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オカネの起源(承前)suyapさんへ [思想]

suyapさんへ

亀さんとsuyapさんの発言に触発されて書いた「オカネの起源」の記事にコメントいただいていたことを、うかつにも「放知技」板で知りました。suyapさんが、いわゆる「石貨」についてのその使われ方ですが、西洋に毒された現代人が想像するマネー、おカネではありません》《共生社会では、人と人の結びつきが何より大事です。そういう結びつきを作るひとつのツールが石貨なのです。》という説明を受けて《「人間関係確認ツール」とでも言えばいいのだろうか。「オカネ」の発生は「物々交換」ではない、そもそもは「心の交流」を物象化したことに発する。》とわかったようなことを書いたのですが、自分の体験にてらした実感としてもっと知りたいと強く思っていたところでした。コメント欄に書いていただいた石貨によって、個人所有のもの、コミュニティ(村)所有のもの、それぞれ経てきた道筋が違います。それらの変遷も、次に譲渡されるときの価値になります。古くてやねこい変遷を経た石貨ほど価値があると認められ、名前をつけられ、ある意味、人格として扱われます。》を読んで、「人格としての石貨」まではなんとなくイメージできますが、それがヤップの人たちにどんな意味を持っているのかを考えているところです。

suyapさんから見れば「頓珍漢」で「しったかぶりでいーかげんな改鋳」のひとつなのかもしれませんが、

「仮想通貨も石貨も根本は同じ?世界で最も大きなお金、ヤップ島のフェイとは?」
https://www.enigma.co.jp/media/page-6796/

という記事がありました。その結論は仮想通貨も法定通貨(国が発行する通貨)もヤップ島の石貨も、すべての通貨は実はその物自体に価値があるのではなく、取引できるシステム自体に価値があるという意見もあるようです。政府が発行する紙幣や硬貨の信頼性に慣れ親しんだ期間が長いためお金を絶対のものとして考えてしまいがちですが、本当はお金はもっと柔軟で替えが効くものなのかもしれませんね。》でした。mespesadoさんの「貨幣信仰論」に通じます。要するに、みんなそう思ってるからそうしているしそうなっている、それ以上でも以下でもない。またmesさんは、「計量経済学」と「貨幣信仰論」とは相容れないことを指摘されています。前者が「計算」で成り立つ「論理」の世界とすれば、後者は「忖度」で成り立つ「現実」の世界、次元が違うのです。suyapさんの学者に対する「プーッ」感は、mesさんの《計量経済学者の視野が狭いのは、この「計算」という狭い世界に閉じこもっていることがその根本原因であるように思えてなりません。》433)に通ずると思いました。ヤップ人感覚にとって石貨とは何なのか。suyapさんの現地証言、まだまだお聞きしたいです。

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