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mespesadoさんによる経済談義(122)「反緊縮」世論形成に向けて [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

議論における「日本的手法」というのがあります。議論を通して「共通理解」を見つけ出すのが目的です。だから本音を出せるのです。最後は取っ組み合いになってもいい、その覚悟で議論に臨めるのです。対して「非日本的」議論は、対立が前提です。どこまで行っても「あいつはあいつ、おれはおれ」。決めるのは結局「多数決」しかありません。御輿 山新Scan 36.jpg日本的議論は、日本の「祭り」に通じます。私は宮内熊野大社の御神輿で体験してきました。われわれ獅子冠事務所員と一般行者との激しいせめぎ合いの中で感じ取っていたことを文章にしたことがあります。→宮内熊野に探る「祭り」の意味 (8) https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2014-12-21-4《「祭り」の中にある人と人との関係。一つは共通意思が前提となって「祭り」はあります。祭りに参加する人はてんでばらばらではありません。一つ共通の思いがあります。「祭り」によって地域共同体の共通意思が確認されるのです。ここには、おのずからなる分度分限をわきまえた秩序感覚が生まれます。しかしその一方で、世間的日常的利害打算とは別次元の、それを超えた世界も生れます。言ってみれば「なんでもあり」の世界です。それも「祭り」の一側面です。文化人類学に過剰-蕩尽理論というのがありますが、もう日ごろの計算とか抜きにしていろんなエネルギー、持っている物を全部使い果たす、その勢い、そういうのが祭りの中にはあります。そのために酒は大きな役割を果します。肩書なしの平等感覚、なんでもありの自由奔放なエネルギーの解放、というのが秩序感覚の一方にはあるわけです。分度分限をわきまえた秩序感覚と自由・平等的感覚のバランスがあって、それを担保するのは、他ならぬ神様の存在なんだということはこれは納得できるかと思います。そういった神様とのかかわりに結局はなるんですけれども、やっぱり一つは「祭り」を通して「社会・世間」を学ぶ。一つのこうあってほしいという「社会」の典型が祭りの中には見出されるのではないだろうか。祭りはそういった勉強の場だとそういった思いを私はつくづくしています。》

安倍政権の手法も《サヨク・ポリコレ・西洋かぶれサイドのお家芸》である《闘争好き》とは明らかに違う、「日本的」とも言えるのかもしれません。

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