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『旧唐書』と『新唐書』の間(守谷健二) [歴史]

守谷健二氏については、以下の記事で紹介したことがある。守谷氏の議論は私にとって「腑に落ちる」。

「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(1)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-22
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(2)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-23
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(3)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-24
飯山史観に通底する。→「天武天皇は,国づくりの名人!」http://grnba.jp/more19.html#ws03113

『日本書紀』をめぐっては、東北一郎会の懇談会でも話題になった。まだ読み切れていないが、mespesadoさん(川村明氏)の考察も関連するのかもしれない。→「九州王朝説批判」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

副島隆彦氏の「重掲板」で久しぶりの守谷氏、今回も渾身の記事、「腑に落ちた」ので転載させていただきます。

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[2398]『旧唐書』と『新唐書』の間
投稿者:守谷健二
投稿日:2019-05-03 16:01:54

 守谷健二です、2019年5月3日

『旧唐書』は、日本記事を、「倭国伝」と「日本国伝」の併記で創っている。『旧唐書』は、「倭国」(筑紫王朝)と「日本国」(近畿大和王朝)が日本列島に並立していた、と認識していた 
 西暦663年に朝鮮半島の南西部の白村江で、唐・新羅連合軍と戦ったのは、倭国であった、と明記する。倭国はこの戦いに三万余の大軍を派兵し大敗を喫したのであった。 倭国はこの戦いに、王朝の総力を注ぎ込んでいたのである。
『旧唐書』に初めて登場する日本国記事は、703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事である。
 その記事は、日本国が倭国を併合したことを伝えている。しかし、日本国の使者たちの説明は矛盾が多く、中国の史官たちを納得させることが出来なかった。
 ―その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・『旧唐書』より
『旧唐書』が上梓されたのは、945年である。それから百十五年後の1060年に『新唐書』が上梓されている。両者とも正式には『唐書』であるが、区別するために『旧』『新』とつけられているに過ぎない。
 『旧唐書』が既に成立しているのに、何故『新唐書』が編まれたのだろう。
通説は、唐末の混乱で、唐末期の資料が失われたので、『旧唐書』の記事には不備があった。
 宋の時代になって、唐末期の資料が多く発見された。それ故、『旧唐書』の不備を補いより完全な「史書」を作ることが、勅命(皇帝の命令)でなされた。と通説は伝える。
 しかし、『新唐書』は、史料の扱いが杜撰で、誤りも多く、『旧唐書』よりも信頼性に欠ける、と云うのが後世の学者たちの一致した見解である。
 『新唐書』の日本関係記事も、誤りが目立つ。特に阿倍仲麻呂の経歴を誤っているのは納得できない。
 『小倉百人一首』天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かもーの阿倍仲麻呂である。
 仲麻呂は、十六歳で唐に留学し、科挙に合格し、微官から出発し、秘書監(従三品)、左散騎常侍(従三品)、鎮南都護(従二品)と、唐朝に重きをなした人物で、李白、王維、杜甫など詩壇のスターたちとの詩文の応酬も多く残されていた超有名な人物である。まともな歴史家であったら、間違いようがない人物なのだ。
 この『新唐書』であるが、 
-日本国は、古の倭奴なり-出始められている。日本国の連続性を認めている。日本には王朝の交代がなかったと書く。
『旧唐書』の見解を否定する。(つづく)

[2400]『旧唐書』と『新唐書』の間
投稿者:守谷健二
投稿日:2019-05-06 13:45:05

2398の続きです。 2019年5月6日

 『旧唐書』と『新唐書』を比較する。
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依りて居る。・・・」
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・」   以上『旧唐書』より
「日本は古の倭奴なり。京師を去ること万四千里、新羅東南の海中にあり、島に居る。・・・」『新唐書』より
『新唐書』では、日本国と倭国は同一の国として記載されている。日本には、倭国(筑紫王朝)と日本国(近畿大和王朝)の並立などなかった。王朝の交代(易姓革命)など無かった。と云うのが『新唐書』の見解です。
『旧唐書』が成立したのは西暦945年、『新唐書』が成立したのが1060年です。この百十五年の間に、中国は日本に対する認識を変えたのです。
 実は『新唐書』の日本記事は禁じ手を使って書かれています。どういう事かと云いますと、『新唐書』の日本記事は、983年、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が齎した『王年代記』に依拠して書かれています。
983年は、宋の二代皇帝太宗の時代です。唐の時代ではありません。宋の時代に新たに手に入った資料で『旧唐書』の認識を変えてしまったのです。
『王年代記』は、日本の最初の主を天御中主とし、天照大御神、神武天皇らを経て六十四代円融天皇に至る系譜であった。
 不思議に思うのは、宋に渡った奝然が皇帝にいとも簡単に拝謁を許されていることです。奝然は日本国の公式の使者ではありません。一介の学僧にすぎない奝然がどうして皇帝に拝謁することが許されたのだろう。
「雍煕元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。・・・
・・・太宗、奝然を召見しこれを存撫する事甚だ厚く、紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々するを聞き、因って嘆息して宰相に言って曰はく、「これ島夷のみ。すなわち世祚遐久にして、その臣もまた継襲してたえず。これけだし古の道なり。中国は唐季の乱より寓県分裂し、梁・周の五代、歴を享くること尤も促(みじか)く、大臣の世冑、能く嗣続すること鮮(すく)なし。朕、徳は往聖に慙ずといえども、常に夙夜寅(つつ)しみ畏れ、治本を請求し、敢えて暇逸せず。無窮の業を建て、可久の範を垂れ、また以て子孫の計をなし、大臣の後をして世々禄位を襲わしむるは、これ朕の心なり」と。『宋史』日本伝より
宋の皇帝太宗は、奝然の説く日本の歴史(万世一系・易姓革命がなかった)を聞き、溜息をつき、それこそ古の道(理想)であると、中国も本来そうあるべきなのだ、としきりに感心した。と『宋史』は記す。
『王年代記』の内容の真偽を検討する事なしに、唐の滅亡から極短期間に五王朝が交代(易姓革命)した中国の現状、二代皇帝・太宗もいつ革命が起こるか、不安で堪らなかったのであろう。革命が起こらないことは、中国皇帝の強い願望であった。この願望が、『旧唐書』の日本認識を捨てさせ、「日本国は古の倭国である」を中国正史に定着させたのではないか。『新唐書』は宋の代に編纂された。
 それにしても、一介の東大寺の学僧にすぎない奝然が中国に渡る早々に、皇帝に拝謁を許されているのはどうした訳であろう。彼が持って行った銅器十余事とは何であったの何だろう。
 歴史学研究会編『日本史年表』(岩波書店)の西暦982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り、皇帝に拝謁。とある。
奝然が持って行った銅器の中には、黄金が満載させていたのではなかったのか。十㎏や二十㎏ではないだろう、そんな程度で皇帝に拝謁を許されたとは思えない。何百キロの単位だろう。黄金の力で拝謁を買い取ったのではないのか。 ( 続く )

[2402]『旧唐書』と『新唐書』の間
投稿者:守谷健二
投稿日:2019-05-20 11:39:56

守谷健二です。〔2040〕の続きです。2019.5.20

 東大寺の僧・奝然(ちょうねん)の後日談

 宋の二代皇帝・太宗との謁見を終え、西暦986年、宋商人の船で帰国した奝然は弟子の嘉因に太宗皇帝に対する御礼状と貢物を持たせて宋に派遣した、と中国正史『宋史』は詳細に伝えている。
 礼状は、太宗の徳の高さを称え、謁見を許された事への感謝をくどいほどに言葉を尽くして述べている。
 貢物がすごいのだ。琥珀、青い色の水晶の函、青紅白の水晶、螺鈿細工の花形函、金銀蒔絵の函、金銀蒔絵の硯箱と金の硯、金銀蒔絵の扇函などなど数多く。
 とても一介の僧侶が準備できるような財宝ではない。 
 十世紀末から十一世紀初頭と云うのは、平安遷都から二百年経ち、平安の王朝文化は爛熟期を迎えていた。紫式部が『源氏物語』を書き、平安時代の最大の政治家・藤原道長が権力を握った時代である。
 また中国では、唐朝後半の治安の悪化は、陸路(シルクロード)での交易の安全を脅かすようになっていた。それに交易品は絹に加え、中国陶磁器の占める比重が重くなり、海路による交易が有利になっていた。 
 十六世紀、ヨーロッパの大航海時代の幕開け以前は、アラビア人が海路の主人公である。アラビア人は海路でしばしば中国を訪れるようになっていた。海上交易の活発化で、宋の交易船が日本を頻りに訪れるようになっていた。
 『旧唐書』が上梓されたのは、945年である。宋の商人の手で『旧唐書』が日本の王朝に齎(もたら)されたのではないか。王朝はそれを読み驚愕したのではなかったか。日本の王朝の正統性は、神代より断絶がなく続いてきた(万世一系)ことにある。易姓革命の思想を完全に排除したことで「日本の歴史」は創られている。『万世一系』こそが日本の信仰・王朝の正統性の根幹である。
 それなのに『旧唐書』は、日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併設で創っており、倭国が日本列島の代表王朝であったが、日本国が倭国を併合した、と書く。
 これは『易姓革命』ではないか。『易姓革命』を認めては、平安王朝の正統性は崩壊するのである。相手は中国正史『旧唐書』であったが手を拱(こまね)いてもおれなかった。王朝の正統性・存続にかかわる問題であった。
 西暦982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
 983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。
 一介の僧侶が、渡海早々に皇帝に拝謁などできるはずがない。それを可能にした裏技があったはずである。それが奝然が日本の『職員令』『王年代記』と共に運んだ銅器十余事に詰められていた黄金であったのではないか、と云うのが私の読みである。

 奝然は、仏典を求めて中国に渡ったのではない、単なる僧侶ではない。王朝の密命を受けて宋を訪れたのだ。膨大な貢物は、一介の僧侶に用意できる範囲をはるかに超えていた。正史『宋史』は、それを一々記録しているのである。
 奝然は、平安王朝の密使に違いないのだ。平安王朝は、公にできない願い事を奝然に託して宋朝に送ったのだ。『旧唐書』の日本記事を何とかしてくれるよう頼みこんだに違いない。『旧唐書』の日本記事は、平安王朝の正統性を否定するものであったのだから。
『王年代記』を持って行ったのは、そのためだろう。奝然は、日本には王朝の交代がなかった、易姓革命は一度も起きなかった、と熱弁をふるったのではないか。宋の二代皇帝・太宗が、それに感心したのであった。中国皇帝の最大の悩みは、いとも簡単に革命が起きることである。唐が滅んで宋朝が出来るまでの五十年ばかりの間に五王朝が交代した。
 太宗が、奝然の願いに同調したことは十分に考えられることである。易姓革命のない国があっても良い、いや理想はそうであるべきだ、と太宗が考えたらしい。『旧唐書』の日本記事を、何とかしてやる、太宗は奝然に約束したのではなかったか。帰国後、弟子・嘉因に持たせてやった膨大な貢物は、それにたいする御礼ではなかったのか。
 中国に、日本は金の大産出国であるとの認識が生まれたのは、奝然の訪問に始まっている。
 『新唐書』編纂の動機は、意外にこの辺にあったのではないか。『新唐書』は『旧唐書』の欠を補うために編纂されたというが、『旧唐書』より信頼性が低いというのが定説である。いったいどういう事だ。ちょっと軽蔑されているような歴史書に見えるのだ。
岩波文庫『旧唐書倭国日本国伝・宋史日本伝・元史日本伝』を編集された石原道博先生も、『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性は優ると認めておられる上で、『新唐書』は『旧唐書』の「倭国と日本国を併設するような不体裁なこともなく、記事も整っている」と書かれているのはどうしたことであろう。
 少なくとも日本の王朝にとって『旧唐書』の他に『新唐書』が成立したことは非常にありがたい事であったのだ。

[2408]『旧唐書』と『新唐書』の間
投稿者:守谷健二
投稿日:2019-06-07 14:16:31

   守谷健二です。2402(5月20日)の続きです。

 日本の王朝の万世一系の歴史は、誰によって創られたか?という問題です。
 これは、『日本書紀』『古事記』をきちんと読めば、誰にでも解ることです。


 両書とも、天武天皇によって編纂を開始された、と明記します。『古事記』序は天武天皇の言葉として「朕聞きたまへらく、『緒家の齎(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年を経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」
 有名な「削偽(さくい)、定実(ていじつ)」と呼ばれる文章を残す。天武天皇は、「壬申の乱」と呼ばれる大内戦(1カ月にも及ぶ戦いで)で勝利して即位した天皇だ。平和な禅譲で即位したのではない。
 天智天皇の後継者は、天智の長男の大友皇子に決まっていた。その大友皇子を滅ぼして皇位に就いたのである。天武は、簒奪者であった。それ故に「正統性を創造する」必要があった。
 天武の勝利の要因は2つある。
 一つは、大友皇子が、美濃尾張を中心に二万人もの百姓を徴集していたこと。この大集団を、何の抵抗も受けずに一夜にして手に入れた事。
 もう一つは、大和の古い名門貴族の大伴氏が天武に付いて蜂起したことである。
 大友皇子(近江朝)は、天武の決起を全く予期していなかった。天武が美濃尾張の大集団を手に入れ、不破関(関ヶ原)を封鎖してから、初めて異変を知ったと云うのだ。
近江朝が、異変に対応すべく準備を始めたら、いきなり大和で大伴氏らが蜂起した、と『日本書紀』は記す。近江朝にとっては、全くの不意打ちであった。騙まし討ちと云ってもいい。
 では、大友皇子は五月、六月の農業に大事な時期に二万もの百姓の徴集を開始していたのだろう。
 この年(西暦672)の五月の末日まで、唐の使者・郭務宋が筑紫に滞在していた。前年の十一月に二千の兵を率いて来ていた。
 朝鮮半島では、668年に高句麗を滅ぼすことに成功するが、半島経営をめぐり唐と新羅の戦争になっていた。新興の新羅の前に唐軍は苦戦していた。
 唐は、倭国に対し派兵を求めたのではないか。しかし倭国は、既に日本国(天智天皇)の臣下になっていた。倭国は交渉を日本国に丸投げするしかなかった。郭務宋の半年にも及ぶ異様に長い滞在は、日本国との交渉を物語っているのではないか。
大友皇子は、唐の要請を受け入れ美濃尾張で徴収を開始していたのではないか。天智天皇は、百済からの亡命者(数千人)に美濃・尾張に荒野を与え自活を促していた。彼らを中核とする新羅討伐軍を編成していたのではないか。
天武は、初めからこの一団を手に入れることをめざして決起したのである。其れに運命を掛けていた。天武の決起は、明らかに謀反、騙まし討ちである。
 故に、天武はどうしても正統性を欲した。正統性を創造する必要があった。


【追記 2021.5.5】

[3126]『旧唐書』と『新唐書』の間 投稿者:守谷健二
投稿日:2021-05-04 12:14:54   

   お久しぶりです。守谷健二です。
 性懲りも なく『旧唐書』の話を書きます。平安王朝から明治政府、第二次世界大戦の敗北まで、日本の権力は『旧唐書』を隠し続けてきた。『旧唐書』の欠を補い、誤りを正すために編まれた『新唐書』があるのだから、欠陥「史書」である『旧唐書』を見るまでもない、という理屈でした。『新唐書』だけを『唐書』と扱っていました

しかし、これは日本だけの現象だったのです。『旧唐書』と『新唐書』を比べて見れば、『新唐書』の方が誤りが多いことは、一目瞭然なのです。

 詩人・李白が乗船中、酒によって水面に映る月を取ろうとして船から転落して死亡した、と云う有名な俗説をさも事実のごとく書き入れているなど、『新唐書』は、「史書」としての資質を問われるような記事を多く採用している。

 『資治通鑑』は、司馬光が英宗の詔で1065年~1084年の間に編纂したが、司馬光は『新唐書』(1060年に上梓)には目もくれず、全面的に『旧唐書』(945年上梓)に依拠して「唐記」を造っている。『新唐書』は完成した当初から問題の多い「史書」と認識され、中国では少し軽蔑されている「史書」だ。

 日本だけが『旧唐書』の不備を補い、より完璧に近づけた正当な史書として『新唐書』を崇め奉り尊重して来たのである。
 何故なら『旧唐書』は、日本記述を、「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作っている。七世紀半ばまでを「倭国伝」(663年の白村江の戦は、倭国が相手であったと明記する)で作り、「日本国伝」は、703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事で始めている。

 つまり、663年から703年の間に、日本では代表王朝の交代があった、というのが『旧唐書』の認識である。
 これに対し『日本書紀』は、日本国の開闢以来、王朝の交代はなく「万世一系」の天皇によると統治が続けられてきた、とする。これが日本の王朝の正統性の根拠であった。日本の王朝にとって『旧唐書』は何とも都合の悪い、否定しなければならない存在としてあった。

 それに対し『新唐書』は『日本書紀』と同様、日本国は、天御中主を祖とする「万世一系」の天皇の統治する国と書きます。
 『旧唐書』の完成は945年、『新唐書』の完成は1060年です。この百十五年の間に、中国の認識を変える何か特別な事件があったはずです。これを探るのが今回のテーマです。

『新唐書』が『旧唐書』と異なり、日本では王朝の交代がなかった、とする根拠は、東大寺の僧・奝然が太宗に献上した『王年代記』に拠ってである。

 つまり、宋代に新たに手に入れた資料によって『旧唐書』の記述を変えたのだ。これは本来禁じ手のはずである。『王年代記』は、唐代には存在していない史料である。『王年代記』は、日本の平安王朝の主張に過ぎないのだ。それに基づいて正史『旧唐書』の記述を書き換えるなど行ってはいけないことだ。前代未聞の事である。しかし、日本の王朝にとってこの上ない好都合であった。

 奝然は、『王年代記』だけを献上したのではない、銅器十余事も献上している。これらの銅器は、日本の奥州で採れた黄金で満たされていた。

 歴史学研究会編『日本史年表』(岩波書店)は「982年、陸奥国に唐人に給する答金を貢上させる」と書く。
 この『年表』は、三百九十
ページにも及ぶ歴史学研究会が総力を結集した現在の日本で最も詳細で信頼のおける『年表』である。

 奝然が、中国に渡るや、即座に皇帝・太宗に謁見を許された秘密もここに在ったのだろう。
 奝然が帰国後、988年、今度は奝然の弟子の嘉因が目も眩むような豪華な宝物を持参して宋を訪れている。その宝物の詳細な目録を『宋史』は記す。まるで正倉院宝物の上等な部分をごっそり運んだような印象である。当時の僧侶は、国家公務員で奝然も嘉因も王朝の命で宋に渡ったことは明らかだ。

 当時、アラビアの冒険商人たちが、インド洋からマラッカ海峡を経由する海路を開拓し、しばしば中国を訪れるようになっていた。陸路のシルクロードで運ぶより大量の品物を運ぶことが可能になっていた。その為、中国国内の商工業は盛んになり、沿岸交通も活発化していた。
 894年、日本の遣唐使は廃止されたが、民間の交易船がしばしば筑紫を訪れるようになっていた。

 日本が求める人気の品物に「経史、文籍」の類があったことは数々の資料により明らかである。当然宋の商人たちも心得ていただろう。最新の正史である『(旧)唐書』(945年上梓)を持ってきたに違いないのだ。

 その『旧唐書』を見た平安王朝は、驚愕しただろう。王朝の連続性、天皇が「万世一系」であることが、日本統治の根拠である。『旧唐書』は、それを否定する。何が何でも『(旧)唐書』を書き改めてもらわなければならなかった。平安王朝は、藤原道長の時代が始まる直前、『源氏物語』が書かれる直前で、全盛期を迎えようとしていた。
 宋朝に『旧唐書』に替わる正史『唐書』を書いてもらう、と云うのが平安王朝の固い決意であったろう。

 宋朝にも問題があった、海洋貿易が活発になり、国内の商工業が盛んになり、国民の生活も豊かになり、当然税収も増えたのだが、宋王朝の台所は常に火の車であった。

 北辺に遊牧騎馬国家の「遼」が重くのしかかり、中国古来の領土と信ずる燕州(今の北京中心)も領土とし、中原に肉薄していた。
 宋朝は、王朝成立の当初から燕州回復を試みたが、一度も勝つことが出来ず、反対に毎年膨大な金銀、絹、食料、美女などの貢納を義務付けられたのであった。宋朝は、お金で平和を贖はねばならなかった。宋は「遼」の属国であった。

 日本からの黄金や宝物は、宋の台所の大いなる助けになったのである。新たな『唐書』の完成時には、さらなる黄金の献上も約束した。
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』の「ジパングの黄金伝説」と元の皇帝フビライ・ハンの日本に対する異常な執着は、この時の副産物である。

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めい

2021.5.5、「[3126]『旧唐書』と『新唐書』の間」を追記しました。
by めい (2021-05-05 10:54) 

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