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永次の変身 [吉野石膏]

星清一さんDSC_1431.jpg昨日、市民大学講座を聴いていただいた星清一さん(昭和6年4月1日生 88歳。この度スタンフォード大学教授から移って東大経済学部教授になった星岳雄教授のお父さん)から呼ばれて1時間以上にわたっていろんなお話をお聞きした。肥料店を営んでこられた方なので、まずリン鉱石からリン化成肥料をつくるプロセスでなぜ石膏が出てくるかの化学的説明から始まった。聞き流すのはもったいない話が始まりそうなのでボイスレコーダーをこっそり作動させていた。

「桑サンべ」の話が出た。はじめて聞く言葉だったが「三兵衛商法」に関連してのことだった。「農産物というのは大抵直接消費が可能なのだが、桑だけは違う。桑を蚕に食わせて繭にする。桑の出来具合が繭の出来を左右する。そこで桑を売り買いする商売が出てくる。気象の具合でいい年もあれば悪い年もある。売れないときにも売らねばならない。そこで口八丁手八丁手練手管の商売になる。人を良くしていたのではやっていけない。『三兵衛商法』の由来は『桑サンべ』ではないか」ということで、なるほどと納得した。

須藤永次は13歳から9年間、荒砥(白鷹町)の大友商店で丁稚奉公する。《大友の主人は「商人は三兵衛でなければ駄目だ」という。三兵衛とは売る兵衛、買う兵衛、盗む兵衛ということだが、それ位の腕がなければ、商人になれないと店員たちにどなりつけていた。》(「吉野石膏 須藤永次伝」永次は反発を覚えつつも、この環境下で商売を叩き込まれる。
須藤永次を直に知る宮内人に定着する永次像は、どうしてもこの延長上にある。しかし『男子、三日会わざれば刮目して見よ』。永次を変えた背景に浅野総一郎との出会いがある。そして『須藤永次翁伝』によれば、鶴岡の生糸羽二重問屋平田商店支配人佐藤千吉氏とのやりとりで、「三兵衛商法」からの脱皮を果たす。「吉野石膏 須藤永次伝」宮内人は「変わった永次」をあらためて見直さなければならない。ただし「変わった」と言っても、そう丸ごと変われるわけではない。永次の中に、新たな視点が育ち始めたのだ。その新たな感覚がやがて、石膏ボード業界の立ち上げとなり、吉野石膏コレクションとなってゆく。そこをしっかり評価しなければならない。宮内人にとっての新たな須藤永次像が浮かび上がる。『須藤永次翁伝』は単なる立身出世の物語ではない。まだまだ遠慮がちではあるが、「やんちゃな自分だけはない」面を伝えたかったのではないか。そこから、近代日本の底流にあった「志」が見えてきた。あまりに「個」に偏った戦後日本、今その「志」を掘りおこさねばと、切に思う。

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