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「置賜発アジア主義」(2)息を吹き返す「真っ当なアジア主義」 [アジア主義]

 「アジア主義」

 明治以来日本には「アジア主義」とよばれる潮流がありました。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗するため、日本が中心となって他のアジア諸国との連携を目指した主張や運動です。しかし結局、西洋流パ ワーポリティックスへの同調を余儀なくされ「大東亜」戦争へ、そして敗戦。以来「アジア主義」は帝国主義的侵略裏付けの理論と見なされ、さらには東アジア内部の深刻な対立の中ですっかり立場を失くしていたのです。

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「置賜発アジア主義」(1)はじめに [アジア主義]

4月に発刊される「懐風」に寄せた原稿です。一挙掲載と思ったのですが、11回に分けることにしました。

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置賜発アジア主義

はじめに——「戊辰雪冤」

 上杉博物館の特別展「戊辰戦争と米沢」で上杉茂憲漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」を見て、公の心中を思い心が震えました。慶応四年の秋、東北越後の奥羽越列藩同盟と薩長を中心とする新政府軍とが戦った戊辰戦争。同盟成立の中心を担った米沢藩でしたが、必死の戦い空しく新政府軍の前に屈します。戦さの倣いとはいえ米沢藩は、同盟庄内藩討伐の先鋒を命ぜられます。その軍を率いる上杉茂憲公24歳、月山六十里越細越駅で詠んだ悲痛の七言絶句です。

上杉茂憲漢詩.jpg  軽重自存義与情 軽重自ら存す、義と情と 
  暗揮双涙討同盟 暗に双涙を揮って同盟を討つ
  隊伍森然更無語 隊伍森然として更に語る無し 
  満山風雪発軍営 満山風雪、軍営を発つ
 早い冬の訪れで凍死者も出たほどだったと伝えられます。

 この日927日(旧暦)に先立つ829日、綱木峠で米沢藩降伏決断の報を小森沢琢蔵(宮島誠一郎の実弟)によって知らされた雲井龍雄は、夜半急ぎ峠を駆け下ります。
 
《米沢城下に着いたのは、夜明け近い時刻である。まだ人気のない、青白く光が澱む町を駈け抜けて、龍雄は真直ぐ千坂太郎左衛門の屋敷に行き、門を叩いた。/ だが、通された一室で、龍雄が見たのは、別人のような千坂の姿だった。沈着で、男気と智謀に恵まれた青年家老、米沢藩全軍を指揮した輝かしい総督の姿は消えて、罪囚に似た暗い顔を伏せがちな一人の敗軍の将がいるぱかりだった。千坂の顔は、戦場焼けして憔悴し、身体はひとまわり痩せている。》
(藤沢周平『雲奔る』)
 千坂から苦渋の思いを聞いた龍雄は、邸を辞して後、激しい喀血に襲われたのでした。
 それからほぼ一月後、庄内に向けての辛い出陣でした。その後、必死の工作効を奏して同盟相撃つ事態は寸前で免れたとはいえ、この間の思いは米沢藩苦衷の記憶として深く根を下ろすことになったはずです。茂憲公の沖縄県令としての奮闘、雲井龍雄の失業浪士救済に向けた奔走、宮島誠一郎の新国家中枢に入りこんでの人知れぬ影響力行使、いずれも「戊辰雪冤」の念あってのことにちがいありません。冤を(すす)がんとする切なる意志を以て迎えた置賜の近代、以来百五十年、この間この地に発した世界史的思潮の流れがあったことに気づかされました。今後の新たな時代に益するかとも思い、記させていただきます。

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この先に見える明るい世の中 (「置賜発アジア主義」より) [アジア主義]

『懐風』(米沢御堀端史跡保存会)への寄稿「置賜発アジア主義」、最後のところでまごまごしましたが、一昨日原稿を届けてきました。「復興アジア主義」で大井魁先生に登場してもらい、その流れで林房雄『大東亜戦争肯定論』で締めました。「むすび」の文章は、mesさん講義の結論に呼応しています。「日本衰退」論に振り回されてはダメ、日本人は日本らしさを大事にしながら自信を持って、必要なところにはどんどん金をぶっ込む覚悟で突き進めば、自ずと未来は開けてくる!

以下、最後の2章です。

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汪兆銘という人に注目したい [アジア主義]

汪兆銘1944otyomei_001.jpg「置賜発アジア主義」と題して「懐風」原稿を書き進めています。これまでここで書いてきた事を一本に繋ぎ合わせればいいと簡単に考えて始めたのですが、まとめのところで難渋しています。そうしているうちに汪兆銘という人に行きあたりました。大東亜戦争が始まる前の年、といっても支那事変(日中戦争)の最中なわけですが、中国にできた南京国民政府。何となく名前は知っていても内実については全く無知。その中心人物が汪兆銘。この人、戦争が終わるや、その後は日本からも中国からも総スカン状態で、とりわけ新中国では「漢奸」の極み扱い。その人を、まず宮島大八の談話を通して知り、思いがけなく遠藤三郎中将とリンク。そうしているうちになんかだんだん感覚が合うような気がし出して親しみを感じるようになっていました。
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中国との新時代 [アジア主義]

《1930年代の日本による中国侵略を、中国人に正式謝罪するため、明仁天皇が来年4月の退位前に中国訪問を希望していることを安倍首相は伝えた。》

放知技板の192サクラ咲く :2018/11/10 (Sat) 20:14:18
習主席についでモディ首相と会談した安倍首相:アジア新‘協力圏’?
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-e802.html で知りました。その真偽についてはmukuさんからの疑義があります。→193194196 たしかにこの件、ネット検索ではこの記事以外、出てきません。【地球コラム】2度目の「天皇訪中」はあるのか~中国の対日接近戦略を探る~の記事がありましたが、ここでいう「天皇」は今上天皇ではなく来年以降の新天皇です。しかも《今回の安倍訪中の特徴として言えるのは、中期的な日中関係安定に向けたスケジュールを描いたことだ。2019年の習氏来日、同年の日中韓首脳会談に 合わせた安倍首相の訪中、20年の東京五輪開会式への習氏出席までが首脳会談で言及されたが、22年の北京冬季五輪での首脳交流まで視野に入れれば、同年の日中国交正常化50周年を安定した関係で迎えることに期待が高まる。中国政府は22年に向けて新天皇訪中への攻勢を強めるだろう。/ これに対して日本政府は、現時点で新天皇訪中を日中関係のスケジュールに入れていないのは確実だ。》と断言しています。ただ、「サクラ咲く」さんの記事を読んだとき、仮に天皇の御意志(中国への正式謝罪)がそうであるとすれば、そのお気持ちに添わねばならないと思いました。そしてそう思ったら、ぱあーっと未来が明るく開けたような気がしました。当初「イハトビラキ」のカテゴリーに入れたのですが、まだ真偽がわからないので「アジア主義」に入れておきます。

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中国がすごい理由(わけ) [アジア主義]

『アジア主義』(中島岳志 潮出版社 2014)をじっくり読み終え、レビューを書きたいと思いつつそのままになっていたところで、「てげてげ」の以下の記事のインパクトに圧倒されて、「アジア主義」の云々カンヌンでなくなった。このところの飯山一郎氏の中国からの報告(1.2.など)を読むにつけ、勢いにおいて、中国は日本の比ではない。なんといってもこの子どもの顔を見よ。

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2016/09/04(日)  中国の一人っ子,あなどるべからず!


幼児でも人づきあいが上手い!


大人の世界に遊びに来てものおじせず!

20160903yieyie.jpg20160904yieyie.jpg


 

     「一人っ子政策」は,単なる人口抑制策ではなかった. 


結果論だが…,「一人っ子政策」は,中国人に子供の大切さを徹底的に思い知らせた.


子供を生むことの大切さ,子供を育てることの大切さ,子供を躾けることの大切さを,中国人は徹底的に思い知らされた.


子供こそが国の宝であり,民族の宝であり,家の宝であり,親の宝であること.


国家社会と家族の未来を託せるのは子供だけであり,国家社会と民族と家族の未来をつくれるのは子供だけであること.


子供は,ただ可愛いだけの存在ではなく,かけがえのない,この上なく貴重な宝であることを,中国人は徹底的に学んだ.


「2+4=6」(2人の親と4人の祖父母の6人に徹底的に甘やかされた)とか,「小さな皇帝」とか,中国の一人っ子政策をカラかい,皮肉る言葉がある.


しかし,一人っ子ゆえに大切に育てられ躾けられた子供は,「小さな皇帝」というよりも,帝王学を学んだ選良(エリート)といった貫禄がある.


げんに青州市のワシの愛弟子(まなでし)は,24才と27才の青年であるが,若くして礼儀と素養を充分にわきまえた大器である.申し分ない.


ワシの秘密工場の社宅に住む10才と4才の女の子が,ワシの現場に,物怖じせず,堂々と遊びに来るが,人を見る目,人なつっこさ,人づきあいの上手さは,「小皇后」に相応しい.


ワシが安全な人者だと判断したとたん,「爺,爺(イェイェ)!」と,人なつっこくワシになついてくる.


中国の一人っ子,あなどるべからず!
である.

飯山一郎70


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子どもができてもゼロ歳のうちから保育施設に預けて働きに出なければならない日本の現実。それはそれとして、保育施設の使命の重大さに思いが至った。

○   ○   ○   ○   ○


 


【追記 28,10,11


飯山一郎氏の続報です。おおいに共感しますし、いろいろ考えさせられもします。あらためて記事にしますがここにメモっておきます。http://grnba.com/iiyama/index.html#zz10101 


 


◆2016/10/10(月)  飯山一郎の『教育論』


子供を教育するのは親である!


青州市を散策しまくる小ボンボン一家


20161007_133917.jpg



  • 飯山一郎の『教育論』(持論)を簡潔に書きたい.

  • 結論は,「子供を教育するのは親である!」 ということ.

  • 「教育」とは,子供にモノをえながらてることだ.

  • 「近代」以前は,子供の教育はもっぱら親や家族がしていた.

  • 子供は乳幼児の時から母親の声を聞き,母親の唇の動きを見ながら言葉を覚えた.これまさにマザー・ラングウェッジ.

  • 読み書きソロバンも,礼儀も,作法も,身だしなみも,生活の知恵も,親が(押し付けながら)躾(しつ)けた.

  • そうして子供は一人前のオトナに育っていったのである.

  • ところが「近代」以降の子供は,幼児のときから幼稚園や学校に通うことになった.

  • その結果,「子供を教育するのは親である」という人間社会にとって最も大切な大原則が崩れてしまった.

  • 子供は,「教育機関」の管理下に組み込まれ,「教育官僚」が親に代って子供の教育を独占するようになった.

  • 「教育官僚」とは,学校や幼稚園にいる「先生」と呼ばれる「官僚の群れ」(規則最優先で働く者たち)である.

  • 彼ら「教育官僚」の大半は,大学で資格を取得したあと,世間や社会や人間を全く知らぬまま,知っている!と思い込んで,「教育機関」に就職し,「職業としての教師」になる.

  • 世間や社会や人間(実社会)を全く知らぬ人間が,「先生,先生」とおだてられながら,子供を教育してゆくのである.

  • こんなおそろしいことはない!と思わない人はおかしい.

  • だからワシは,今後,中国に「新日本国」をつくっていく際には,幼稚園とか学校といった「教育機関」は一切つくらないつもりだ.

  • 「あなた方の子供は,親であるあなた方が,あなた方の責任に於いて,存分に教育していただきたい!」 と,ワシは宣言するつもりである.

  • 「なんだ,学校や幼稚園がない国家なんてイヤだ」 という方々もおられるだろうが…

  • しかし,いま,二人の子供を手塩にかけて育てている小ボンボン夫妻の教育を,ワシは毎日みているが…,「子供は親が教育すべきである!」 という確信が深まるばかりである.

  • 小ボンボン夫妻が,「負うた子に教えられ浅瀬を渡る」という諺のとおり,二人の子供に逆に教えられる場面もあるし.

  • いずれにしても,子は宝! である.


飯山 一郎(70)


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アジア主義と置賜(3) その源流 雲井龍雄 [アジア主義]

「アジア主義と置賜」と題して書くことになったのは、『アジア主義』に曽根俊虎が登場したことによる。尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の章が思い起こされたのだ。よくは理解できないままに印象だけは強く記憶に残っていた。あらためて繙いた。


雲井龍雄が小伝馬町の牢に送られる前の三日ほどを藩邸の獄で過す。「辞世」はここで詠われた。尾崎は言う。


《龍雄はひたぶるに身を投げ出してきた主君と、養うことのできなかった親にいとまごいを告げる。父母の地の蒼穹にのこす涙である。龍雄はこの詩(「身世何飄よう・・・」「天数有消長・・・」)のあとに認めて「右二首龍雄国元より護送せられて東京の獄に来る時のいとまごひの詩也 雲井龍雄 獄中草之」と。

 (明治三年八月)十四日乗駕籍で東京の藩邸につき、十八日に小伝馬町の揚屋入りとなった。この三日ばかりの時に書きのこしたものである。安井息軒宛の書中にもこの詩を書いて、師匠へのいとまごいとした。龍雄はこの藩邸の獄でもう一つの詩をうたった。


  死不畏死  死して死を畏れず

  生不偸生  生きて生を偸(ぬす)まず

  男児大節  男児の大節

  光興日争  光日と争う

  道之苟直  道苟も直くば

  不憚鼎烹  鼎烹を憚らず

  渺然一身  渺然たる一身

  万里長城  万里の長城

            龍雄拝


 この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ/事の意外さに驚き怪しむときに発する語)として、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも疑いは消えた。それはこうだ。

 龍雄が獄中でこの詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は囃雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつたえる絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城はあらわれ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に嘯(うそぶ)いた。

 十二月になって龍雄の断罪が近づくと、参議広沢真臣の日記には、にわかに助命派あるいは強行派とおぼしい人の名が出はじめた。

 十二月六日には早朝から上杉茂憲が訪ねていった。   

 明治三年(一八七〇)十二月二十六日、老人、女、子供、武士、百姓、町人、火消それに坊主まで加えて一味徒党とされ、龍雄は判決を言渡され、二十八日小伝馬町の牢屋敷で斬られた。

 その刑はきびしく、虐殺というにふさわしい。梟首一。斬十三。准流十年ハ。徒三年九。以下二十八人である。

 米沢藩士雲井龍雄は、その我慢みさい首を、東京の師走の風にさらした。謀反の罪である。行年二十七歳。

 詩はやはり、詩人の運命の完成を憎悪するものなのであるのだろうか。

  一ト声は森の中なり杜鵑    茂憲 》(『志士・詩人 雲井龍雄』p238-239)


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アジア主義と置賜(2) 曽根俊虎ーアジア主義の嚆矢  [アジア主義]

『アジア主義』の中に曽根俊虎1847-1910は、「興亜会の設立者は海軍軍人の曽根俊虎。のちに宮崎滔天と孫文を引き合わせた人物」(102p)として登場する。


《興亜会(こうあかい)は、1880明治13年)に日本で最初に設立されたアジア主義の総合機関。日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である。》(ウィキペディア) 曽根が宮島詠士の父宮島誠一郎らとともに設立した「振亜会」がその前身として在る。


 《(興亜会の)設立目的は、アジア諸国の提携と交流の促進でした。曽根はアジアにおける欧米諸国の植民地支配拡大に脅威を抱き、アジアの連帯と振興の重要性を説きました。

 当時の日本にとっては、ロシアのアジア進出が具体的な脅威として追っていました。そんななか、日本と中国がいがみ合ったままではロシアの進出に有利に働くという懸念が広がり、日中両国の提携の重要性が一部で論じられ始めたのです。

 曽根は、官民を問わず具体的な交流を通じて日中の提携を促進する必要があると考えました。そして、中国語・朝解語を習得するための語学学校の設置や情報交換・提供のための会報の発行、海外情報通信員の中国派遣などをスタートさせました。

 しかし、興亜会設立の当初はなかなか中国側から理解を得ることが難しく、反発されることもしばしばでした。当時は、琉球処分(一八七九年)の直後で、両国関係は領土問題をめぐって緊張状態にありました。中国側では、日本人中心の興亜会の運営を懐疑的に見る人が多く、交流はなかなか進展しませんでした。しかし、日本側の会員数は徐々に増加し、十数名で発足した会は、一年後には三〇〇名を超える規模にまで発展していました。日本において一定の規模を有したアジア主義団体としては、この興亜会が最初の存在といえるでしょう。

 興亜会は、一八八三年に亜細亜協会と名称を変更しました。これは「興亜」を日本人が掲げることに対する中国側からの嫌悪感が存在したためといわれています。》(『アジア主義』103p)


狭間直樹京都大名誉教授は「初期アジア主義についての史的考察(2)第一章曽根俊虎と振亜社」の中でその真っ当さを評価する。


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アジア主義と置賜(1) 宮島詠士 vs 中野正剛 [アジア主義]

中島岳志著『アジア主義ーその先の近代へ』(潮出版社 2014)を毎日少しずつ読んでいる。『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書 2016.2)の最後が、中島氏の「アジア主義」再考の主張で締められていたことから手に取った。非常に興味深く読みつつ、「頭山満、動き出す」の第五章に思いがけなく旧米沢藩士曽根俊虎が登場したことから、置賜に脈打つ「アジア主義」の系譜が浮かび上がることになった。しかも、その流れこそが「アジア主義」の本来真っ当なものなのである。この地に潜む最も良質な鉱脈に行きあたっているのかもしれない、そんな興奮もおぼえつつ、自分なりに跡づけてみることにします。


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「第九章 孫文の登場—宮崎滔天、内田良平、南方熊楠」で、この著『アジア主義』の視点がよくわかる文にゆきあたった。


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