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永次が浅野総一郎から学んだこと [吉野石膏]

後藤新平と五人の実業家Scan 20.jpg『後藤新平と五人の実業家』(後藤新平研究会 藤原書店 2019.7)が届いた。渋沢栄一(1840-1931 埼玉)、益田孝(1848-1938 新潟)、安田善次郎(1838-1921 富山)、大倉喜八郎(1837-1928 新潟)、浅野総一郎(1848-1930 富山)五人の有力実業家と後藤新平(1857-1929 岩手)との関わりが取り上げられている。

須藤永次(1884-1964)が東京磐城炭鉱株式会社浅野総一郎の代理人の訪問を受けたのは大正初期、30歳前後のことだった。永次は宮内周辺製糸業界の燃料を薪から石炭に替える役割を担うことになる。須藤永次飛躍の第一歩となった。須藤永次商店広告Scan 13.jpg大正8年の須藤永次商店の広告には、福島出張所、山形支店の記載もある。『須藤永次翁伝』に《石炭で浅野総一郎翁に目をかけられ、かわいがられたことは終生忘れ得ないことであった。翁は再度にわたって永次の家を訪れ「かせぐに追いつく貧乏なし忍耐」と揮毫して若い永次の人生訓として与えたのであった。》とある。浅野との出会いによって、永次はそれまでの田舎商売から脱却する。目は世界に開かれる。

その浅野の周辺にいたのが上記傑物たちであった。直接間接に永次はその影響を受けていたに違いない。それがあってこその、永次、終戦その日その晩の「すぐ東京に戻って石膏ボードを作る!」の決断、そして特許公開による石膏ボード業界の立ち上げだったに違いない。空襲による焼野原復興の永次の思いは、関東大震災復興に取り組んだ後藤新平をはじめとする先逹の思いに重なっている。
《後藤の事業に、いうまでもなく金は付き物。その金を後藤は一人で捻出してきたのか? 後藤の周囲にそういう経済、経営に明るい人間が居たのではないか。もし居たなら一体誰なのか。後藤という男なら、その関係者は決してカネさえ儲ければいいという強欲な人間ではないだろう…と。彼ら実業家も、公益、公共という視点をもって商いをしている人物に違いない。果たして『正伝』を読み直すと、渋沢栄一、益田孝、安田善次郎、大倉喜八郎、淺野総一郎という面々が浮き彫りにされてきた。》(174p)
6人に共通する志の在り処、大倉喜八郎が書き残した渋沢栄一と三菱を興した岩崎弥太郎(1835-1885)とのやりとりが象徴している。《共同運輸会社が、三菱会社と激烈なる競争をして居った時代の事を覚えて居るが、当時岩崎弥太郎さんも、渋沢男(爵)は非凡の人であることを云って居った。又渋沢男も岩崎さんは偉いと云ふ事を知って居った。而して此両雄が柳橋の柏屋と云ふお茶屋に相会した。岩崎さんが渋沢男を招んだのである。そこで岩崎さんが云ふのに「日本の人は金儲をする事を知らぬ、アナタは偉い人であるから一ツ外国人と競争して、独占的の商売をやって見ようと云ふ勇気はありませんか、アナタならば確かにやれる。大いに金を儲けられる」と男爵に対し色々の会社に関係したり、株式会社を起したりなどするよりは、私が海運業に於て成功したる如く、一人で大事業を遣ったら好からうと云ふ意を忠告的に仄めかした。所が男爵は之に反対して、「アナタの云ふ事は尤もであるけれ共それではいかぬ、株式会社を起すならば仮令一株持って居る者でも均しく利益を受ける事が出来る。即ち多数に対して利益を分配する事が出来る。会社を起して衆と苦楽を共にすると云ふ精神であるから、アナタの意見に従はれません」と云って、到頭、肯かなかった。そこで例の聞かぬ気の岩崎さんであるから、自分が客を呼んで居りながら、渋沢男を置き放しにして帰ってしまった。》(40p)確かに「カネさえ儲ければいいという強欲な人間ではなく、公益、公共という視点をもって商いをしている人物」達だったのである。岩崎が維新政府と共にあって財をなしたのに対し、6人は維新政府とは一線を画してそれぞれの志を涵養したのではなかったか。「野育ち」を自称する永次が、浅野との出会いによって、近代日本の根底をなした真っ当なる志に目覚めたに違いない。このことは実に僥倖であった。それが、空襲の惨禍から立上がる日本の住宅を燃えない建築に一変させ、さらにそこから吉野石膏コレクションを産みだし、またふるさと宮内への惜しみない貢献となった。

宮内人にとって身近な須藤永次を通して、近代日本の良質な志に出会えた喜びを、今噛みしめているところです。

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