SSブログ

オカネの起源 [思想]

年末切貼素描.jpg昨日、昭和36年生まれというO君を交えて、竹さんと思い出話になったのだが、昭和56年(1981)、この年はわれわれにとって記念碑的な年だった。高畠の講演会で徳田虎雄さんと出会ったのが3月14日。4月11日に「週刊置賜」発刊。5月22日に宮内修道館を埋め尽くして徳田さんの講演会。ちょうどその頃、出たばかりの『パンツをはいたサル』を山形の八文字屋で見つけ、栗本慎一郎の名をはじめて知った。この年の暮れ、『週刊置賜』に「年末切貼素描」という記事を書いている。「はぐらめい」のペンネームを使った最初だ。ペンネームにしたのは、親父に知られたくない一心だった。その記事に『パンツを・・・』からの引用がある。K・ポランニーの弟、マイケル・ポランニーに依りつつ、《近代科学の影響の最も大きなものは、人間が人間の精神を信じることができなくなり、その外に外部的な真実があると考えるようになったことである。》で始まり《新しい科学的発見は、けっして学校化されてしまった社会のそのまた学校で積み重ねられた教育の結果生まれるものではなく、ヒトの、あるいは科学者の深層の知によって、問題が与えられ、解決が与えられる、ということなのである。もし、あなたが新しい発見の方法を求めるときには、あなた自身がすでにもっている内知に依拠すること、それ以外に方法はないのである。》と〆る。「放知技」感覚に通ずる。私にとって栗本氏との出会いは、一般的世界認識を相対化し、きっちり自分なりの視点を持つことへの導きとなった。そういえば栗本氏は徳田さんの自由連合に所属したことがある。

と、こんなことを書き出したのは、亀さんの発言に発して、「オカネの本質」をめぐる重要な議論があったから。その議論、亀さんによる『パンツをはいたサル』からの引用《今日でも私たちは、「支払う」という言葉を使っている。この払うは、オハライのハラウである。シハライはオハライからきているわけだ。穢れをハラウための道具が御幣であり、貨幣の「幣」は、まさしく穢れをハラウためのものを意味している。/日本語だけではない。英語のpay(支払う) の語源は、pacify(鎮める、なだめる)で、:穢れた状態を脱して危険をなくすという意味がある。そうでなければ、精神とおカネが、同じ秤にかけられるはずがない。それを、すべて投入労働量などという「モノ」的尺度で測って、なんとか等量のものを探り出そうとしたところに、『資本論』の根本的間違いがあった。》に始まり、suyapさんの住むヤップ島のいわゆる「石貨」についての現地証言、その使われ方ですが、西洋に毒された現代人が想像するマネー、おカネではありません》《共生社会では、人と人の結びつきが何より大事です。そういう結びつきを作るひとつのツールが石貨なのです。》。「人間関係確認ツール」とでも言えばいいのだろうか。「オカネ」の発生は「物々交換」ではない、そもそもは「心の交流」を物象化したことに発する。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。