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ターニングポイントとしての9.11(Ⅲ) [日本の独立]

ちょうどその頃、つくる会の総会で発言の場が与えられ、その機会に当時の思いを吐き出しました。以下、その時の経緯です。

(転載はじめ)

投稿時間:2001/09/20(Thu) 08:05
投稿者名:管理人
タイトル:「日本独自の役割」にこだわりたい

> 「攘夷」とは、「軍事覇権主義国家」を去勢する事でしょうか?、それとも「卑劣なテロ」を無くす事でしょうか?。

№569でよっぱらいさんが書かれました。

>だれかが、ウソついてる。

民主主義では真偽は二の次、三の次です。大きな声であれ、力づくであれ、カネの力であれ、とにかく数をとった方が勝ちなのです。今アメリカ主導で進められている世界の動きを見ながら、「戦争」も「選挙」も同じだなあ、とつくづく思っています。最後は「仲間外れになりたくない」で決まりです。

本来日本はそうした体制を敵として戦ったわけです。

 

 

長谷川三千子先生は言われます。

≪「侵略戦争」というものは、つまりは一種の力学的概念であって、世界中のどこかに力の弱い場ができたとき、すかさずそこに入り込んで陣取りをしてしまう― 言うならば弱い者いじめの戦争形態です。これに対して、「攘夷」とは、まさにそうした「力の侵入」に対抗してこれを追いはらう戦いをさして言う言葉なのです。

 さらに言えば、この後期水戸学に語られる「攘夷」は、単なる「排外主義」ですらない。幕末の心ある日本人たちが、何故、西洋諸国の侵入をきらったかと 言えば、ただ、自国の独立を脅かす危険があったからというだけではありません。彼らの宗教、彼らの政治思想のうちに、わが国本来の徳治主義と鋭く対立するもののあることをかぎ取っていたからなのです。

 すなわち、日本はその本来の「八紘一宇」の理念にもとづく平和な国際社会を築こうと志しているのに、現実に西洋諸国が作り上げている「国際社会」は、力と力のぶつかり合いを基本原理とする野蛮な世界である。その野蛮な世界秩序に挑戦し、徳治を基本とする「世界新秩序」をうちたてよう!これが大東亜戦争における日本の戦争理念だったわけです。その意味では、たしかに、大東亜戦争は「攘夷」の理念に支えられていたと言えます。そして、それは「侵略戦争」とはまったく正反対の考え方なのです。≫(「皇国史観とは何か」)

しかし日本は敗戦し、いまやほとんど≪現実に西洋諸国が作り上げている「国際社会」、力と力のぶつかり合いを基本原理とする野蛮な世界≫に組み込まれています。底にあるのは経済の原理です。

昨日の産経、岡崎久彦氏の「昭和前期史(下)」を読んで納得させられました。

≪大東亜戦争には、いまだに侵略史観とアジア解放史観があるが、そもそも戦争は「死生の地 存亡の道」であり、百パーセント勝つ自信があれば別だが、他国の領土資源を取ろうという侵略的目的や、他民族の解放という利他的目的で国運を賭する国はあり得ない。石油禁輸で追いつめられて一か八かで始めたのが実相である。

 ただ戦争目的は途中で変わっている。一九四二年暮れの御前会議で、中国とのあらゆる不平等関係を撤廃し、戦後は全軍を撤兵する対支新政策が決定され、杉山元参謀総長はこの方針は「懺悔録」であり出先の軍に徹底させると述べた。もはや誰も異存のない政策だった。

 重光葵によれば「東亜の解放、アジアの復興こそ日本の使命だと悟り、日本人は漸次悪夢から覚めた」のである。満州事変の前から中国問題にかかわってきた重光の感想だけに重みがある。重光はこれを全占領地に及ぼす考えであり「大戦突入後日本人の視野が広くなった」と観察している。大日本帝国破滅のほんの三年前に日本人はやっと大国民となったといえる。≫

残念ながら、このあと

≪しかしすべては遅きに失した。まさに時を同じくするガダルカナル、スターリングラードの敗北で戦局はもはや挽回不可能となる。≫

と続くのですが、最後は

≪戦争の意図と結果は別の問題である。歴史は平和時には緩慢に動くが、戦時には激変する。大東亜戦争は、その当初の目的とは無関係にアジア民族解放の時計の針を不可逆的に何十年か進める結果となった。

 それは善悪是非など超越した歴史の大きな流れの中で起こったことである。その激流が洗い流したあとの世界に、今われわれは生きているのである。≫

としめくくられています。

プラモード・タイ元首相の有名な言葉を思い起こします。

≪日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母胎を損ねたが、生れた子供はすくすくと育っている。今日東南アジア諸国民が米英と対等に話ができるのは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。≫ 

当初においてはどれほど意識されていたかも分からない「アジア民族解放」が、戦いの中でその使命として浮かび上がってきた。結果としてその使命を果たしえたのは、日本が根底において大義を見失っていなかったからだと思います。

今その大義はどこにあるのか。
テロが悪い、それはその通り。しかしその犯人は本当のところ一体誰なのか。

「赤信号みんなで渡ればこわくない」
そんな感覚で突き進んでいっては欲しくない。
「日本独自の役割」にこだわります。

投稿時間:2001/09/22(Sat) 07:40
投稿者名:管理人
タイトル:「狂気」としか思えない

「ビン・ラディンが犯人である証拠なんかもうどうでもいいではないか。どの国もそういうつもりでもう動き出しているんだから…」

アメリカの政府高官が言ったと伝えられる言葉です。(そのままではありませんが、ニュアンスはそういうことだと思います。)

「もうここは戦争やるしかない」。世の中全体がものの見事にその方向に動き出している。私には「狂気」としか思えないのですが、私がおかしいのでしょうか?

明日の総会、支部長に代わって私が行くことになりました。今の空気を「つくる会」はどう受け止めているのか、感じ取ってきたいと思います。

投稿時間:2001/09/24(Mon) 08:25
投稿者名:管理人
タイトル:とりあえずの総会報告

昨日、はじめて定期総会に参加してきました。
地方支部からの活動報告として5分間時間をいただいていました。
21日の支部委員会で出された「あれも言った方がいい」「これも言ったほうがいい」と30分話しても話しきれないほどの内容を何とか整理して臨んだのでしたが、5分ではとうてい無理。はじめから「時間のオーバーごめんなさい」の覚悟でした。しかも、それまでのフロアとの質疑がすさまじく、会場使用の制限時間がどんどん迫って休憩カットの中での登壇、必死の早口で、「時間です」のメモに申しわけなく思いつつ、とにかく「言うだけは言って来た」というのが下記の内容です。

   *   *   *   *   *

われわれに理解を示してくれていた教育長の「想像以上にトラブルを恐れていた」とういう述懐、これが全てでした。

われわれの運動は、教育委員の「頭での理解」までは、到達しえていたかもしれないが、教育委員の「魂を揺り動かす」には至ってはいなかった。その結果、「行動」を引き起こすことができなかった。

結局、プロである研究員(現場教師)の提出した選定資料を前に、教育委員は口を挟むすべなし。

この結果を受けて、今後どうすればいいか。

1.「共同採択区」の矛盾解消、すなわち市町村単位の採択の実現。

そのことではじめて、首長、議会を通して住民意思を採択に反映できることになる。
 山形県では、
「教科書の採択にあたっては、あくまでも「学習指導要領の目標に基づいた内容の比較検討」を基本とすることとし、とりわけ健全な公民育成に関わる社会科教科書の審査・採択については、新学習指導要領が目指す「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め」ることのできる内容であるかどうかを十分吟味するよう配慮させること。」
との文面を盛り込んだ議会請願を、県議会と44市町村中18市町村で採択したにもかかわらず、採択地区協議会での採択では何の役にも立たなかった。

2.現場教師への働きかけ。

本県においてはことごとく、現場教師である研究員の意向がそっくり結果に反映していった。
また、教師世界の現状からして、われわれの教科書が採択されたとしても、現状のままでは学校現場での混乱は免れ得ない。教育委員対策以前に現場教師対策の視点が必要であった。
自由主義史観研究会とは別のひとつの糸口として、向山洋一氏率いるTOSS(教育技術法則化運動―)グループが「日本人の気概を育てる授業」(向山洋一著『学校は甦る!』扶桑社刊)をテーマのひとつに掲げており、大きな可能性が見える。その際、「暗記から理解の社会科学習へ」がアピールのポイントになると思います。

3.空気づくり。そのための底辺拡大。

昨年夏の「全国担当者会議」を機に、運動のターゲットが教育委員に向けられ、県民全般への働きかけは焦点からずれて片手間になった。われわれに有利な空気をつくることができなかったことが、結果的に反対派の跋扈を許し、教育委員を行動にまで導くことができなかった。
(1)4月に結成した「山形の教育を考える県民会議」を中心に据えた組織作り。
(2)議員への啓蒙活動。
まだまだ少数とはいえ、県内保守系議員の中で、国の将来を本気で憂え行動する議員の顔がお互い同士見えるようになった意義は大きい。11月には伊藤哲夫改善協運営委員長においでいただき、宿泊議員研修会開催予定。
(3)県内各地での歴史講演会の開催。
(4)インターネットの活用。
昨年暮れに開設した支部のホームページ掲示板には、反対派論客にきていただいたときには1日に1000を超えるアクセスがあった。冷静な議論が可能なネット上論争では、明らかにわれわれが勝つ。いま「ネットインテリの糾合」が切実かつ有効な課題として提案されています。
今後ますます増大するネット人口に向けて、ネットで得たシンパをどう行動に結びつけるか、具体的アクションプランが必要と考えている。

あわせて、本部HPの充実について、しばしばのアクセス不能解消も含め、本気で検討していただきたい。

最後に、

このたびの悲しむべきテロを機に、何とか戦争に持ち込みたくてしょうがないアメリカの言いなりになって、基本的に一神教対立の宗教戦争に巻き込まれようとしている今の日本が情けなくてしょうがない。
長谷川三千子埼玉大教授は、「諸君!」の平成11年11月号「皇国史観とは何か」の中で、
≪日本はその本来の「八紘一宇」の理念にもとづく平和な国際社会を築こうと志しているのに、現実に西洋諸国が作り上げている「国際社会」は、力と力のぶつかり合いを基本原理とする野蛮な世界である。その野蛮な世界秩序に挑戦し、徳治を基本とする「世界新秩序」をうちたてよう!これが大東亜戦争における日本の戦争理念だったわけです。≫と述べられています。
「自由と民主主義」とは、われわれの先輩が大東亜戦争で戦った敵のスローガンではなかったか。本来日本は彼等の対立とは一線を画し、馬鹿げた争いの道を避ける道こそ模索すべき役割を担うべきはず。
しかるに、敗戦の結果の占領政策のまま、パール判事の言葉を借りれば、「罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されて」五十六年、骨抜きにされた我が国は、「ここでアメリカと行動をともにしなければ、われわれが攻められた時助けてはもらえない」との情けない奴隷根性を以って、追随しつつある。
国際社会における本来日本の役割を取り戻すためにも、占領の呪縛から自らを解き放ち、日本のあるべき姿についての共通認識(国体観)、国民としてのアイデンティティーを国民一人一人が取り戻すことは急務です。そのためにわれわれ「新しい歴史教科書をつくる会」の運動の意義をあらためて深く認識し、今後もさらに重大な決意を持って運動に邁進したいと思っております。

   *   *   *   *   *

「最後に」の部分は、時間がない中でこの場で言うべきかどうか迷ったところでしたが、われわれが何で教科書改善運動に必死になって取り組んできたかを考えた時、言っておかねば必ず後悔するという思いから言ってきました。もとより批判は覚悟の上。とにかく、今の日本の置かれた立場からして今の対応がやむをえないとしても、日本という国の原理原則を忘れたまま、ずるずる時の流れに流されてしまうわけにはいかない。「これから起こる事態の中で、おまえは命を投げ出せるか?」と言われたら「いやだ」という答えしかでてこないその理由を与えられた場で明らかにしておきたい、そういう思いもありました。案の定「中国や北朝鮮・・・」というフロアからの声も飛んできたこともあり、懇親会の場でこの部分の発言についてどんな非難が出てくるか、不安交じりの期待があったのですが、「あれは違うと思う」とはっきり問題にしてくださったのは田中新会長だけでした。私の思いを述べて理解していただきました。

(転載おわり)

覚悟はしていたのですが、わたしの発言はあの場では明らかに異質でした。以来「つくる会」との一体感に齟齬を自覚するようになります。

西尾先生に触れた記事がありました。

(転載はじめ)

投稿時間:2001/08/31(Fri) 01:04
投稿者名:管理人
タイトル:感想Ⅱ

・・・・・・・本部HPに、最近復刻された林房雄著「大東亜戦争肯定論」の中で、若き西尾会長についての言及されていた部分がアップされていました。それを読んで、西尾会長の「一貫性」について、わがことのようにうれしく誇らしく思えました。そして、ものすごく明解だった「退任の辞」を思い起こしました。その中にこうありました。

≪(退任を依願していた) 第二の理由は私が今「言論の自由」を失った状態にあり、言論人として致命的な傷を負っていることである。私がたえず会の利益のために語り、ほんの少しでも会の方針に逆らう発言ができないのはある程度致し方ない。しかし、この一年間、会の利益になると私が判断した自由な発言すら、高度の政治的な配慮から封じられたり、社会に広く告知すペき思想も、政治的理由から口を緘せざるを得なくなり、政治家のように思想的に不健康な状態が永つづきしている。そのストレスは会員の皆様の想像以上のことである。こうした状況の持続は、私の精神活動全体に目にみえぬ悪い影響を及ぼしつつあり、私の言論活動の未来に不安を与えている。一人の人間が会長職を長期にわたって引き受けるペきではない所以である。≫

西尾会長の一貫性は、「己が心に忠実であること」によってのはずです。そして、それを担保しているのが「言論の自由」です。・・・・・・・

(転載おわり)

西尾先生あっての「つくる会」でした。

そういえば、いつだったか西尾先生に、
「アメリカ追随しかないという考え方は、アメリカの都合次第でいつどうなるか分からないということを認めることですね。」という意味のことを申し上げたことがありました。先生は黙ってうなづかれたように思います。


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