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長岡南森遺跡、「前方後円墳」認定に大きく前進 [地元のこと]

昨日、長岡南森遺跡現地報告会に行ってきた。この遺跡については、ウィキペディアにも「南森古墳」として詳しく記載されていた。(→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A3%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3)正式にはまだ「古墳」ではなく「遺跡」なのだが、この度の調査報告、「前方後円墳」としての認定に大きく前進したと言っていいのではないか。ちょうど円形と方形をつなぐ「くびれ」が確認され、さらに左右対称の位置にテラス(段形地形)
(段状地形)(
(段状地形)
の存在も見つかった。そのほか祭祀用の器具も多数発見されたという。出土品は縄文早期のものから中世まで広い時代に亘るという。担当の角田朋行補佐に「前方後円墳との決め手は何が分かった時か?」と尋ねたら、「あくまで状況証拠の積み重ね」との答えだった。ある程度進んだところで調査委員会(委員長 菊地芳朗福島大教授)によって判断されるとのこと。

前方後円墳と認定されれば東北最大級で、4世紀中葉の可能性もある稲荷森古墳に後続し、4世紀後葉の造営と推定されるという。南九州の古墳群についてであるが、「中央から地方(辺境)に波及した」というこれまでの常識が覆りつつあるらしい。(『西都原古墳群』北郷泰道 2005) 下記の飯山史観に深く関わってくる。すなわち《応神天皇の「大隅→河内」と,前方後円墳の「大隅→河内」
この二つの流れが↑並行していることは…
応神天皇の「河内王朝」の淵源が,なんと!「大隅半島」にある!ということ》。では、東北のこの地の古墳群は一体何を意味するのだろうか?

現地で顔を合わせた高橋与一前金山公民館長による報告記事を見つけました。→https://blog.goo.ne.jp/miyakodouso/e/32e584644f3b898c4340d2d09b9afc1e

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◆2017/12/10(日) 【連載:ホンダワケ】 巨大な前方後円墳の原型は?
河内の応神王朝の源流は?
これら巨大古墳の原型は↓大隅半島にある
河内大塚山 応神 仁徳
左から「河内大塚山古墳」,「応神天皇陵」.「仁徳天皇陵」
きょうの話は…,『河内の「応神王朝」の源流』などと副題に書いてあるが,歴史の話ではなく,考古学の話である.
最新の考古学が検証した「考古学的事実」と「歴史学的な史実」が,見事に合致!という典型が,じつは「応神天皇」なのだが…
本日お話しする考古学の話は,「応神天皇」を念頭に置いて,お聞きいただきたい.
ところで「応神天皇」といえば,八幡神社である.
石清水八幡宮・鶴岡八幡宮・宇佐神宮をはじめ,全国に4万社以上もある八幡神社の『主祭神』.それが応神天皇だ.
日本の神社には主に七系統の神々が祀られていて,それは八幡神・伊勢神・天神・稲荷神・熊野神・諏訪神・祇園神の七つ.
それで,数の上で圧倒的に多いのは「八幡さま」で,2位の「お伊勢さま」の2倍以上もある.ということは…,ほとんどの日本人が「八幡さま」=「応神天皇(ホンダワケの尊)を拝んできたということだ.
「ホンダワケ」の「ワケ(別)」は,「地方の高貴な豪族の長」という意味だが,「ホンダワケ」は,一体どのあたりの地方から来たのか?
そこで考古学なのだが,最新の考古学の知見は…
前方後円墳の築造技術の最先端は,大隅半島にあった!という.
昭和50年代までの考古学研究では,「古墳と古墳を築造する社会は畿内地域で始まった」とされていた.
ところが!平成期に入ると,南九州の古墳に関する従来の評価を大きく転換する知見を提示する考古学者が現れた.
柳沢一男氏(宮崎大学名誉教授)だ.
柳沢一男氏は,大隅半島の前方後円墳について従来の年代的な位置付けを見直し,大隅半島では古墳成立期からすでに前方後円墳の構築が始まっていたことを強く主張した.(近年では柳沢一男氏の考え方が古墳研究者のなかで主流=定説となりつつある.)
結論を簡単に言ってしまえば…
「河内大塚山古墳」,「応神天皇陵」.「仁徳天皇陵」など畿内地域の前方後円墳の築造技術は,大隅半島に原型(プロトタイプ)が あり,その時代は「応神天皇」の御代であった!…と.
ということは,巨大な古墳の周辺に百基を超える中小古墳をつくる社会構造も,大隅半島から畿内=河内に(応神天皇の御代に)移動していった!…ということだ.
『日本書紀』の「応神天皇紀」で,最も驚かされるのは…
「大隅宮」という言葉が何の脈略もなく突然出てくることだ.
応神天皇22年(291) 幸難波居於大隅宮.「難波に行幸 大隅宮に滞在」(記事
さらに応神天皇は,大隅宮で崩御される…
応神天皇41年(310)2月15日 崩于大隅宮.「大隅宮にて崩御」(記事
これは↑(筑紫=九州で生まれた)応神天皇(ホンダワケ)が「東征」して難波(なにわ,大阪)に行き,河内王朝(ワケ王朝)を立ち上げた根拠の一つなのだが…
応神天皇の「大隅→河内」と,前方後円墳の「大隅→河内」
この二つの流れが↑並行していることは…
応神天皇の「河内王朝」の淵源が,なんと!「大隅半島」にある!ということであり,日本古代の歴史解釈は様変わり!となる.
「様変わり!」とは,応神天皇が「熊襲」=「地方の豪族の長」という解釈をせねばならないからだ.それが「ホンダワケ」の意味だ.
「応神天皇は熊襲族の首長だった!」 ということだ.
大隅半島で前方後円墳を築造した熊襲族.その長が応神天皇.
仲哀天皇を「賊矢」で射殺した(記事)のは熊襲族.
その仲哀天皇の後継者を応神天皇にするために…
『日本書紀』は,神功皇后や武内宿禰の物語を考え出した….
このことが↑古代天皇家の最大の秘密である.

飯山 一郎 (71)


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