新春宮内歌碑めぐり [詩吟]
1月11日、宮内地区の新春の集いで宮内岳鷹会がオープニングを受け持った。題して「新春宮内歌碑めぐり」。たいへん好評でした。
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あけましておめでとうございます。 新年にあたり、宮内の歌碑のいくつかを訪ね、宮内新春懇談会の幕開けとさせていただきます。
熊野大社の下安部右馬助の碑の東側に、結城よしをの「ナイショ話」の碑と共に、父結城健三の歌碑があります。健三は、明治三十三年に宮内に生まれ平成七年に亡くなるまで、短歌界に優れた業績を残しました。昭和二十二年に創ったえにしだ短歌会は全国的な短歌結社に育ち、歌誌「えにしだ」は八百号を超えて今に至っています。
宮内に生まれ育つ子どもたちを見守り続けてきたおくまんさま、健三は子どもの頃チゴタゴを舞いました。その思い出からお母さんを偲ぶ歌を残しました。思い合う親子の情愛が伝わってきます。
宮柱の 結城健三
宮柱のかげよりわれの稚児舞を
みていたまいひし母が恋しき
昭和天皇御製「最上川」絶唱 [詩吟]
一昨日の6月16日、日本詩吟学院吟道岳鷹会の昭和25年度温習会が、われわれ南陽宮内岳鷹会が当番で熊野大社證誠殿で行なわれた。温習会参加148名懇親会参加140名と、近年にない多数の参加だった。
懇親会司会を髙橋桐風さんと共に務めることになり、その中でいかに宮内らしさを出すかに腐心した。そもそも酒の席をそうそうコントロールできるのか。最後まで心配だったが、さすが詩吟愛好者の集まりで、最後の「最上川」は、私がこれまで体験した中で最高の絶唱だった。胸が熱くなって涙が出てきた。懇親会を終えて宮内のメンバー全員でお見送りをしたが、ほんとうに喜んでいただいたことが確認できた。何人の方と握手を交わしたことか。
以下、実際は必ずしもこのままではありませんでしたが、用意した司会原稿です。
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1. 本日は、吟道岳鷹会の温習会そして懇親会にご参加いただきありがとうございます。
宮内のしころ泰山の皆さんによる勇壮な太鼓の演奏は、宮内にまつりの季節の到来を告げる響きでした。
明治以来の太陽暦の導入によって、旧暦と新暦と月遅れとのごちゃまぜになり、日本人の季節感も狂いがちですが、7月25日熊野の夏祭り例大祭、旧暦の時代は6月15日でした。
今日6月16日、すばらしい吟詠の数々に酔ったあと、これからの楽しい懇親会の司会を務めさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。
(しばらく歓談の後)
吟行「置賜の詩心を訪う」 [詩吟]
11月23日、宮内岳鷹会創立15周年を記念して、平岳謙先生、岳照先生とともに吟行してきました。
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宮内岳鷹会創立十五周年記念吟行
「置賜の詩心を訪う」
○上杉神社
宮内岳鷹会創立十五周年記念吟行、スタートは藩祖上杉謙信公をお祀りする上杉神社です。
明治に建てられたお社は大正8年の大火で消失し、このお社は大正12年、明治神宮や平安神宮を設計した米沢市出身の文化勲章受章者伊東忠太による設計です。
謙信公は戦国の武将であると同時に優れた詩人でした。能州七尾城を陥れ、意気揚々たる心情を歌い上げた陣中の作、「九月十三夜」を吟じます。
九月十三夜 上杉謙信
霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景 遮莫あれ家郷遠征を憶う
○松岬神社
米沢藩中興の名君上杉鷹山公が、師細井平洲先生や直江兼続公をはじめとする上杉の重臣たちとともに祀られている松岬神社です。
鷹山公は、破綻寸前の藩財政を、徹底した倹約と、武士までもつぎ込む農村振興、新たな産業の開発によって立て直しました。その根底にあったのが「なせばなる」の精神だったのです。
なせばなる 上杉鷹山
なせばなる なさねばならぬ なにごとも
ならぬは ひとの なさぬなりけり
「美(うま)し地(くに) みやうち」 [詩吟]
スライド構成吟
「美(うま)し地(くに) みやうち」
作・構成 南陽宮内岳鷹会
ナレーター 菅野 正山
「東方(ひんがしのかた)に美(うま)し地(くに)有り。青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり。・・・けだし六合(くに)の中心(もなか)か」(『日本書紀』)
古来置賜盆地は奈良の大和盆地に比べられてきました。日当たりのいい盆地の北に位置する宮内は、大鷹山を背に熊野の森に懐かれた盆地の特等席、しかも風水でいう四神相応の条件を備えており、周辺には縄文の昔から大きなむらが形づくられ、以来五千年、豊かな歴史を積み重ねてきました。