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長白山行(9)白頭山天池⑦ 鎮斎の神璽について [神道天行居]

駐御大神璽DSC_1907.jpg

(前列左から2番目は牛島貞雄師団長。師団挙げての一大神事であった)

最初に、白頭山天池に鎮斎の神様についてかねてからの疑問。《神儀は第一殿と第二殿とから出来て居り、第二殿は御主神天照大御神を始め奉り皇典に明記してある文武の大神十幾柱の神々が斎き奉ってある。然るに第一殿は豊受姫神一柱が斎き奉ってあるのである。》(『古道神髄」) 一方、白頭山天池遥拝詞には《掛巻くも畏き白頭山天地に斎い奉る豊岡姫大神をはじめ・・・》とある。豊岡姫大神と豊受姫大神とは同神である。ここでなぜ「豊岡姫」なのだろうか。ちなみに天行居には「十種神宝(とくさのかんだから)」という日本古来の秘伝が伝わるが、その伝法名が「豊岡姫魂振伝(たまふりのつたへ)」。「豊岡姫」という神名は「陸奥国風土記」の逸文に「白川郡飯豐山此山者豐岡姫命之忌庭(ゆにわ)也」とあるという。(白川郡飯豊山とは福島県白河市と思われる。)なぜ「豊岡姫」なのかずっと気になってきたが、この疑問は疑問として、天行居にとって豊岡姫大神(豊受姫大神)とはどういう神様なのかを確認しておきたい。原典ともいうべき書簡がある。

拝啓 御多忙中誠二恐れ入り候得共御都合よろしき日を以て 豊受大神宮へ代参して頂き度 大々神楽奏上 お手続き被下度候 願主 友清歓真
   願意要領
 今より三十余年前 丹後元伊勢宮境内発掘の砌(豊受宮の雄略朝迄鎮座の霊地)天平甍等十数個土器発掘 京都の古代土器通にして敬神家又祭祀の古典に精しき堀天龍齋翁(鳥尾子爵の紹介にて)一見して何れも正しく二千年前のものなるを知りしも 大部分破損せる故完全なるもの三四個のみを譲受けたるその中の一器珍らしき品にて 球形の神器也大いにあやしみて清水にてよくよく洗ひみるに多くの穴あり 又 タスキがけあり 且つ稲實あまた出て来れり実二是れトヨウケ大神の地下の御霊代なる事を知る
 地下に御靈代を鎮めその周囲に天平甍等に供物を盛り足らはし之を清砂を以て蔽ひ その御霊代の真ッ直ぐ上ニ斎柱を立てて地上ニあらはし之を中心として神殿を築く事古代の神法也(斎柱、忌柱、心の御柱とも云)於茲、堀翁、驚き潔斎して之をひそかに奉安し 時節を待ちて三十余星霜 今秋當方ニ改めて豊受大神として祭祀する事となれり
今日二至る迄ニハ當方ニモ種々此事ニツキテ不思議極まる奇蹟あり 今言挙げせざるのみ
倭姫命の霊感ありたる雄略様の二十一年丁巳より今年實ニ千五百年也
 山田へ遷宮は其翌年故明年が千五百年乎 (朱書)
右の事情に有之候間右御霊代を当方ニ祭祀仕候事につき可然奏上を得度 小生参拝すへき筈なれ共只今旅行ニ差支へ候事情も有之何卒大人御代拝被下度奉悃願仕候
 当方に祭祀せるは去る十月一日也
 改めて十月九日に祭典執行せり (朱書)
 神部署の規定等小生不案内ニ御座候処不取敢四十円也封入いたし置候 不足の時ハ追送申上候間
一、豊受大神宮ニ大々神楽奏上の事 当方に御霊代あるを以て大麻は不要なるべし  その辺当局と御相談被下度候
一、豊受大神宮へ御饌奉奠の事
一、倭姫宮ニ可然方法にて右の事情奏上の事
一、倭姫宮の守祓劔祓各一体拝受の事
 大人右御代行被下候日時決定の上ハ御電報被下度候
 誠ニ何共御手数の儀恐縮千万なれ共特ニよろし九おたのみ申上まゐらせ候
    十月十三日   歓真
 篠田大人 侍史  (友清歓真「大正15年10月13日 篠田幸雄宛書簡」)
堀天龍斎翁のお働きが要である。友清先師が1888生(-1952)に対して堀翁は1856生(-1930)。神器出現は大正15年(1926)の「30余年前」ということなので明治29年以前(1896)か。紀州の神人沖楠五郎(?-1890?)の霊統を継ぐ40歳前の堀翁、直ちにその重大性を察し、太古神法一千日大潔斎をもって豊受大神の御霊代を謹修。御霊代鎮齋の場を求めて天行居に接近、約30年後の昭和2年5月、神示によって御霊代は堀翁から友清先師のもとに。先師、その年11月石城神社において大山祇大神より「十の神訓(山上の天啓)」の神示。神に命ぜられるまま昭和3年石城山の麓に本部神殿建立。そして昭和4年、石城山頂に「太古神法」によって謹修された大神璽が地下に御鎮座の日本(やまと)神社が創建された。堀翁、それを見届けるようにして昭和5年登仙。そして白頭山天池神事が昭和8年(1933)。
実は冒頭の文には次の文章が続いている。《第ニ殿の神儀は畏れながら終始私が奉仕したのであるが、第一殿の神儀は四十年前に於て堀天竜斎先生が殆ど諸儀謹修奉仕を完了しておかれたもので、その一二の最後の御儀だけを堀先生の命令通りに私が奉仕したものである》(全集③149p)ここから白頭山天池に鎮まった神璽も明治26年(1893)頃に謹修されたものだったことが推し量れる。すなわち堀翁は、明治29年以前に元伊勢から出現の神器から豊受大神の御霊代を少なくとも二体謹修、一体は石城山の日本神社の地下に、そしてもう一体が白頭山天池に鎮まったということだ。白頭山天池神璽鎮斎の昭和8年(1933)7月30日、その年「古道」8月号に「天關打開の準備成る」と題する先師友清歓真名の布告が載る。天關打開の根幹的準備は今回の白頭山天池神事を以て成就したり。これは昨年秋井口宗主の霊感提示に出づるも昭和二年夏に於ける堀先生の一大委託と合符するところにして、更らに神示を仰ぎつゝ密々計画を編成し、萬艱を物ともせず達成をみるに至りたるを天行居の一員としてのみならず日本國民の一員として余は満腹の感激を抱くもの也。更らに井口宗主が今春来雲霧の中にかくれて奉仕せられ、某神山に隠栖せられ居る或る高士の熱誠と努力とによりて完了せられたる大神事は一切厳秘の大事にして、其の消息の一片をも語るを得ざれども皇國の霊威の為めに文字通り全國民に大感奮を興ふるところの畏るべき大神事にして、今や幽顕両界にわたる天關打開の準備は遂に完成せられたることを先づ全國同志諸君に報告し得る機曾に到達したることを茲に謹んで言明するものなり。》
『神道古義』の「天行居の出現が正神界の意志たる理由」の章、そこに記された第一の理由が「神道天行居の中心とも申すべき御霊代」の存在である。それが「丹波元伊勢の豊受姫大神様の御霊代」であることは言うまでもない。実はその御霊代は二体あり、その二体が鎮まるべきところに鎮まることではじめて天行居は天行居たるべき存在の責務を担いうる。恥ずかしながら、なぜ天行居にとって白頭山天池神事が重要なのかがこれでようやく見えてきた。なりゆきのままに白頭山に行って帰って、そしてあらためて白頭山に関して書かれたものを眺めつつ、このたびの自分の行動をたどってみて、そして今、白頭山天池に鎮斎の大神璽が日本神社に鎮斎なる神璽と同等なることに気づかされて粛然としている。まさに石城山と白頭山天池とは表裏一体なのである。(つづく)

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