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須藤永次は結城豊太郎とつながっていた!? [吉野石膏]

24日の南陽市民大学講座で語ってきた「吉野石膏 須藤永次伝」、佐藤庄一結城豊太郎友の会々長の発言もあって、結城豊太郎にリンクした。

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・昭和7年(1932) 焼石膏の最大得意先タイガーボード製造合資会社に貸倒れ発生(1万6千円)→半年間の委託経営で石膏業者が経営すべき事業であることを確信→日本興業銀行によって競売。吉野石膏採掘製造所が落札(1万3千5百円)。永次曰く「実は私も保証金(一割)の外、資金は持ってません。この建物を自分の工場の方に移転します。その落成と共に担保に入れますから、残金の全部を何とか貸してもらいたい。」「興業銀行と申せば、国民の事業をおこすための銀行であると信じていますから、この破れ果てた工場を再興しようとお願いするのです。私には必ずやってみせる自信があります。そこを信じてください。」→日本興業銀行、承諾

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と書いたのだったが、あらためて『吉野石膏90年史』を見ると、《日本タイガーボードの主取引銀行である日本興業銀行も、同社は再建の見込みなしとして、競売に付することが決定した。/競売に当たって応札したのは当社と日建製紙の2社だけであった。日本興業銀行としては、石膏メーカーである当社に好意的であったことも幸いして、借地権、建物、什器、電話、機械設備一式現状のまま、1万3,500円で落札することができた。これが、当社のボード事業が今日ある決定的な分岐点となった。》(21-22p)とある。

結城豊太郎は、昭和5年から、林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁になる昭和12年2月まで日本興業銀行の総裁を務めている。佐藤庄一会長によれば、結城はその企業の将来性を判断して担保なしの融資にも応じ、日本銀行から睨まれることもあったという。結城は永次の7歳上、隣町同士同郷のよしみ、永次が結城を訪ねて肝胆相照らすこともあったのではないか。何かと対照的な二人、お互いに自分にはないものを認めて影響しあったかもしれない。その交流を想像してみると楽しい。

さらに、永次が若い時に物心両面にわたって大きな影響を受けた浅野総一郎は、結城が仕えた安田善次郎とは極めて近い。浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初、二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎安田財閥)が支援に乗り出したことで動き出す。浅野が浅野セメントを合資会社にする際に安田が出資に協力して以来、安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、浅野総一郎と安田善次郎の個人的な信頼・友情に基づいて、浅野財閥が急速に発展した。》ウィキペディア)二人の関係を示す何かが出てくるかもしれない。

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