SSブログ

神が永次に石膏を与え給う [吉野石膏]

『吉野石膏90年史』本文の最後に、「種々の素材が開発されてきているが、いまだに石膏に代わる物質は生まれていない。おそらく将来にわたり、石膏のように単純な物質で、石膏の機能を代替するものは現れないと思われる」という瀬戸山克己工学院大学名誉教授の言葉があった。あらためて須藤永次の一生を辿ってみて、その成功のキモは「石膏との出会い」に尽きる。神が永次に石膏を与え給う。

石膏とは何か。吉野石膏サイトの説明がよくわかる。http://yoshino-gypsum.com/sitemap/index.html

*   *   *   *   *


我々が目にする「せっこう」は2分子の結晶水をもつ硫酸カルシウムで、通常「二水せっこう」と言います。
  • 二水せっこうは120℃~150℃に加熱すると結晶水全体の3/2を失って「焼せっこう」になります。
  • 焼せっこう」に水を加えると水和反応を起こし、再び元の「二水せっこう」に戻って固まります。
この性質を利用し、2枚の厚紙(原紙)の間に水で練った「焼せっこう」を流し込み、板状に固化させて、せっこうボードはできています。

*   *   *   *   *

要するに石膏は、「加熱すると粉になり水を加えると固まる」という単純な性質のもの、単純だけにすごい。セメントは固まったらそれっきりだが、石膏は熱をかけると粉に戻る。だから何回でもリサイクル。ここも石膏のすごいところ。
永次と石膏との出会いは、まず戸内応助から吉野鉱山での石膏発掘事業を引き継ぐことから始まった(大正2年)。ここではまだ片手間。このころ本業は石炭。それから製糸業に乗り出して絶好調を謳歌するも昭和恐慌(昭和4年)で生糸暴落→破産、天国から地獄、この時が最悪。しかし、石黒七三郎の「石膏は続けろ」の意を受けて背水の陣での石膏への挑戦。そして最大需要先の日本タイガーボード製造合資会社(旧東洋工業建材所)の焦げ付き→ボード事業引き受け(昭和7年)→東京への工場移転(昭和10年)。昭和12年、社長石黒七三郎 専務須藤永次で株式会社に。昭和15年、石黒が石膏事業から身を引き、永次が単独で事業継承。それから戦争が始まり、空襲→疎開→敗戦→東京に戻ってボード工場再開。そして始まる大発展。
大発展の鍵となったのは、リン酸肥料副産物の石膏利用だった。須藤恒雄が語った言葉、
《大日本人造肥料って会社が、燐酸肥料を作る時に燐鉱石から燐酸を取って加工して、燐酸肥料というものを 作っていたんだが・・・その時に副産石膏が大量に出るということが分かった。ただ、これが黒くて使いみちがない。石膏なんて、白いから使いみちがあるわけで、黒い石膏なんて誰も相手にしない。白いほど良い石膏になってるわけだからね。/ そういう状態の時に、これをうまく使ってみてくれと、うちの販売店がね、10トン車で宮内に寄こしているんだ。当時、宮内には東京工大(当時の蔵前高工) 出身で、陶磁器会社から親父が譲り受けた優秀な技術屋(坂場松男)がおって、俺と一緒に寝泊りしていたんだよ。彼が分析してみたところ石膏としては最高の値打があるというんだなあ。/それではというんで、ボード用としてタイガーボードの東洋建材に売ってたわけよ、何十トンかずつ毎月ね。紙と紙の間に石膏を包んだのがボードだから、色が黒いだけで石膏として値打ちがあるというんで、試作してみたら非常に立派なものができたんだな・・・。/燐酸石膏を使うんだったら、原料工場の傍に行った方がいい、というわけで、足立に荒川放水路を挾んで、大日本人造肥料の反対側、橋を渡って反対側に土地を借りて、急遽うちの工場が行ったわけ。》そして、 最初は石膏代など、ただでもいいということだった。捨てるのに運賃だけでもトン何百円もかかる、大変なもんだからね。ただでもいいっていうんでやったとこ ろが、儲かり過ぎてねぇ。みな税金に納めるんじゃ勿体ないというわけで石膏代金、原料代として1トンについて二百円か、二百五十円かナ、払うことにした。 それでも儲かり過ぎるんで、六百円で計算することにした。それじゃ、吉野石膏も取れと言われたが、当座、吉野石膏は儲かっていたもんだから、余計な利益あげて税金取られても、というわけで、「いずれ吉野石膏が困ったときに利益をもらうから、この際遠慮する」って、利益の配分は遠慮した。》
須藤会長の話でいちばん痛快に語られて、ゾクゾクして聞いた覚えがある。要らないものが息を吹き返す、その決め手となったのが坂場松男という人による宮内工場でのテスト結果だった、ということも宮内人として誇らしい。「蔵前を出た人が宮内にいる(いた?)」という話を子供心に小耳に挟んだことがある。「蔵前を出てなんで宮内みたいな田舎に・・・」というニュアンスで語られていて妙に記憶に残った。「蔵前」が「東京工業大学」であることを知ったのは「吉本隆明」によってだったかもしれない。坂場松男という人がどういう人なのか、今のところこれ以上は不明。ちなみに朝の連続ドラマ「なつぞら」の主人公の名が、結婚して「坂場なつ」。

nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 1

めい

日経「私の履歴書」。リチウム電池でノーベル賞の吉野彰氏。旭化成に入社して2番目に取り組んだのが《燃えにくさと断熱性を兼ね備えた新建材》だったとのこと(→失敗)。

   * * * * *

旭化成名誉フェロー 吉野彰(8)連戦連敗

樹脂・建材…相次ぎ挫折 孤独な「探索研究」の難しさ
吉野彰
2021年10月8日 2:00 [有料会員限定]

1972年、旭化成の研究者として新たな人生を踏み出した。配属先は米ダウ・ケミカルとの折半出資会社である旭ダウの研究開発部門。研究開発のシーズ(種)を見つけ、新しい製品に育てていく「探索研究」という仕事を任された。
旭ダウの研究開発部門が入っていた建物

最初に取り組んだのが「合わせガラス」に使う新しい樹脂の研究だ。

合わせガラスは車のフロントガラスなどに使い、割れても飛散しないよう2枚のガラスを貼り合わせる。要所は接着剤の役目をする中間膜という樹脂だ。旭ダウはアルミ箔にくっつく樹脂を開発済みで、これをガラスにもつくように改良し、合わせガラスに使うことを狙った。

探索研究は孤独な作業だ。入社1年生とはいえテーマを自分で決め、実験や分析も基本的にはひとりでする。ガラス用樹脂の研究は、社の戦略製品に新用途がひらけると提案し、上司も認めてくれた。

結果的には、2年で諦めることになった。樹脂がガラスにくっつくところまでは確かめた。しかし、ライバル企業の既存製品が性能でもコスト面でも優れ、太刀打ちできそうになかった。最後は自身で見切りをつけた。

気を取り直して次に挑んだのが、燃えにくさと断熱性を兼ね備えた新建材だ。

73年、中東戦争をきっかけに原油価格が高騰し、第1次石油危機に発展した。トイレットペーパーが品切れになり、街中ではエスカレーターが止まり、深夜のネオンサインも消え、省エネルギーへの関心が急速に高まった。

旭化成は「へーベルハウス」など住宅事業を手掛け、不燃性建材は得意分野だった。省エネが注目され、冷暖房の熱を逃がさない高断熱性の材料が期待された。発泡スチロールのような断熱材はもともと燃えやすいが、これを燃えにくくし、断熱性を高めればニーズに応えられる。

そう考えて研究を始めたが、これも2年で見事に失敗した。省エネという社会的ニーズの把握はよかったが、肝心のシーズが追いつかなかった。探索研究は2年で見通しがつかなければ見切りをつけるのが相場だ。このときも自分で撤退を判断した。

3つめの研究は発想を変えることにした。ニーズから先に考えると、背伸びしてしまう。逆に、シーズの側から発想したのである。目をつけたのが活性酸素の研究だ。

やや難しくなるが、空気中の酸素を特殊な染料と可視光線にさらすと活性の高い酸素になる。寿命は短いが、殺菌や汚染防止、浄水などに使える。京都大学時代から光による化学反応を研究し、その経験を生かせると考えた。

2年後の中間評価では「筋が良さそうだ」とされ、最初の関門は超えたが、4年目であえなく撃沈となった。研究の種は独創的だったが、ニーズを明確にしないまま研究を続けたのが敗因だった。

3つの失敗はさすがにこたえたが、上司から叱られたり、咎められたりした記憶はない。社内には「探索研究は失敗して当たり前」と、失敗を許容する雰囲気もあった。

むしろ辛かったのは、社外の研究協力者への説明だ。3つめの活性酸素の研究では漁網に塗ると赤潮の付着を防げると考え、漁網メーカーに協力してもらっていた。期待に応えられず、断念を伝えたときの相手の渋い表情はいまも思い出す。探索研究の厳しさと孤独さを改めて痛感した。

吉野彰
スマートフォンやパソコンなど私たちの身の回りの様々な機器を動かしているリチウムイオン2次電池。これを開発し2019年のノーベル化学賞に輝いたのが旭化成名誉フェローの吉野彰さんです。手がけた研究テーマがなかなか実らない苦しい時期に運命的に出合った「電気を通す樹脂」。そこから電池開発に乗り出すも、次から次へと難題が持ち上がり――。諦めない精神と柔軟な発想で道を切り開いてきた、希代の企業研究者の物語です。

by めい (2021-10-08 04:02) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。