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須藤永次と伊東忠太 [吉野石膏]

昨日、ナセBAに行ったら平田東助展をやっていた。これまでJA全国教育センターにあった平田東助像が米沢に移転されることに伴っての開催だ。平田の妻は山県有朋の姪で品川弥二郎の妻の妹ということで、長州閥の中で枢要の地位を占め、健康を理由に辞退したが総理大臣就任を要請されたこともあったという。建築家伊東忠太(1967-1954)は平田の兄伊東昇廸(米沢藩藩医、後に陸軍軍医)の次男。松岡正剛によると《伊東は(辰野金吾らの)洋風一辺倒の明治建築に対抗し、ユーラシア全域を背景とする建築にとりかかる。しかしその建築作品と建築思想はいまなお、アジア主義の成果だとか、国粋主義的な建築物だとか、国威発揚に走ったとか、いやいやその造形力は日本建築史でも屈指の独創性をもっているとか、毀誉褒貶がはなはだしい》という。伊東も「置賜発アジア主義」の系譜に連ねてもいい一人であることに気づかされた。その伊東が、昭和11年(1936)完成の国会議事堂に使われたタイガーボードを高く評価した言葉が『吉野石膏90年史』にある。わざわざ伊東の言葉が紹介されているということは、須藤永次は伊東とも繋がっていたに違いない。また、《伊東忠太のパトロンとして有名なのが、大倉喜八郎》という。大倉は永次にとっては恩人とも言える浅野総一郎とも近い。『須藤永次翁伝』には、《(浅野総一郎は)渋沢栄一氏に見出され安田善次郎、大倉喜八郎氏と共同者として事業界に乗り出した》とある。サッポロビールは明治21年、株式会社札幌麦酒会社としてスタートしたが、創立発起人に渋沢、浅野、大倉の名が連なる

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