感動のチェロコンサート [こども園]
日本基督教団宮内教会創立100周年 [こども園]
一昨日(11月12日)日本基督教団宮内教会創立100周年記念ということで、午前中定例礼拝に参列して近藤国親前牧師の説教をお聞きし、午後からは原裕(ゆたか)天童教会牧師による説教の記念礼拝と日本キリスト教団東北教区センターエマオ館長の松本芳哉先生の講演、そして最後は證誠殿での 愛餐会、中味濃く一日を過ごしました。
宮内教会は1917年(大正6年)の高畠講義所を嚆矢とし、5年後の1922年(大正11年)当時製糸業隆盛で賑わう宮内に移ります。第二代牧師の川島専助氏が当時を記した書簡が残っています。「宮内、賑わいの記憶(4)」で書いていたので再掲しておきます。
「宮内認定こども園」の歴史・「祈り」について(平成29年度辞令交付式講話資料) [こども園]
◎宮内認定こども園の歴史
・昭和26(1951)年の10月、宮内熊野講堂において賀川豊彦先生講演会開催。この時集まった八千円を「50年後100年後の人材を育てるための幼稚園をつくりなさい」と宮内に残す。
(賀川先生は昭和7年5月16日か17日頃も宮内に来られている。熊野大社石段下の土社神社前で撮った写真が残っている。賀川豊彦全集の中に「花すぎて緑の山に小鳥鳴く世のさわがしさ気にとめぬごと 宮内にて」とあるのを見つけたときはうれしかった。犬養毅首相が銃弾に倒れた五一五事件直後の歌だ。今に通ずる当時の宮内を彷彿させる。さくらんぼの木とともに寄附していただいた園裏が整備なるとき、そこにこの歌碑が建てられたらいいなあと思い続けている。)
賀川豊彦先生:貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャン。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなる。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたという。働く人の生活安定を目指す生活協同組合の運動を立ち上げるなど、社会事業家、政治家として活動の範囲は世界中に及び、ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられる。
明るい未来へ(『光の子ども』寄稿) [こども園]
毎年この時期恒例です。今年で12回目になります。その時々いちばん頭にあることを書くようにしています。一年間でいちばん力が入る文章です。
今年ははじめに提出した文章の一部を数日後急遽差し替えました。最後の方の《大きく時代が動き出しています。・・・若い世代の思いがけない思いが時代を切開いてくれると信じています。》のところ、はじめは《私とは同世代トランプ大統領の出現によって、思いがけないほど世の中が明るくなりそうな気がしています。「正義」とか「民主主義」とかのきれいな言葉の裏で「経済第一」金まみれ、陰謀渦巻いていた世界が、思いっきりあけっぴろげになってきつつあります。一体これまでの世界は何だったんだ。どんどん霧が晴れて太陽がくっきり現れてきます。若い人に期待します。》だったのです。その経緯は「遠のいた?イハトビラキ」に書いた通りです。
「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」は『文殊菩薩』ブログからです。
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地元の幼児教育 支えて ■南陽市 井上達也 62歳 [こども園]
宮内こども園の井上園長先生の投書が今朝の山形新聞に掲載されました。幼稚園教諭、保育士がなかなか集まらない現場からの切実な叫びです。給料は安くとも成長する子どもと共にある喜びが何より、教職員のそうした思いに支えられて存続してきた私たちの園ですが、ようやく待遇改善の方向も見えています。いつの時代にあっても変わらぬ「いい職業」と自信を持って言える仕事だと思います。「夢を求めてもらいたい」、それが可能な職場です。
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地元の幼児教育 支えて
■南陽市 井上達也 62歳
4月から就任した「こども園」は、幼稚園と保育園が一つ屋根の下で営まれている。目まぐるしく感じられるが「助かるな!」という保護者たちの声に支えられている。
人口の漸減に対する労働人口の確保のため、結婚や出産でも退職せずに済む対策としてこども園はそれに応えた制度だろう。入園希望者が増加しているということは、正しく現況を捉えた政策だといえる。
ところが、まだ不足していた。現実は深刻だ。人が足りないのだ。養成校の先生の話では、卒業生たちは都会に流出しているという。都会の学校に行った者はそのまま都会に残り、地方の学校に入った者も都会に流れる。これが収まらなければ、せっかくのこども園も存立できない。
6月にハローワーク主催の面接会に参加した。しかし、私のブースは完全に孤島化した。何十とある企業のブースは面接者が途切れることなく立ち寄っているというのに、私のブースは、1人も近づく者がいなかった。騒然とした会場で、私のところだけは森閑としていた。8月にもイベントが2度ある。訪問者が現れることを願う。
テレビで人気の出た職業が中高生たちの進路希望になることがある。「金八先生」が典型だ。ぜひ、地方の幼稚園などで働く者もテレビの舞台に上げてもらいたいと思う。
地元の養成校に在籍する学生たちには、ぜひとも地元の園に夢を求めてもらいたいと願うのである。
松倉とし子さんコンサート、よかった! [こども園]
松倉とし子さんコンサート [こども園]
松倉とし子さんとともに
日時 平成28年3月29日(火)午前10時30分
会場 宮内認定こども園ホール
入場無料
近藤国親先生には、宮内幼稚園から宮内こども園へと発展する大切な時期に園長としての重責を果たしていただきました。日清製粉を定年退職後、神学大学・大学院で学ばれ、宮内に赴任されたのが65歳のとき。「先生、10年間はお願いね。」その約束を果たされ、今年3月をもって退任されます。
宮内こども園々歌の作曲者は、「雪の降る街を」や「小さい秋みつけた」の中田喜直さんです。中田さんは、松倉とし子さんを「日本歌曲を歌うのに大切なものを全て具える」と高く評価され、金子みすゞの詩に作曲して松倉さんに送りました。
近藤先生は、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」の言葉が大好きです。そんな近藤先生のために、感謝をこめて松倉とし子さんのコンサートを開催したいと思います。
近藤先生との思い出をお持ちの方、子どもさんからおとなの方まで、どなたでもお出で下さい。
平成27年度『光の子ども』 「共感」の輪 [こども園]
卒園記念親子文集「光の子ども」が届きました。卒園児の親子と教職員全員の文集です。私も毎年、その時々いちばん頭にあることを書かせてもらっています。今年で11回目になります。1回目分からずっとここにアップしているはずです。11年前、思ったこともなかった理事長の役でしたが、この文集は、幼稚園からこども園へ、その園との関わりの私なりの歴史が刻まれています。人生、自分の意志通りに事が運ぶことなどごく一部の枝葉であり、大もとは何かに動かされている、園との関わりはほんとうにそんな感じがして今に至っています。まさに「移ろうままに」、その象徴が園との関わりです。
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「ブランド力」を高める (年頭講話資料) [こども園]
保育士不足問題を「経済第一」で割り切らせてはならない [こども園]
12月4日に政府が「小学校や幼稚園の教諭などを、保育士の代わりに働けるようにする」などの緊急対策を出したことから、保育士処遇の問題があちこちで議論されるようになっている。19日にはNHK土曜の朝番組「週間ニュース深読み」のテーマが「どうする?保育士不足 働く親を支えられるか?」だった。昨晩、阿修羅経世済民103板で「≪酷すぎ≫半数が年収200万以下!7割が転職や退職を希望!20~30代の保育士・幼稚園教員アンケート結果。」の記事を読んだ。いずれも問題は、「保育士の給料が安い、だから保育士になりたがらない」という結論のまわりをぐるぐる廻っているようなのだが、このことに違和感をおぼえる。すべてをカネに還元して考えてしまう世の中、そうではない大事な視点があることを忘れてはならない。そんな思いで、阿修羅の記事にコメントしてきました。まだ反応はないようです。
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かつて教育職は「聖職」と言われたものだった。その言葉が死語になったのは田中角栄首相の時代、昭和48年の人材確保法が出来てからだ。「人材確保法」とは、教員の給与を一般の公務員より優遇することを定め、教員に優れた人材を確保し、もって義務教育水準の維持向上を図ることを目的とするというものだった。しかし皮肉なことに、この法律の結果するところ、教育の現場から本来の教育は次第に影を潜めてゆくようになった。教育職自体に生きがいを求める人間よりも、いい給料を求めて教育職を選ぶ人間が多く集まる場になってしまったのだ。人材確保法が日本の教育をダメにした。「経済第一」を掲げる安倍政権下、同じことが保育の現場に仕掛けられようとしていると私には思えてならない。仕事が楽しくてしょうがない、総じてそう言える仕事など世の中にどれだけあるだろうか。日々子どもとふれあいその成長の手助けをする保育の仕事とは、今の世の中では数少ないそういう仕事なのだ。「人材確保法」が教育の現場にあった教育への情熱を冷まし、教師という仕事の「聖職」性を失わせたように、経済的視点からのみの議論は、本来の「保育の仕事」に内在するかけがえのなさを見失わせる危うさがある。