るよりもうれしいことではあるまいか。
        (村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)

  集議院の障壁に題す  
天門之窄窄於甕 天門の窄きは甕よりも窄し
不容射鈎一管仲 容れず 射鈎の一管仲
蹭蹬無恙旧麟騏 蹭蹬、恙なく 旧麟騏
生還江湖真一夢 生きて 江湖に還る まことに一夢
自笑豪気猶未摧 自笑 豪気 なおいまだ摧けず
毎経一艱艱倍来 一艱を経るごとに 一倍して来る
睥睨蜻蜓州首尾 睥睨す 蜻蜓州の首尾
将向何処議我才 まさに 何処に向ってか わが才を試みん
溝壑平生決此志 溝壑 平生 この志を決す
道窮命乖何足異 道窮まり 命乖くも 何ぞ異しむに足りんや
唯須痛飲酔自寛 ただすべからく痛飲 酔うて自らを寛うすべし 
埋骨之山到処翠 骨を埋むるの山は いたる処翠なり

〈大意〉新政府の狭量なことは、つぼまった甕の口より狭い。かつて立場を異にして争った、斉の管仲のようなじぶんを、いささかも容認することができないのだ。しかし、むかし麒麟のごとく天下を駆けめぐつたわたしは、これしきのことでよろめいたりはしない。だいたい生きてこの世に戻ってきたことさえ、夢のようなのだ。それにしても、わたしの豪気はまだくじけていないことよ。うれしいことではないか。艱難のごとに、勇気が増してくる。さて、日本のどこで、わたしの才を試そうか。いずれの地に屍を曝そうとも構わない。道が窮まり不運に遇おうとも、いまさら驚くことではない。ただ痛飲し、心をゆったりと持とう。わたしは遠くの山にむかって登りつづけるだろう。そして、山で死ぬ。その骨を埋める
山は、きっと何処でもみどりだろう。
(松本健一『遠山みどり伝―革命的ロマン主義者・雲井龍雄』)

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   

  呈息軒先生(息軒先生に呈す)
身世何瓢颻 身世何ぞ瓢颻たる
浮沈未自保 浮沈、未だ自ら保ぜず。
俯感又仰歎 俯感し、また仰歎す
心労而形槁 心は労して、形は槁る。
微躯一致君 微躯は一たび君に致してより
不能養我老 我が老を養ふこと能はず。
揮涙辞庭開 涙を揮って、庭闈を辞し
檻車向遠道 檻車、遠き道に向う。
鼎鑊豈徒甘 鼎鑊、あにいたずらに甘んぜんや
平生有懐抱 平生、懐抱するところあり。
此骨縦可摧 この骨は、たとい摧くべきも
此節安可境 この節は、いずくんぞ撓むべけんや。
我命我自知 我命は我自ら知る。
不復訴蒼 P { margin-bottom: 0.21cm } また蒼昊(そうこう)に訴えんや。

 この詩は、雲井が師の息軒に獄中から送るさい、「国元より護送されて、東京の獄に来る時のいとまごいの詩也」と自註しているように、まさしく今生の別れを告げる内容である。 

わが身とこの世、どちらも何とふわふわして、浮くも沈むとも定めがたい。ああ、思いはとめどないにもかかわらず、この身はすでに枯木のごとく倒れてゆく。一身はすでに君にささげたものであり、年老いた親(そして老先生も!)を養うことさえできない。わたしは、こんど永遠に父母の家を立ち去り、獄車にのせられて、都への遠い遠い道にむかうことになりました。そこでは、死がまっているでしょう。けれど、いけにえに烹られようとも、わたしには平生より抱いていた志があります。死はこの骨をくだくことができても、その志を曲げることはできません。わたしの運命はわたしが知っており、春の蒼天にも秋星(秋の高い空)にも訴えることはないでしょう。お別れです、と。
(松本健一『遠山みどり伝―革命的ロマン主義者・雲井龍雄』)

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

ついに七月十九日、大久保利通は、竜雄処断の決を下した。翌日、米沢藩は龍雄檻送の命を受け、龍雄は同じく逮捕された在米沢の同志ともども、厳重警戒のもとに東京に送られ、八月十四日東京米沢藩邸に着し、十六日小伝馬町の牢に幽せられた。途中、脱走をすすめる者もあり、平井襄之助もまた再挙をすすめたが、すでに肺患にかかっていた龍雄は自らの命運定まったことを知って好意を謝するのみであった。

「わが命はわれ自ら知る、復た蒼旻に訴えんや。」あの、透谷が愛誦した「息軒先生に呈す」の結句である。一件に連坐するもの実に七十余名、龍雄の梟首の罪を筆頭に斬刑十三名(他に斬刑のところ牢死者二名、その他生存なら斬に当る者五名、計二十名)に及ぶ大獄であり、その断罪の根拠とする法律のないのに苦しんだ政府は、ついにいまだ公布していない仮刑律の謀反・大逆の罪を当てるという無理なものであった。いまだ三権分立以前のこととて、大久保以下政権の座にあった者の恣意が加わったことはいうまでもない。判決文にも自ずと現れているが「京摂以西騒然たる趣」に見合い、天下不平の徒の見せしめとした跡また歴然たるものがある。

処刑は判決後二日の十二月二十八日。竜雄絶命詩に日く。

死不畏死 死して死を畏れず
生不偸生 生きて生を偸まず
男児大節 男児の大節
光與日争 光日と争う
道之苟直 道の苟直(正しさ)
不憚鼎烹 鼎烹を憚らず
眇然一身 眇然たる一身
万里長城 万里の長城

わたしは古今東西、最高の絶命詩の一つと信じている。斬首に当った八代目浅右衛門の談に、神色自若、まことに敬服に耐えなかったというのも誇張でなかろう。ちなみに、事件に関り深かった広沢参議は、竜雄の死後数日を出ない翌年正月、九段の新邸に妾と同床中、何者とも知れぬ者に斬殺され、今日なおその犯人は不明である。龍雄の一味が、広沢の陰謀を密訴したことを疑い報復したのではないかと言われ、平井嚢之助なども厳重に追求されたが、ついに何の根拠も挙らなかった。おそらく政敵木戸孝允が腹心の三浦梧棲らと計って陪殺したのであろうと見るのが、今日有力な説である。
(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)

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雲井竜雄について云えば、彼は、その詩人的直観力でもって初期明治政権の無批判な欧米文明追随政策と、強権にもとづく武断政策等々の「否」なることを批判し、道義立国」を主張してこのくにの近代国家としてのスタートと同時に斃された。それは十九世紀の半ばに欧米列強の強請によって門戸を開かねばならなかった多忙な明治政権にとって、静かに耳を傾ける余裕などなかったといえるかも知れない。あるいはまた、政治はつねにマキャべリズムによって支配さるべき運命にあるのであって、雲井の「道義立国」の思想のごときは、一種の政治的ロマンチシズムに過ぎないと一蹴されるかも知れない。しかし、私は、雲井のような清冽な政治批判は、たといそれが為政者によって無視され、実現され得ないものであっても、それがそこに存在するという事実だけで、暴走しようとする「政治主義」の歯止めとなり、また一国の政治理念として「みちびきの星」たりうるものと思う。
(判沢弘『宮島誠一郎と雲井龍雄』)


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めい

《今日本はどこに向かおうとしているのか、大きな岐路に立っています。なぜこうなったのか、その遠因をたどるとどうしても明治維新に行き着きます。・・・ 明治政府を義とすれば雲井龍雄は「反逆者」であったかもしれません。しかし、本来日本人とは何なのかを問うとき、いずれに義があるか。・・・雲井龍雄は藤沢周平が言うような「遅れて来た志士」ではなく、これからの時代を切り拓く先覚者なのではなかったか。われわれの中に眠っている日本人としての魂を、米沢が生んだ烈士雲井龍雄によって揺さぶり起こしていただきたい。》と書きました。この思いに通ずる記事がありました。

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歴史を取り戻せ。第二次大戦、明治維新、朝鮮出兵、キリシタン弾圧
http://www.asyura2.com/14/cult13/msg/255.html
投稿者 仙芳丸 日時 2014 年 8 月 13 日 23:41:59: tfZsKI4/C.rBA

311以後、政府・マスゴミの馬鹿さ加減に付き合わされてきた市民は、三年が立った今年くらいから、そろそろ戦争詐欺のカラクリに目覚め始めたようです。
わたしの周りにだんだんと目覚めた人が増えてきていますが、それは、わたしの寺子屋の成果だけではなく、各自が進んで勉強している様子で、だんだんと浸透し、そのスピードが増してきているようなのです。
あれは侵略戦争だった、戦争はよくないこと。こういう擦り込みから逃れた人がたどり着くのは、第一段階として、「自虐史観からの解放」で、中韓北を憎み始めるのですが、その次の段階に進んでいる人が多いです。かれらは的確に偽ユダヤを理解しています。
第二次大戦を平らげたあとは、明治維新を平らげるべきで、大事なのは、戦争はダメ、ではなく、どうして戦争が起こったのか、であって、幕末から明治維新、天皇制導入、西洋技術の注入、軍国化、日清日露戦争とは何だったのか、などなどの方向へ進んで行かねばなりません。
もっと、余裕がある場合には、秀吉の朝鮮出兵、キリシタン弾圧とは何だったのか、あれは、その当時の偽ユダヤ傀儡国家だったスペインと戦うためだったのだ、というところに行き着くのですが、ここにきて、あらかた、日本の歴史を取り戻すことが出来るのです。

終戦記念日を迎えつつある中、憲法9条が大事だ、平和は大事だ、戦争は良くない。そういうフレーズを連中は流し続けていますが、その論点がイマイチ君なのは、戦後の経済植民地と明治維新を肯定してしまっている点です。
歴史を取り戻すことが大事です。プーチンが学校でロシア革命はユダヤ人がやったのだ、との真実の歴史を教えているように、日本人も歴史を取り戻す時が来ています。  

by めい (2014-08-17 03:27) 

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