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mespesadoさんによる1億人のための経済談義(68)結城豊太郎をどう評価するか(2) [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

5/21「放知技」板にこう書きました。>>39 mespesadoさん/結城豊太郎がmesさんの目から見てどういう人なのか知りたい、そういう思いがあっての結城豊太郎記念館の設定でもありました。「なんとなくの偉い人」はわかるけれども、日本の歴史の流れに位置づけるとするとどうなのか、どうもそこがピンとこなかったわけです。まして「放知技」板では人殺し扱いされた白川前日銀総裁から尊敬を受ける人です。館内でお聴きして私なりに理解したmesさんの所見、「多くの人脈を活かしつつ、当時の情勢をしっかり判断し決断できた人。しかしそれをそのまま今に当て嵌めようとするのは誤り。」それだけでもありがたかったのですが、さらにここで結城豊太郎について書いていただけることは、私にとっても、南陽市民にとってもすごい収穫です。よろしくお願いします。》

「結城豊太郎は正しい判断ができた人だった」というのが結城記念館でお聞きしたmesさんの感想だったのですが、いまその内実がよくわかりました。ゾクゾクしながら読みました。目からウロコです。結城と白川前総裁とでは見ている方向が全然違うのです。結城は、国民経済にとって何が大事かをしっかり見ていたのです。実体経済の改善こそが大切で、通貨政策はそれに劣後する》ということがしっかりわかっていたのです。日銀という通貨政策が主業務のはずの日銀で、よくぞあえて本質を主張したものだ》というmesさんの評価です。
東北一郎会の懇談会では今後掘り下げるべき多様なテーマが提示されました。「民と官」もそのひとつです。出世外人さんにとってのいちばん切実な問題意識と思えました。資料の議論拾遺の39pにもとりあげましたが、「国内をしっかり固めて」ということですが、具体的には、民間が官僚機構の「奴隷」であることをやめて、疲弊から転じて「民力」を蓄えていくことが鍵になるのではと思います。》と「放知技」板で書いておられます(>>392)。結城豊太郎と白川前総裁の比較で、この「民と官」の議論を思い起こしました。出世外人(出世から外れた人)さんだからこそ見えるものがある、結城豊太郎にはその「民」の目が活きていたのです・・・というより、「民」感覚そのものだった、と言ったほうがいい。mesさんによってそのことを気づかされました。
結城豊太郎の所蔵品に雲井龍雄の書幅と書簡が各一点あります。結城豊太郎が雲井龍雄とどうリンクするのかわかりませんでした。それなりに出回っていたであろう雲井の書からなぜこの書幅と書簡が選ばれたのか。結城の心を動かすものがあったにちがいありません。そこから結城にとっての「民と官」の何かがわかりそうな気がしました。書幅は「多年期萬死(多年萬死を期す)/天外一書生(天外の一書生)/宿懐久無止(宿懐久しく止むこと無く)/勿誰語此情(誰か此の情を語る勿らん)」です。書簡については、mesさんレポートの報告旁々あらためて記念館に出かけて見せてもらってきます。
*   *   *   *   *
539:mespesado:2019/05/24 (Fri) 22:51:37

>>522
 白川前日銀総裁による講演の続きです。次はいよいよ結城豊太郎に対する論評です↓
https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2018-10-17

 ここで白川氏は、結城豊太郎が昭和11年に大蔵大臣に就任したとき、前任の馬場大臣の軍事予算拡大方針を軌道修正して予算を1割削ったとか、軍部の抵抗で辞任したあと日銀総裁になったあとも国債の日銀直接引き受けに必死で抵抗した様子について語ります。
 おそらく経済・金融に詳しかったであろう結城豊太郎がこのような財政拡大に抵抗したのは、当時の日本の生産供給力がぎりぎりの状態で、軍事支出を拡大すると、そのあおりを受けて、一般消費財の供給不足が更に深刻化して悪性インフレを起こすことがわかっていたからだと思います。
 さて、このような結城豊太郎の財政に対する考えを紹介する白川氏ですが、当の白川氏自身はこのような結城豊太郎の方針をどう評価していたのでしょうか?
 それは次の発言にはっきり表れていると思います↓

> さらに戦争が終わった昭和20年末は233億円と10倍以上、昭和22年末には
> 2,188億円と100倍以上になっています。お金の供給が大変に増え、当然
> インフレになってきます。
>  戦中についても戦後についても、物価統計は残っていますが、当時は
> 価格統制が敷かれているため物価指数をみても本当の物価はよくわかり
> ません。いずれにしても、最終的には大変に激しいインフレが起きてし
> まったということです。

  ここで昭和22年というのは要するに終戦後2年経過後です。つまり、白川氏はここで終戦直後の2年間でオカネの量が100倍になってしまった、と言ってい るわけですが、次の段落によると、戦中の統計が残っていて、その統計によると、戦中戦後の物価は「価格統制が敷かれているため物価指数をみても本当の物価 はよくわかりません」と発言している。この発言に注目する必要があります。つまり、この発言は、白川氏としては戦中戦後にこんなに通貨を増やしたんだか ら、当然にインフレになったはずである。ところが物価指数という客観的な統計データを見ると、さほどインフレになっていない。これはおかしい。きっと価格 統制が敷かれたからだな、という発想をしているように見えます。
  白川氏はこの発言で「激しいインフレ」が起きたことを問題にしていますが、インフレが問題なのではなく、このインフレ(悪性インフレ)は、戦争による生産 設備の崩壊で極端な供給不足が生じたことによる結果に過ぎず、生産設備が破壊され供給不足が生じたことこそが問題なわけです。事実、昭和24年にデトロイ ト銀行のジョセフ・ドッジの指導でドッジラインと呼ばれる超緊縮経済政策が実行され、物価は安定するのですが、貸し渋りや企業の倒産で失業が増加し、「安 定恐慌」と呼ばれる状態になりました。つまり、私が18日の講演でも説明したように、悪性インフレのときは、通貨の供給量を絞ることでインフレ率だけ下げ るようなことをしても根本の解決にはならず、モノの生産力を回復することを第一に考えなければ本質的な解決にはならないのです。
 白川氏はまた、

>  結城総裁は、昭和16年12月31日の職員向け挨拶の中で、「日本銀行と
> いう重大な責務を背負って居る所に働く我々の職責は、戦費の調達、生
> 産資金の供給、通貨の調節という経済界として最も大切な事であります」
> といったことを言っています。最後に登場する「通貨の調節」という言
> 葉は、結城総裁の悲痛な叫びのように聞こえます。

な どと述べていますが、この「通貨の調節」というのが結城豊太郎の「悲痛な叫び」というのは白川氏の勝手な勘繰りではないかと思うのです。なぜなら、結城豊 太郎は、「我々(=日銀)の責務」として、まず「戦費の調達」、次いで「生産資金の供給」、そして3番目に「通貨の調整」という順番で述べていますから、通貨の調整よりも戦費や生産資金の供給の方が大事だと考えているわけです。つまりこれは、実体経済の改善こそが大切で、通貨政策はそれに劣後するということであり、日銀という通貨政策が主業務のはずの日銀で、よくぞあえて本質を主張したものだな、と私なんかは思うわけです。
 ところがこのような結城豊太郎の実体経済優先主義に対して白川氏は3番目の通貨の調整こそが一番大事だ。きっと結城もそう思っていたに違いない、と勝手に解釈して「悲痛な叫び」などと勝手な想像をしているように見えます。
 さて、このように見ていくと、結城豊太郎は、別に反戦思想から軍事支出を抑えようとしたわけではなく、もともと当時の日本の生産力に見合ったマネーの供給による経済の活性化を 心がけていたが、戦争が激しくなり、戦費の調達が優先されて、この生産力に見合った通貨の供給という理想が貫けなかったことを悔いているように見えます。 これに対して白川氏は日本の供給力の大小に関係なく、日本銀行の任務はとにかく「過度なインフレ」を抑えることである、と考え、この自分の考えを結城豊太 郎に投影しているように見えます。
 白川氏が現代の日本で日銀総裁の職にあった時に、戦中戦後のような供給不足から供給過多の時代になったにもかかわらず過度なインフレを恐れて緊縮財政に加担したのは、このように考えるとよくわかります。もし実体経済を重んじる結城豊太郎が今日生きていたら、頭の良い豊太郎のことですから、あるいは供給不足から供給過多の時代に変化したことを敏感に嗅ぎ取って、金融緩和と財政出動の合わせ技の重要性を力説したかもしれません。(続く)

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