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秋たけなわ、10年前の菊まつりが思い出される [菊まつり]

01-DSCF5553.JPG2-DSCF5466.JPG秋たけなわ、今年の粡町通りの菊はひときわ見事です。「見に来て!」と声がけしたいくらいです。

歴史絵巻展DSCF5541rgb.jpg
昨日(11月1日)から1ヶ月間、宮内公民館で「宮内よもやま歴史絵巻展」をやっています。粡町に飾ってある絵巻の縮小版を中心に、鷹山公の「伝国の辞」碑とケネディ大使関連、小田仁二郎関連等も展示しています。「宮内文化」をテーマに、田島賢亮先生を軸にした展示になっています。平日の午前9時から午後5時まで開いています。

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30日に菊まつり会場に行ってきました。平日の午前中ですがけっこう賑わっていました。無料効果が大きいようです。券がないので正確な入場者数は把握できませんが、昨年(16,000人)の3倍ぐらい、今年は5万人を超えるかもしれないとのことです。特に週末、いい天候に恵まれているのも幸いしています。花公園周辺、まつりの雰囲気、いい感じでした。



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南陽の菊まつり開園式 [菊まつり]

1-DSCF5386.JPG

104回の南陽菊まつりの開園式がすばらしい秋晴れの中、開園しました。10年振りに開園式に行ってきました。

(米沢日報デジタルが詳しく紹介してくれています。

http://www.yonezawa-np.jp/html/newsmovie/2016/20161014mov1.html )


今年は入場無料、ただし菊人形場面は1場面だけ。10年前、双松公園配水池工事のため公園から会場を移しての開催にあたり、宮内地区民に企画運営が任されたことがありました。われわれは張り切ってがんばったものでした。この年の菊人形制作予算が18,000,000円。今年の開催費総予算と同額です。今年の菊人形制作予算は2,800,000円。このまま次第詰まりか、それとも今年が底打ちなのか、正念場です。入場者数、昨年は16,500人でしたが、昭和62年には6万人を超えました。「独眼竜政宗」の年です。大河ドラマ史上最高の視聴率でもありました。大入り袋も出たというあの年の賑わいは、今も懐かしい語りぐさです。


希望の芽もあります。宮内に会場を戻すことを前提にワークショップが行われています。これまで二回、あと一回。2回とも参加しましたが非常に有意義です。10年前がんばって「もうくたびれた」とずっと思っていたのですが、ワークショップでは前向きに考えざるを得ません。それが何よりです。ここから何かが生まれてくるかもしれません。


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今日一つだけになった菊人形場面を前にして切に感じたのは、もう伝統の火が消えそうということです。ワークショップでもずっと思っていたことですが、もう南陽だけではこの伝統を維持しきれないのではないかということです。100年以上もつづいた菊人形、日本にとっても大事な伝統です。この伝統をなんとか維持してゆくことを全国によびかけてはどうかということです。菊人形予算に使うことに特定した「ふるさと納税」のよびかけです。幸い、菊人形制作を引き受ける美尚堂さんには後継者も育っています。今なら間に合います。


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「南陽の菊まつり」百年(4) [菊まつり]

十一、起死回生に向けて――平成十八年の実験

菊まつり宣伝チラシ ラスタライズ [更新済み].png

菊まつりが街に下りてくる」宣伝チラシ(平成18年)

 

 平成十八年(二〇〇六)と十九年、新配水池建設工事のため菊人形会場である双松公園が使えないことになり、三十八年ぶりに町中に降りて開催することになった。市役所、高校が移転し、大型店にも圧され、さらに不況の慢性化ですっかり元気をなくしていた宮内に、菊まつりの間だけでも賑わいをとり戻せるかもしれない、かつての繁栄を知る五十代六十代を中心に二十代の若手も加わり十数人の有志が立ち上がった。三月末から毎週木曜日を定例日と定め計画を練った。行政そして観光協会長をトップとする菊まつり検討委員会も有志たちの意向を汲み取る姿勢を示した。かつての会場だった鳥居の場はイベントの場とすることとし、菊花品評会も菊人形展も石黒電気跡地とすることにした。企画書が当時の意気込みを伝える。


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「南陽の菊まつり」百年(3) [菊まつり]

七、「南陽の菊まつり」へ


 昭和四十二年(一九六七)四月一日、南陽市が誕生した。翌年、昭和三十年代から赤湯烏帽子山公園を会場に開催していた「赤湯温泉菊まつり」と「宮内の菊まつり」が合流して南陽市観光協会主催「南陽の菊まつり」として新たなスタートを切ることになる。昭和四十四年には宮内会場が鳥居の場から双松公園に移る。この年宮内会場、赤湯会場それぞれ六場面ずつ、そのほか赤湯駅に一場面。前年入場料を大人五十円から七十円に上げていたがこの年からはさらに一〇〇円にアップ。十月十八日から十一月九日までの開催予定を一週間延長もしている。その布告にいわく「皆々様のお陰をもちまして南陽の菊まつり(宮内会場)も五〇数年を迎えました。本年は会場を双松公園に移し自然の美とバラ園の完成した公園は二本松をしのぐものと確信いたしております。・・・」昭和三十年にスタートし、地の利を得てぐんぐん勢いを増してきた福島県二本松の菊人形を意識しての会場変更であったのだろう。置賜盆地を一望する双松公園はロケーションとして申し分ない。しかし町中から公園に移ったことで宮内の賑わいが失われ、次第に菊まつりが地域の人々とのつながりを希薄にしていったのは否めない。

 宮内双松公園を第一会場、赤湯烏帽子山公園を第二会場としての開催は昭和五十五年まで続くが赤湯の第二会場での菊人形の本格展示は四十五年までで、その後赤湯は菊花のみまたは二場面程度の展示となった。

 

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「南陽の菊まつり」百年(2) [菊まつり]

四、宮内が生んだ菊人形師 菊地熊吉

「南陽の菊まつり」百年.熊吉と忠男.jpg熊吉と息子忠男

 

 江戸から明治へ、菊人形はソメイヨシノのふるさと東京駒込染井の植木職人や庭師達によって創られ伝えられていた。江戸以来の技術を受け継ぐ腕のいい職人伊藤市太郎の弟子が吉田銀次郎だった。市太郎は墨田河畔藤堂伯爵邸の菊人形を任されていたと言われる。また銀次郎の息子正吾は茶庭作家として一家を成している。そしてこの銀次郎の後を引き継いだのが菊地熊吉だった。後年銀次郎は「山形の宮内の菊地という人にはわたしが人形づくりを教えてやったが、器用な人で、わたしより上手になっちゃいました。」と語っている。ただし、熊吉には「銀次郎に教えてもらった」の認識はあまりなく、持ち前の探究心で技術を盗みとったのが事実のようだ。

 熊吉は明治二十七年(一八九四)宮内の小作農家に生まれた。若い時から町の祭りの飾り付けやおもちゃの彫刻でみんなに喜ばれていた。宮内の旧家には、熊吉が彫った獅子頭が相当数今も大切に所蔵されている。


《「山形連隊にとられるまで農業をやっていた。小学校時代から絵は好きだったし、まあ得意なほうでもあったな。しかし人形師になるとは思わなかったよ、あっはっはあ」・・・「兵隊時代の軍旗祭でまわりの者におだてられて王道という人形を余興に出したんだ。これが大変評判になってしまった。大正四年秋除隊になってまた農業をやっていると、例の王道をつくったときの腕をいかし菊人形をつくらないかとすすめられた。ちょうど宮内で頼んだ東京の人形師が有利な米沢に逃げてしまったその穴埋めにな。そこで引き受け予想以上に評判だった。しかし次の年に断ったよ。なんだか責任が重いようだったし、それに人形師になっても一生メシが食える訳でなし、やはりどこまでも農業をするつもりだったから。ところがネバラレてまた引き受けてしまった。そんな具合で人形をつくっているうちこんどはおれが人形にほれはじめたんだ。しかもぞっこんという具合にな。」・・・「ほれた以上は真剣になったよ。毎年のように国技館と浅草花屋敷の菊人形、それに当時の帝展を欠かさず見に上京した。・・・」・・・「なにも自慢することはないが、ただ宮内の菊の飾り付けは咲いた菊をくっつけるのではなく、ツボミの菊をとりつけて咲かせるところに値打ちがあると思う。この技術だけはほかで真似られないと思っている」》(昭和三十六年十一月七日山形新聞「この道ひとすじ」)


 熊吉は菊作りから、電動仕掛けも含めた場面構成、人形づくり、菊つけ、小道具、そして背景まで一手に引き受けた。すべて自分流に考えたものだった。「独創だからこそ一生懸命続けられたもので、ふり返ってみると、思う存分に菊人形づくりができた。私はその点幸福者だと思っている」と後年述懐している。熊吉は昭和四十九年に亡くなり、現在の菊人形は熊吉の四男忠男によって担われている。忠男は熊吉の流儀に従い、人形頭部制作から菊の着付けはもとより、さらに場面作りの一切をも取り仕切る日本でも希有の菊人形師として全国を駆け回っている。忠男の息子たち三人も同じ仕事に従事しているので伝統継承の展望は決して暗いものではない。


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「南陽の菊まつり」百年(1) [菊まつり]

12月15日発行「置賜の民俗」(置賜民俗学会誌)第19号に、鈴木孝一さん(宮内郷土資料館「時代(とき)の忘れもの」主宰)との連名で書いたものです。


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「南陽の菊まつり」百年


はじめに


今年の「南陽の菊まつり」は百回記念を謳っている。しかし、正確には第一回を大正元年(一九一二)として「百周年」は確かだが、戦中戦後五年の中断があるので、正確には「第九十五回」である。ポスターで歴史を辿ると、回を意識しだしたのは昭和四十七年(一九七二)で、この年は「六十周年」となっていた。しかしその三年後の昭和五十年にはなぜか「六十三回」となり、その後その回を踏襲して「第百回」に至ったのである。当時おそらく、回を重ねることの意味の重さが認識されだしていたのであろう。こうしたイベントの伝統を引き継いでゆくことはほんとうに大変なことだ。だから回は多いほど値打ちがでるにはちがいない。

「南陽の菊まつり」は、老舗的存在であった大阪枚方の菊まつりが平成十七年で一旦幕を閉じたことから、今年で一〇五年の笠間稲荷(茨城県)に次ぎ、二番目の歴史を誇る。ただし、笠間稲荷で菊人形を飾ったのは昭和二十三年からなので、菊人形展をもって「菊まつり」とするならば、百年の歴史はまさに日本一である。

  宮内町、赤湯町、和郷村の二町一村が合併して南陽市になったのが昭和四十二年(一九六七)。昭和三十年代赤湯町当時、烏帽子山公園を会場にした菊まつりを開催して赤湯が宮内と張り合ったこともあったが、花笠音頭に「菊は宮内、あやめは長井、バラの名所は東沢」と歌われるがごとく、菊といえば宮内、宮内といえば菊であった。その宮内の菊まつりも、昨年から会場を宮内から花公園に移しての開催となった。かつての宮内の賑わいを知る人たちには淋しいことには違いないが、取り立てて反対の声もなかったのは時代の流れなのであろう。

  「南陽の菊まつり」にどのような未来が待ち受けているのだろうか。このまま消えてゆくのか、それとも未来に可能性はあるのか。百年の節目に当たり、これまでの歴史を振り返りつつ未来への展望の芽を探ってみたい。

 

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受け継ぎたい山形の“宝物”―日本一の歴史―南陽の菊まつり [菊まつり]

昨晩、思いがけなく、今年と来年合わせて1億円を宮内の菊まつり振興基金として寄託された埼玉在住宮内出身の皆川健次氏にお会いした。同級生の粟野治夫氏、手塚道夫氏、清水勝美氏と親戚にあたる片平功氏とご一緒の席に呼ばれた。「菊と歩む会」設立準備の話を聞かされた。思いがけないところから思いがけない展開があるものだという感慨。
 

半年ほど前書いたものを載せておきます。

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“南陽の菊まつり” 起死回生に向けて [菊まつり]

前向きな話題に変えます。
いつのまにか「南陽の菊まつり」に関わることになっています。今後どういう展開になるか。昨日、宮内の商店会の集まりに用意した資料です。

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<H18南陽の菊まつり事前宣伝資料(案)>

●南陽宮内「菊まつりルネッサンス」

花笠音頭にも「菊は宮内あやめは長井ばらの名所は東沢」と歌われる南陽宮内の「菊まつり」。日本でも有数の歴史を誇り、今年で94回を数えます。折りしも熊野大社御再建千二百年、会場を双松公園から鳥居の場を中心にした街中に戻し、町をあげて「菊まつり」を盛り上げようと準備を進めております。全国的に低落傾向の「菊まつり」ですが、菊づくりも菊人形も、多くの先人によって受け継がれ、また伝えてゆかねばならない日本の大切な文化です。新たな命を吹き込むことですばらしい観光資源になりうる宝の山でもあります。平成18年、南陽宮内の「菊まつりルネッサンス」にご期待ください。

 

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